中編3
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峠の女性

七年前に勤めた会社が倒産し就職難の中、運転手に転身したTに起きた事です。

最初は小さい2トン車での仕事だったTも、運転手に転身して一年も経つと4トン車に乗る様になり、県内だけでなく県外にも足を延ばすようになった。

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今から五年程前の雨の夜に、隣県から帰る為に県境の峠道を走っていたTは尿意を覚えて、山頂の少し手前の広い所にトラックを停めて用を足した。雨は小雨程度だが霧が出ているし、交通量も疎らな峠道にいつになく嫌な雰囲気を感じていたが、用を足してスッキリしたTがトラックに戻ろうと振り向くと…

助手席側に人が立っているのに気がつき、一瞬身を固くする。

こんな真夜中に峠で人が?

恐る恐る観察するTに、人影が振り向いた。若い…二十代前半位の女性。

肩までくらいの髪も、どこかの会社の制服と思しき衣類も、全部が雨で濡れている。思わず声をかけようとしたTより先に、女が言葉を発した。

「峠を降りた○○まで乗せて下さい」

小さく、か細く…

しかしはっきりと聞き取れる声だった。

女の申し出に一瞬よく耳にする様々な怪談話を思い出すTだったが、その女の何とも哀しく寂しそうな顔への同情が恐怖を上回った。

「いいですよ、どうぞ。」

そう言うとTは助手席のドアを開けてやり、女に乗る様に促した。ステップを踏み手摺りに手をかけ女が乗り込む時、ふとTは彼女の足元を見て「やっぱりな」と感づく。

助手席側や運転席側のドアを開けると、室内灯が点くようにしてあった。

光があたれば物体は必ず影を残すはずなのに、彼女には影が無かった。だが、不思議と恐怖を感じないままにTは彼女が助手席に座ると、そっとドアを閉め運転席へと乗り込み車を走らせた。

走らせながら彼女の横顔をチラチラと横目で伺う。

最初と変わらない寂しげな横顔のまま、言葉もなくただ俯き加減に座っている。意を決してTは彼女に勝手に、独り言のように話しかけた。

「悲しい事とか色々あったりしましたか?辛い事、悲しい事、何があったのか僕には分かりませんけど、こんな所に居ては駄目です。行くべき所があなたにはあるんじゃないですか?僕にはしてあげられない事かもしれませんが。」

Tの言葉に彼女は反応を見せない。

この峠を下り、彼女の望む所までにはまだ二十分はかかる。

その間もTは構わず一方的な会話を続けた。

「○○にはあなたの何かがあるのかな?そこに行ってその後どうするんですか?またあの峠に戻ってしまうのですか?繰り返しては駄目だと思います。次へ進まないと。」

彼女はただ俯いたまま黙っている。

聞いているのかさえ分からないままTは話しかけ続け、ようやく峠を下った。

突然、彼女は前方を指差すと「あそこで。」とだけ言った。なんの変哲もない住宅街への交差点だった。

Tはハザードランプを点け、トラックを停めると彼女の方を見た。

「ありがとうございました。」

微かに聞こえる声だけ残して彼女は消えてしまった。そしてもう一言、どこからともなく聞こえた「行きます」の声にTは安堵のため息を吐き出し、再び車を走らせ無事に会社に帰った。

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後日、Tはあの峠で起きた事件を同僚から聞いた。

十年前、情事のもつれから当時二十二歳の女性が絞殺され、死体が遺棄されていたのだと言う。当時の彼女が住んでいた町こそ、Tが彼女を降ろした住宅街だったそうだ。

その後あの峠で彼女を見る事もないまま、Tは三年前に子供をもうけ幸せに暮らしていた。生まれた女の子も大きな病気や怪我もなく明るい元気な子で、Tは溺愛し娘も父親を慕っていた。

そして今年…

峠の彼女の事も記憶から忘れていたTは再び彼女と再会する。

9月の半ば、夜中に目を覚ましたTが喉の渇きを覚え、台所で茶を飲み寝室に戻った時だった。

妻の横で寝ている愛娘が布団から飛び出して寝ていた。「なんて寝相だ」と苦笑しながら娘を布団に戻したその時…

娘が眠ったままTの手を握り「ありがとう、あなたがあの時助けてくれたから私は今生きてます。本当にありがとう」と言った。

彼女の声で…

娘の口で…

生まれ変わりなのか、娘の口を借りただけなのか分からなかったが、恐怖は感じず不思議な温もりを覚えた出来事だった。

私(T)も家族も何ら不幸なく平穏に過ごしてます。

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