中編7
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臭い(におい)

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俺は最近、ストーカー被害に遭っている。

問題の相手は会社の先輩、40過ぎの女性N。

はじめは新入社員の俺に色々世話を焼いてくれてんのかな、と思っていたが、そのうち仕事のこと以外でもやけにベタベタしてくるようになり、正直勘弁してほしいと思うようになった。

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男性の先輩社員たちは、

「おいS(俺のこと)、お前愛されてるな」

「もうつきあっちゃえよ」

「いっそ結婚して寿退社させちゃえよ」

とか茶化してくるが、実際笑い事じゃない。

明日も会社でNと顔を合わせると思うと、憂鬱になる夜も増えていった。

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俺がデスクでPCに向かっていると、Nが後ろに立って覗き込んでくる。これも厭でたまらない。

Nが背後に立っているのは、振り返らずとも分かる。

気配とか、そういう曖昧なものじゃない。

臭いだ。

Nの付けている香水の、そのむせかえるような臭いが、嫌でもNの存在を俺に知らせるのだ。

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Nの香水の臭いの強烈なことは、たとえNの姿が見えなくても、さっきまでそこにいた、その後あっちに移動した、と推理できてしまうくらい濃厚な残り香を残す程だ。

その臭いも、俺にとって厭で厭で堪らないものになった。

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そしてその厭な臭いが、会社だけでなく、俺の住むアパートの近くでもするようになった。

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ある日曜日、俺が買い物に行こうとアパートの階段を降りていた時、一階に着いたあたりで不意にあの厭な臭いが鼻についた。

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俺は思わず周囲を見回した。

階段の裏、壁の陰。

Nがそこにいるのではないか、とキョロキョロ視線を巡らす。耳もすます。

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しかし、どこにもNの姿はなかった。

ただ、くっきりと形を持ったような残り香だけがそこにあった。

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翌日の月曜日、出社した俺はNの様子を観察した。

特に普段と変わった様子はない。

相変わらず、俺にベタベタとちょっかいを出してくる。

やはりいつものあの香水を付けていた。

その臭いは、前日に嗅いだあの臭いと同じもののように思えた。

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そんなことが度々起こった。

自宅の周辺、例えば最寄りの駅の改札、近所のコンビニ、アパートの近くの電柱、そして自宅のドアの前。

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相変わらずNの姿はない。

だが俺の勘違いとは思えない。

俺は意を決して、Nの尻尾を掴むべく自宅アパート近辺を警戒することにした。

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これまでの経験上、週末になると特に多くあちこちに臭いを感じる。

そこで敢えて一日外出を控え、部屋の窓からアパートの前の通りを見張ることにする。

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午前中、午後と日の出ている時間帯は異常なかったが、夕方になり、通りの街頭に明かりが灯る頃になると、不審な人影が目につくようになった。

俺は不在をよそおうために明かりを消したままの室内から、その人物を観察した。

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マスクで顔を隠した、黒っぽい丈の長いコートを着た人物。

それは通りの向こうから現れ、電柱の陰からしばらく俺の部屋の方を眺めていた。

そしておもむろにアパートの入り口の方へと移動し、姿が見えなくなった。

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俺は今度は部屋のドアの前に移動して外の気配を伺った。

少しすると、

-ーコツ、コツ、コツ、コツ

部屋の前の廊下を歩いて向かってくる足音を聞いた。

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厭だったが、意を決して音を立てないようドアスコープを覗く。

先程の不審な人物の姿がそこにはあった。

顔をマスクで隠してはいるが、目元には見覚えがある。やはりNだ。

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Nはしばらく俺の部屋の前にたたずんでいた。

ドア越しに、俺とNとが向かっている構図を思い浮かべて鳥肌が立った。

そのドアを開けて怒鳴り散らすことも考えたが、廊下に立っていたNがおもむろにドアに近付いてきて、ドアスコープの向こうから逆にこちらを覗き込んできたことで、思わず後ろに飛び退いてしまった。

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再びドアスコープを覗く勇気が出ず、俺は玄関に立ち尽くしていた。

ドアの外から

-ーゴッ

-ーガッ

と、何かをドアに当てているような小さな音が聞こえていた。

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そのまま息を殺していると、やがて

-ーコツ、コツ、コツ、コツ

と、遠ざかっていく足音が聞こえてきた。

次いで階段を降りていく音。

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俺は辺りが静かになってからたっぷり30分は間を開けてから、恐る恐るドアを開けた。

廊下には誰もおらず、ドアにも変わったところはなかったが、あの厭な臭いはドアからたっぷりと臭ってきた。

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翌日、俺は会社でNに話がある、と告げた。

そして空いている会議室に移動する。もちろん他の社員に聞かれないためだが、Nは勘違いしているのか嬉しそうに俺の後を付いてくる。

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会議室のドアを閉めると、俺は単刀直入に話を切り出した。

昨日、自宅の周囲をNがうろついていたのを目撃していたこと、正直迷惑なのでやめてほしいということ、もしやめない場合は他の社員に相談するつもりだ、ということを伝えた。

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Nははじめ驚いた顔をしていたが、その後言い訳をしようと愛想笑いを浮かべ、その余地すら与えられないと知ると不機嫌な顔になり、迷惑という言葉に悲しそうな表情をしたかと思うと、他の社員に相談の下りで完全に無表情になった。

俺は話を終えると、うなだれるNをひとり残し会議室を後にした。

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翌日からNは休みがちになり、2ヶ月後には会社を辞めた。

男性の先輩社員たちからは

「お前、Nのこと振ったな?可哀想に」

などと茶化されたが、俺は心底清々していた。

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Nが辞めた日から俺の体は面白いように軽くなった。

これまで自分でも無自覚なうちに、どれだけNからストレスを被っていたかという話だ。

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だがNが辞めた直後に一度、こんなことがあった。

NのPCを処理していた社内のシステム部の人間から、

「Nさん、お前からのメールだけフォルダ分けして全部取ってあったぜ?」

と聞かされたのだ。

その時だけは、胃がズシリと重くなるのを感じた。

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そのことを除けば平穏な日々が続いた。

Nから解放された俺は仕事に精を出し、大きなプロジェクトにも参加させてもらい、忙しくも充実していた。

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ある夏の日のこと。

仕事で帰りが夜遅くなり、疲れた体を引きずってなんとか自宅アパートに帰り着いた俺は、ドアの前で不意にあの厭な臭いを嗅いだ。

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臭いは俺の脳裏に一瞬のうちにNの像を結ばせ、夏だというのに鳥肌を吹き出させた。

俺は辺りをキョロキョロと見渡した。

アパートの無人の廊下が広がっているばかり。

階下を見下ろしても猫の子一匹見当たらなかった。

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それから、また度々あの厭な臭いを嗅ぐようになった。

最寄りの駅の改札、近所のコンビニ、アパート近くの電柱、そして自宅のドアの前。

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-ーいる。

俺の周りにNがいる。

俺は恐怖した。そして必死になってNの姿を探した。

最寄り駅に張り込んだ。

コンビニでも長時間立ち読みをした。

前と同じように留守のふりをして、部屋からアパートの前の通りを見張った。

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しかし、Nを見つけることはできなかった。

確かに臭うのに。

厭な、臭いが。

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Nを探すことにせっかくの休日を使いきり、徒労感に浸りながら部屋のベッドに倒れこんだ俺は、普段使っている枕から、あの厭な臭いが漂ってくるのに気が付いて、夜中にひとり大声をあげた。

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俺はすっかり参ってしまった。

ストーカー被害として警察に相談しようにも、姿を見せているわけでもないし、電話やメールをしてくるわけでもない。

ただ、臭うだけなのだ。

厭な、臭いが。

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臭いだけで物証になるのかは、甚だ心もとない。

俺の勘違いかもしれないし。

いや、勘違いとは思えないのだが。

眠れない日々が続いた。

体がいつも怠かった。

頭は、鉛を入れられたかのように重かった。

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ある夜、俺はひとりで残業をしていた。

ここのところ体調が優れなかったせいか、細かいミスを連発してしまい、仕事が終わらなかったためだ。

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広いフロアには俺ひとり。

自分の部署のエリアだけ照明を点けて、その他は消灯している。

早く帰りたいと思いながらも、作業は遅々として進まない。

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PCの画面を見つめ、どうやって資料をまとめるか思案していると、不意に背後からあの臭いがした。

Nがまだ会社にいた時、俺の背後に立ってPCを覗き込んできた時の、あの感覚。

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ぎょっとして、俺は背後を振り返った。

真っ暗なフロアに整然とデスクが並んでいる。

Nの姿はない。

当然だ。こんな時間だし、会社を辞めてセキュリティカードも持たないNが入って来られるはずがない。

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俺はかぶりを振った。

ノイローゼという奴だろうか。

こんな時にNの臭いがするなんて。あり得るはずがないのに。

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その時、目の前の席のイスが

-ーギッ

と音を立てた。

そこは、Nがよく座って俺に無駄話を振ってきた席だ。

その席からあの厭な臭いが漂ってくる。

形を持っているかのような、濃厚な臭いが。

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今度は右の部長の席から

-ーカタッ

と何かがずれる音がした。

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少し離れた隣の部署の机。

-ーカタン

さらに離れたホワイトボード。

-ーギギッ

フロアの入り口近くのゴミ箱。

-ーコツン、パタン

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小さな音がまるで移動するかのように、連鎖して鳴る。

俺は音のした方を目で追いながら、呆然と立ち尽くしていた。

そして再び静寂が戻った。

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俺はノロノロと足を動かした。

部長の席-ー

他部署の机-ー

ホワイトボード-ー

入り口のドア-ー

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そのすべてに、そしてそれらに向かう通路のすべてに、あの臭いが残っていた。

Nの付けていた香水の、むせかえるようなあの臭いが。

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翌日、俺はNと仲の良かった女性社員のTに、Nの近況を訊いた。

Tは意外そうな顔をして応えた。

「Nさん、会社辞めた春先に亡くなってるよ。-ー自殺、だって。知らなかった?」

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珍味様、五感に響く恐怖を。

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