長編9
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母と娘と

このお話は私の就職一年目の年末頃のお話です。

その日、私は取引先の高遠さんの事務所を訪れていました。

もちろん職場の教育係の黒川先輩と一緒です。

用件が終ったときは、ちょうどお昼時でした。

いいタイミングでお昼休みに入ることができたと考えていたのですが、そのとき打ち合わせをしていた高遠社長から絵梨花さんが退院して赤ちゃんと戻ってるから会っていってよと誘われました。

絵梨花さんは高遠さんのところの事務員さんで社長の息子と結婚して、ちょうど先日娘さんを出産したばかりでした。

私達は普段から絵梨花さんとは親交があったので、娘さんが生まれた時は病院にも訪れました。

高遠社長にも促され、せっかくなので事務所の二階の住居スペースにお邪魔すると、玄関のところで一人の女性と遭遇しました。

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「それじゃ絵梨花、また来るわね」

黒系統のスーツに身を包んだいかにも仕事の出来そうな端整な顔つきの女性でした。

ショートヘアで眼鏡をかけ、年の頃は四十代ぐらいに見えましたが、黒川先輩があと二十年したらこんな感じかなあと思いながら眺めていました。

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「おっと、失礼」

その女性は私達の横をすり抜けて、一階に降りていきました。

玄関に新たな訪問者の気配を感じ取ったのか、奥から絵梨花さんが玄関に出てきました。

絵梨花さんはパジャマ姿でした、そのせいというわけではないでしょうが、ひどく暗い色に沈んでいるように見えました。

「あ、瑞季さん! 来てくれたんですか、ありがとうございます」

絵梨花さんは瑞季さんの姿を確認するや目の前が一気に明るくなったような表情で勢いよく出迎えてくれました。

「えっちゃん、今の人、誰だっけ? どっかで、見たことがあったような気がするんだけど思い出せなくてね」

瑞季さんが不意に問いかけると、明るい表情が嘘のようにうつむき、そして戸惑ったように目を上げました。

「あの・・・私のお母さんです」

絵梨花さんが教えてくれて思い出しました。

確か絵梨花さんの母親の百合子さんです。

絵梨花さんの結婚式の時に見ていましたが、その時は着物姿だったので、スーツの時とは全く雰囲気が違っていました。

「お母さんが来てくれてたんだ・・・それにしては何だか浮かない顔ね」

瑞季さんの言う通り、母親が尋ねてきていたというのに絵梨花さんはどんよりして顔色も悪くなったように感じました。

「・・・前にもちょっと話しましたけど、うちのお父さんが浮気相手のところに出て行ったとき、お母さんとの関係もまずくなっちゃって」

絵梨花さんの父親が浮気相手の女性のところに出て行ったという話は瑞季さんから先日の生霊騒ぎの時に聞いていました。

「・・・今日も頑張って色々と話そうとはしたんですけど、お互いに何だかしっくりこなかったんです」

絵梨花さんはなんとか母親との関係を修復したいようでした。

その様子を見て瑞季さんはいたずらっぽく苦笑しました。

「大丈夫じゃないかな、母娘なんだし、生まれた赤ちゃんもきっと良いきっかけになってくれるわよ」

私も瑞季さんの言う通りだと思いましたが、絵梨花さんの表情は暗いままでした。

「実は・・・瑞季さんにも言ってなかったんですけど・・・」

そこまで言って、絵梨花さんの言葉は一瞬止まりました。

表情はこれ以上ないほど青ざめ、そして無意識なのか、かすかに震えていました。

「私、お母さんとは血がつながっていないんです」

私は絵梨花さんの言葉の意味が分かりませんでした。

「?? どういうこと?」

もちろん瑞季さんも理解できなかったようで絵梨花さんに聞き返しました。

「・・・私、お父さんの浮気相手との間にできた子供なんです」

消え入りそうな声でした。

「え? ちょっと待って、えっちゃんが浮気相手との子供? えっちゃんが今二十一歳だから・・・」

「はい、父は浮気相手との間にできた子供を認知して自分のところに引き取ったんです。

私がそのことを知ったのも父が三年前に浮気相手のところへ出て行った時でした」

何度も息を継ぎながら、絵梨花さんは絞り出すように声を出しました。

私がちょっと考えただけでも、それはさすがに母親との関係も気まずいものになると思いました。

絵梨花さんの母親の百合子さんは夫が浮気相手との間につくった子供を育ててきたのです。

「・・・お母さんとの関係もそうですが、私も子供ができて、結婚して、そして私の家族を作っていくこと、そうすることでようやく私がこの世に生まれてきた意味を見いだせる気がするんです」

今までも雰囲気ではおぼろげに感じてはいましたが、私はこの時初めて絵梨花さんが抱える心の闇の正体を理解しました。

生まれてきた意味という危うい言葉を彼女が使ったことに私は一抹の不安を抱きました。

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絵梨花さんの赤ちゃんを見せてもらった後、私達が二階から一階の事務所に降りていくと、先ほどすれ違った絵梨花さんの母親の百合子さんが待っていました。

降りてきた私達を確認すると、彼女は声をかけてきました。

「お話するのは初めてかしら、あなたが黒川さん?」

「・・・はい、そうですけど」

何か考えていたのか、瑞季さんの返事は一瞬遅れました。

「高遠社長から色々と伺っております。うちの絵梨花が何かと本当にお世話になったみたいで、本当にありがとうございます」

百合子さんは瑞季さんに向かって深々と頭を下げました。

「今日は娘さんとお孫さんを見にいらしたんですか?」

「ええ、まあ、そんなところかしら」

「どうでしたか、話してみて?」

百合子さんは黒川さんの問いかけを聞いて、無理に作ったようにかすかに笑いました。

「あなたたち、私と絵梨花の関係のことは・・・」

百合子さんは直接的には言葉にしませんでしたが、先ほど絵梨花さんが話してくれた父親の不倫相手の子供ということを確認しているようでした。

「はい、失礼ながら、先ほど本人から聞きました」

「・・・そう」

百合子さんは一瞬何か言いたげにしましたが、表情をあらためました。

「私も頭の中ではわかってるんだけど、絵梨花を前にすると・・・なかなか思ったように話ができなくてね」

百合子さんは私達から視線をそらして何か考え込むようなそぶりを見せます。

「どうしてもね、絵梨花の顔を見るとあの女のことを思い出してしまうから」

あの女というのは絵梨花さんの実の母親のことを指しているようでした。

それは絵梨花さんが成長するにつれて、夫の浮気相手の女性に似てくる。

そのことが新しい壁を作っていると言いたいようでした。

「それでも、今日が初めてですよね、出産後に会いに来られるのは。

病院へも来られなかったと絵梨花さんから聞いていますが」

瑞季さんの言葉に百合子さんはわずかに眉をしかめました。

「言ったでしょ、娘とはね、いまだに少し話しづらいの」

「それなのに今日会いに来られたというのは何か会いに来なければならない理由があったんじゃないですか」

かすかに、百合子さんの身体が震えたように見えました。

「・・・するどいのね」

「勘はいい方なんです」

百合子さんは息を吐き出して一瞬軽く目を閉じました。

まるで自分を落ち着かせるように・・・

「・・・あの女なら、絵梨花が一番幸せな時にまた何かするかもしれないと思ったから」

「あの女? 一番幸せな時に?」

「三年前に夫が出て行った時も絵梨花の就職が決まって、家族で喜んでいたときだったしね。

あの女が夫を口説いて、家から出て行かせたせいで私達の仲は壊れてしまった。

絵梨花の出生の秘密も私は一生話さないつもりだったのに」

「今回もその女が何かすると?」

胸騒ぎ的なものだろうかと私は考えてしまいましたが、百合子さんの見方は違いました。

「他人の幸せが私を不幸に追い込む。

他人の不幸が私を幸せに導く」

不意に百合子さんは奇妙な言葉を私達に向かって発しました。

「・・・これがあの女の言っていた言葉、そして多分その本質を表している」

そこまで話すと百合子さんは面倒な話をしてしまったとばかりに明るく笑いかけました。

「ごめんなさいね、変な話して、また今度一緒に食事でもしましょう」

そういうと、百合子さんは黒川さんの腕を軽くたたいて事務所を後にしました。

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「あの、黒川さん」

「なに?」

高遠さんの事務所を後にして、私は運転しながら助手席の黒川先輩に話しかけました。

「さっきの百合子さんの話の他人の不幸を喜ぶというのはまあ何となくわかるんですが、

他人の幸せが自分を不幸にするというのはどういうことなんでしょう?」

「ああ、あんた、わからないの?」

「え、いや、すいません」

「いや、いいのよ、ある意味わからなくて正常だから」

瑞季さんは説明を付け加え始めました。

「例えば今回のえっちゃんの場合だと子供が生まれて幸せになったということだけど・・・」

「いいことじゃないですか?」

「・・・普通はそうよね」

「でも、ある人にとってはえっちゃんの幸せな状況が自分の環境を際立たせることになる場合もあるのよ、それにくらべてなんて私は惨めな状況なんだろうとね。

もしくは自分もその高みに上がらなければならないような強迫観念に迫られるとかね」

「あ・・・」

「ある意味、嫉妬も呪いにつながる要因だしね」

瑞季さんの言った「呪い」というフレーズと百合子さんの言った「あの女」という言葉が妙に不安を起こさせました。

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「あの、ちょっと思ったんですけど、絵梨花さんのお父さんが出て行ったのって、浮気相手の生霊に取り込まれたんじゃ」

先日、絵梨花さん自身が自分の旦那に生霊を飛ばして精神を取り込む事件がありました。

「・・・そうかもね」

「じゃあ、絵梨花さんのお父さんを見つけてその生霊を外せば、解決するんじゃないですかね」

「・・・そんなに簡単な話じゃないわよ」

「どうしてですか?」

瑞季さんは複雑な表情をしました。

「・・・絶対に他には言うなよ」

助手席から窓の景色を見ながら、強い口調で念を押しました。

「・・・あくまで私の勘だけど、絵梨花さんのお父さんもう死んでるんじゃないかな」

「・・・え?」

「たぶん百合子さんのもえっちゃんも薄々そのことを感じてると思うんだけど」

「・・・すいません、どういうことですか?」

「あまりにも父親の影が薄いのよね。

普通、娘が結婚したり、子供が生まれたりするときはいくら浮気で出て行ったといってももっと存在が表に出てくるものよ。

けど、私でさえ、あまりに話題に出てこないから、えっちゃんから話を聞くまでは亡くなっていると思ってたもの」

「でも、それってその浮気相手の女が殺したってことですか?」

本当に危険な匂いがその女の話から漂ってきました。

「・・・正直言って、こういう頭が切れてる人間とは絶対に関わりたくはないのよね」

相変わらず瑞季さんは視線をこちらに向けないまま淡々と話しています。

「自分が死ぬまで相手に呪いの念を送り続けて・・・いや、死んでもなお・・・か。

そして、健気な思いで立ち上がろうとする相手をどん底に突き落とすことに至高の喜びを感じる、そんな人間も世の中にはいるのよ」

「でも、そんな女に絵梨花さんは狙われるかもしれないんですよね。

・・・黒川さんは、どうするんですか?」

今から思えば、なんて答えづらいひどい問いかけをしたと思っています、しかし・・・

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「助けるわよ、えっちゃんは! 決まってるでしょ」

瑞季さんは私の方を向いて即答しました。

私は少し驚きました。

今までの話の流れなら触らぬ神に祟りなしということで、これほど危険な人物と関わることは躊躇すると思いました。

しかし瑞季さんは少しも逡巡することなく助けると言い放ちました。

私は絵梨花さんのことが少し羨ましくなりました。

なるほど、他の人の幸福が自分の不幸になる・・・か。

不本意ながら私も絵梨花さんのへのわずかながらの嫉妬という形で「あの女」の気持ちを感じてしまう。

意識したわけではありませんでしたが、鈍い痛みが心の奥から響いてくるような感覚に体が震えました。

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