中編6
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冬木立

今にも泣きだしそうな鉛色の空の下、

葉を落とした木々が北風に吹かれている。

ランチタイムの繁忙が過ぎて客がいなくなった喫茶店の、

一番奥にある窓辺側の席で、週刊少年漫画雑誌を読みながら、

俺はコーヒーを啜っていた。

住んで十年以上になるアパートから一番近い喫茶店。

何の用事も見つからない休日の午後は、決まって俺はここで暇を潰す。

日が落ちて晩飯の心配をする時間まで。

『Simon & Garfunkel』の『The Sound of Silence』が静かに流れはじめた。

テーブル上の灰皿は吸い殻で小山が築かれている。

すっかり冷えてしまったコーヒー…

店員が注ぎ足していってからしばらく経つ。

アコースティックギターのみの美しい旋律と溜息を漏らすような歌いだし、

読み止した漫画雑誌を膝の上へ置き、

腕を組んで目を瞑り、耳を傾ける。

映画『卒業』のテーマ曲でもあった。

ベンと花嫁姿のエレーンが手に手を取って教会を飛び出し、

バスへ乗り込むラストシーン。

乗客はなぜか老人ばかりで、

最後尾の座席へ腰を下ろし、周囲の視線を集める中…

二人の顔から笑みが消える。

前を向く視線は宙をさ迷い、表情は厳しく…

二人を乗せたバスはどこかへと走り去っていく。

そこでこの曲が流れる…

未来への不安…戻ることは許されない現実、覚悟と諦め…

俺には出来なかった…

考えてしまう、今までよりも長い茫漠たる時間を二人で過ごす重圧…

俺に彼女を守る力が無いことに気がつく。

俺に彼女を包む強さがないことを理解して呆然となる。

金銭的、物質的な幸せを彼女に与えてやることのできない甲斐性の無い自分に…

彼女の心変わりが怖かった。

俺はそれを誰かに背負わせることに…委ねることにして逃げた。

韜晦と逃避で出来た鎧を着込み、

悲しみと後悔が、以降の…俺の心に降り積もっていく。

重苦しさと喪失が齎す静寂の中で語られる

おとぎ話…

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その時、入口のドアベルが小気味良く鳴り響いた。

マスターの出迎える声、

そこで終わらず客と二三の言葉が交わされる。

渋みのあるバリトンに温かみを感じるのは、

暫く顔を出さなかった常連ででもあったのだろうか。

残念な事に入口へ背を向けて座る俺には見ることができない。

そこで突然、俺の名が呼ばれた。

心臓が激しく鳴って息が詰まり、胸が苦しくなる。

忘れていた声…いや、忘れたことなどなかった声、

忘れられぬ声…

振り向いた俺の瞼が極限にまで開かれた。

苦笑いをして見送るマスターを背にして、

コツコツと靴音を鳴らし、一人の女性がこちらへやってくる。

僅かに内向きの入ったベージュのセミロングが揺れて宙を舞う。

力あるヘイゼルの瞳、強い笑みの浮かんだ唇からは片八重歯が覗いていた。

すらりとした長身にフォックスファーの付いたムートンコートがとてもよく似合っている。

「綺麗だ。あの時から時間が止まったみたいに、まるで変わっていない」

「京ちゃんなら、そう言ってくれると信じてた」

十年前に別れた彼女が以前と変わらぬ姿のまま、俺の目の前に立っていた。

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温かく光満ちていた夢の中から、いきなり追い出される。

身を起こして室内に異変がないかを確かめた。

暗闇の中、家電に付けられたLEDが放つ光点。

淡い緑色に光る、夜光塗料で塗られた壁掛け時計の文字盤。

枕元で充電中の携帯電話。

僅かな唸りをあげるエアコンの作動音。

俺の隣で安らかに寝息を立てる明里を認めて安堵の溜息を吐く。

あれから一ヶ月が過ぎた。

馴染みの喫茶店で再会した俺と彼女はマスターに見送られて店を出ると、

当時、金があると二人で行った洋食屋へ向かい、

思い出話に花を咲かせた。

夜も更け…帰りたがらぬ彼女を誘うと俺の部屋までついてきて、

明け方に別れの言葉もなく出ていった。

高学歴で良家に生まれ育った見合い相手を選んだ彼女を

いつまでも忘れる事ができず、在りし日の思い出残るこの街に棲み続ける。

いないと分かっている彼女の姿を探し求め…

未練を引きずる俺とは違い、彼女は別れと同時に余韻もなく角を曲がり、

立ち尽くす俺の姿を視界から消した。

何故にと問いたい。

何故、今頃になって…

耳に残る薄明りの中でのろのろと衣服を身に着ける衣擦れの音…

指と唇に残る彼女の肌の感触と、鼻腔に残る彼女の香り…

そこに答えがあったのだろうか…

喉の渇きを覚え、俺はベッドから出ようとした。

その時、短い廊下へ出るドアが開いていることに気がつく。

淡い燐光に包まれた一糸纏わぬ女性が一人、立っていることに気づく。

まだ、俺は夢の続きを見ているのだろうか…

浮かぶべき恐怖がまるで湧き上がってこない。

女性は項垂れ、前髪に隠れて顔は見えない…

僅かに垂れた大きめの乳房、二の腕に腰に太ももに肉がつき、

だらしない印象を受ける体形…赤く下腹部に走る帝王切開の痕…

なぜか俺はそこに彼女を見た気がした…

足をつけると痛みを覚えるほど冷えた床。

近づく俺に気がつき、女性は顔を上げた。

淡い光に包まれた相貌が明らかになる。

悲鳴をあげそうになった。

閉じた両の瞼に太い釘が深く刺さっている。

頬から首、肩へ流れたような黒い染み…両耳が削ぎ落されたように無い。

引き結ばれた口が太い糸で縫われていた。

唇からはみ出した片八重歯…

「その女性(ひと)に触っちゃだめ!」

背後から鋭い声が俺に飛んだ。

いつの間にか起きていた明里のものだった。

しかし、目の前にいるのは…変わり果てているとはいえ、これは彼女だ。

彼女に違いない…

触れるなという明里の言葉…

目も耳も口も塞がれた顔で、気配で誰かを探すような素振りをみせる彼女…

抱きしめられる距離にいるというのに…

「それに触れては…行ってはだめ!」

戸惑っている間に彼女は淡い光の中で形を崩し、

消えてしまった。

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コーヒーから立ち上る白い湯気。

店員が中身の減ったカップへ注ぎ足し、一礼して去っていった。

俺のアパートから一番近い喫茶店…窓際の席。

一週間、連絡つかずだった明里にメールで呼び出されたのだが、

挨拶以外の言葉は無く、彼女はずっと向かいの席に俯いたままでいる。

口を開けばお互い、あの夜の事を喋る以外に無い。

寝室へ突然現れて消えた女性…十年前に付き合っていた彼女の事を…

あの後、ベッドの上で震える明里に語って聞かせた。

何もかも…再会してあの部屋で彼女と一夜を過ごしたことも。

再会した時は十年前と変わらぬ姿をしていたのに…

惨たらしく傷ついた相貌…

脳まで達していただろう、瞼の上から打ち込まれた太い釘…

削がれた両耳と、太い糸で縫いつけられた口…

「彼女はもう、死んでいるということなのだろうか?」

幽霊…いままで存在を信じたことも考えたこともなかった…

あの夜に見たのは…

いや、再会した時点で彼女はすでに…

そういった類のモノになっていたのだろうか…

「…生きて、いると思うよ…」

”やっぱり…この部屋に女の匂いがすると思ってたんだ”と言う…

女の声を明里はあの夜に聞いたそうだ。

”京ちゃんがわたしと付き合っている時も他の女の匂いがしていた”とも。

「たぶん、目も耳も口も必要が無くなったのだと思う…」

見ることも聞くことも喋ることも…それは死んでいると暗に言っている事じゃないか。

明里は違う違うと頭を振った。

「彼女を探すのはやめてあげて。

 男と違って女には過去なんてないの…今があるだけ…」

明里はハンカチを取り出して溢れ出る涙を拭う。

他に彼女から何を聞かされたか、何を知らされたか…それ以上は語らなかった。

すすり泣く明里から窓の外へ俺は目を向ける。

葉を落とした木々が鉛色の空の下、

今日も風に吹かれて寒そうにしていた。

(了)

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ネタバレ注意

不思議かつ、悲しいお話ですね…
幻想的な世界観で…脳をフル回転致しました。
全容が気になりますが、そこはぼかしているからこそのお話しなのでしょうか…
また、楽しみにしております。

こげ姐さん、何でも俺に聞いて下さい!今の俺があるのも「師匠」であるこげさんのお陰だと言っても過言ではありません…ひ…

ここは優しい読者や素晴らしい作家さんが溢れています。これからも末永く宜しくお願い致します候…ひひ…

ロビンM太郎.com

あけましておめでとうございます♪
>ロビン様♪
こちらにおいででしたか♪
コメントありがとうございます。
元カノさんはジブリの風立ちぬよりも、もっと遠まわしで輪郭をぼかして書いてしまいました。
分かりづらくてごめんなさいm(_ _)m
こちらでもよろしくお願いします♪

大晦日に登録したので全然、使い方とか見方がわかってないので
いろいろ教えてください(T人T)お願いします~

>ラグト様♪
おお!黒川さんシリーズの作者様が♪(T▽T)
はじめまして♪シリーズ全作読ませていただいてます!
私、ラグト様みたいな物語書きたいなと以前から憧れていたのです♪
恋する魂と孤独の山とか、あと…他にも四人で囲む…あと、駅前で乗り降りする…
私の書くのって無駄に長くて蘊蓄多寡で脱線多くて寒いネタ多いと言われてるので…(T_T)
ありがとうございました♪
これからもよろしくお願いします♪m(_ _)m

初めてコメントをさせていただきます、ラグトと申します。

こげ様、作品を読み終えてもうただ繊細な文章とミステリアスな展開にため息が出てしまいます。
こういう文章が憧れでもありますし、このような不可思議な怪異をうまく絡ませていきたいと思っているのですが、私にとっては本当に構成が難しいのです。

新年から有意義な良い作品を読むことができました、ありがとうございます。

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