中編6
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レスキュー車の男

数年前、大きな台風が来た夜のこと。

sound:6

同僚Yは出張からの帰途、浸水する道路を必死で走行していた。時間は零時近く。夕方過ぎから警報も出ていたので、その頃は車通りもほとんどなく数十メートルおきに置かれた外灯の明りだけが頼りで、視界は最悪。

道路はどんどん水かさを増してくる。

Yはそれでも叩きつける雨の中、ワイパーをフル回転させながら必死に車を走らせていたんだけど、ついに前に進めなくなった。

窓を開けて下を覗き込んでみると、タイヤがほぼ水に浸かっていて、ドアの隙間からはじわじわ雨水が染み出し始めてきていた。

(もうこりゃ駄目だ…)

と悟ったYは、自分の入ってる自動車保険に「集中豪雨の際のトラブル」みたいな条項があったことを思い出して、応援を呼んでみることにした。

実際こういうのを呼ぶのは初めてだったから、ちょっと緊張しつつケータイを鳴らすと、深夜にも関わらず向こうはすぐ出た。丁寧な対応で、事情を話すとレスキュー班をすぐ派遣してくれるとのこと。

Yは自分の現在地の詳細に伝え、「お願いします」と言って電話を切った。

雨はまだまだ激しく降っている。風も轟々。外は真っ暗で心細い。「早く来てくれないかなー」と思いつつ時間をやり過ごしていると、サイドミラーにぼんやり近づいてくる明りが見えた。

やっと助けが来たようで、Yはほっとした。

軽トラのような車両がYの車の後ろにぴったり止まり、中からレインコートを羽織ったスタッフが現れた。窓をコンコンと叩くので少し開けると「大丈夫ですかー?」と言ったのは、思っていたよりも若いまだ青年のような男だったが、Yには救いの神に見えた。

「早かったですね」

「出られますか?」

「ドアが水圧で開かないみたいなんです…」

「じゃあ、窓から出ましょう。僕が引っ張るんで」

手際よく、Yは無事に車から出された。スタッフの男は、自分と揃いのレインコートをYに羽織らせ、後ろのトラックまで誘導してくれた。

Yはレスキュー車の助手席に乗せてもらい、タオルを貸してもらった。スタッフの青年は「自分はYの車のエンジンとか、車両の不具合状況を調べなくてはならないから、ここで少し待っていてくれ」と言った。

「あ、これサービスです。温まりますよ」

青年はYに魔法瓶を差し出して、自分は豪雨の中出て行った。至れり尽くせりだなーと感謝しつつ、Yは魔法瓶の中身を注ぐ。紅茶だった。

…あったかい。湯気と共に良い香りが車内に立ち込めた。猫舌なので、紅茶をちょびちょび舐めるように飲んでいると、携帯が鳴った。

画面を見ると、保険会社からだった。

レスキューが無事着いたかどうかの

確認だなと思い、Yは電話を取った。

「あ、Yさん、○○社です。ご状況いかがですか?」

「あ、どうもー」

「実はですね、大変申し訳ないのですが、△△道が波浪警報のため現在通行止めになってしまっていて、Yさんがいらっしゃる地点まで、大きく迂回していかなければならないため、スタッフがそちらに着くまでに最低あと4、50分は掛かってしまうと思われます」

「………え?」

「もしもーし?」

「……」

「もしもーし、Yさん、大丈夫ですか?」

「あの…」

「はい」

「あの、スタッフの方。もう着いてます」

「え?」

「10分前くらいに…男の、若い人。私、もう車両から引っ張り出して貰いました。」

「え、本当ですか?」

「ええ。今、紅茶をいただいて…」

「紅茶?」

会話がなかなかかみ合わない。保険会社の社員は、矢継ぎ早に質問をしてきた。そのレスキューは何時頃来たか、どんな車両で、どんな人相で、どんな服装で、何人来て、どんな対応をしたか。

music:6

Yは答えながら、携帯を握る手に汗がにじんでいくのを感じた。不安から、自分がだんだん早口になっているのが分かった。保険会社の社員は「Yさん落ち着いてください」と言った後、

一呼吸置いてこう告げた。

shake

「…あの…それは…本当に当社のスタッフでしょうか?」

保険会社の社員の話では、Yの元に来た男は服装や車両の特徴も、自社スタッフとまったく異なるという。通常、豪雨時の応援には最低2人以上のスタッフを派遣することになっているし、温かい紅茶のサービスなんていうのも行っていない。

Yは訳が分からなくなった。保険会社の社員も同じくわけが分からないようで、

「現地に向かっている筈のレスキュースタッフと連絡を取ってみて、現状を確認し次第、再度連絡します」

と告げ、Yの返事も聞かず電話は切られてしまった。

Yは暫く放心したが、自分の置かれている状況を整理すると背筋が凍った。

前方のYの車両の脇で何か作業をしている風なレインコートの影。あれは一体誰なのか。保険会社のものではないとしたら、今自分が乗せられているこの軽トラは何なのか。この紅茶は何のために飲まされたのか…

ここから逃げた方が良いのか、助けを待った方が良いのか。

Yは混乱する頭で考えた。窓の外を見ると、一時期よりは雨は弱くなっていた。もし、逃げ出せるとしたら今がチャンスなのかもしれない。でも、どこへ?しかも足場は最悪だ。

ふと、前を見ると男の姿が見えない。あれ?と思い、フロントガラスの結露をぬぐってもう一度よく見たが、やはりさっきまでいた筈の男のレインコート姿が見えない。どこへ行ったんだろう。

Yは意を決して外に出てみることにした。さっき男が貸してくれたレインコートを羽織ろうかと思ったけどやめた。車から降りると、水嵩は膝下まで来ていた。Yは恐る恐る軽トラの周りを一周した。

男に鉢会ったら間違いなく悲鳴を上げただろうが、…会わなかった。

shake

その時、携帯が鳴った。 保険会社からだった。

「あ、Yさん大丈夫ですか?」

「はい」

「あの、あと10分ほどで救助スタッフ到着するそうなので、もう少しの辛抱です。大丈夫ですか?」

「あんまり大丈夫じゃないです」

「あの、念のため警察にも通報を入れたので、それもそちらに向かっていますので…」

「私は、この場に居たほうが良いんですか?それとも逃げた方が良いんでしょうか?」

「あの、実はですね…」

music:2

「はい」

「Yさんが現在いらっしゃる近辺、刑務所があるそうなんですよ」

「え?」

「その辺り、いつもなら夜中に巡回のパトカーなんかもいるらしいんですが、今夜は台風でそれもないので、十分に気をつけてくれ、とのことでした」

不安要素だけを告げて電話は切れた。

電話を切ったけど、車内に戻る気にもなれなかったYは、念のためもう一度軽トラの周りを一周してみることにした。男の姿が忽然と見えなくなったことが、とにかく不安だった。

そうしてYが、ちょうど軽トラの真後ろにまわり込んだとき、突然、軽トラのエンジンが掛かる音がした。まさかと思ったが、雨の中軽トラが地響きを立てて動き出した。しかもバックに!

sound:3

Yは慌ててバシャバシャ水を蹴りながら、後ろに逃げた。だけど、軽トラはまだ下がってきた!のっそりと、Yが真後ろにいるのが分かっていて、あえてじりじりと押し潰そうとするように下がってきた。

Yは軽くパニックになった。逃げても逃げても、トラックは後ろ向きに迫ってきた。

その時!逃げ惑うYの目に、こちらに近づいてくる車の明かりが飛び込んできた。Yはそれに向かって必死で走った。今度こそ本当に、保険会社のロゴの入った大型車だった。

軽トラはYを追うのをやめて、前方にすごい速さで走り去って行った。

Yは雨の中倒れこんで、保険会社の救助スタッフに抱き起こされた。保険会社のスタッフ2人も、Yをひき殺そうとする軽トラをちゃんと見ていた。

Yの車は何もされていなかった。窓ガラスが粉々に割られていたとか、扉が外されていたとか、シートがズタズタにされていたとか、タイヤがすべてパンクさせられていたとか、フロントガラスに手形がいっぱいついていた…とかいうことも何もなく、雨の浸水被害だけで、人為的な損壊は本当に何もなかったそうだ。

だから、あの男が雨の中でなにをしていたのかは全く不明。

あの謎の紅茶も、毒だとか睡眠薬が入っていたとかいうことも何もなく、本当にただの紅茶だったらしい。一応警察に男の人相なんかも話したらしいけど、指名手配犯にそんな奴はいないし、近くにあるっていう刑務所内でもその日は脱走犯とかいなかった。

別にその辺りは事故現場で、幽霊が出るとかいわくつきスポットでもないし、だから本当に、あの青年が何者で何が目的なのか誰にも分からない。

何でYをひき殺そうとするみたいに突然バックしてきたのかも謎。ただ、ちょっと気味の悪い事件だったから、その後保険会社からはYに解約して欲しいって言われたらしい。

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