長編8
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愛妻弁当

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「真田部長、また愛妻弁当ですか?」

自席で昼食を食べていると、部下の高木加奈子が声をかけてきた。

「ああ。高木君は買ってきたのか?」

「ええ。会社の近くのパン屋さん。クロワッサンが美味しいんですよ」

加奈子は紙袋から小さな月型のパンを取り出して、口元に当てる。

彼女のアーモンド形の大きな瞳と相まって、その姿は、「不思議の国のアリス」に出てくる笑う猫のように見えた。

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「そんなんじゃ、すぐに腹減っちまいそうだな」

「いいんです。私、昼はあまり食べないですし。食べすぎると眠くなっちゃって。

それに、この後のS社へのプレゼン資料、今のうちにもう一度チェックしておきたくて。

一緒に会社出るの、14時半で大丈夫ですか?」

「ああ――」

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加奈子は半年前に中途で入社し、真田伸宏の部署に配属された。

歳は二十八。四十五の真田にしてみると、娘とはいかないまでも世代の開きを感じる年齢だ。

しかし、加奈子は有能な部下だった。

入社早々、彼女は部署の業務の全体像を把握し、精力的に主要取引先へパイプを拡げた。

そして、ほどなく、他の男性営業達が攻めあぐねていた、大手企業との新規取引を成立させた。

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目覚ましい実績を上げながら、他の社員からのやっかみが湧かないのは、彼女の明るく、人当たりの良い性格がなせる業だった。

彼女のおかげで、部署の業績は大幅に伸びた。

それは当然、部長としての真田の評価にも繋がった。

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真田は、部下として加奈子という人物を高く評価していた。

そして同時に、若く美しい、女性としての加奈子もまた、評価していた。

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真田と加奈子が男女の仲になったのは、二人が中心となって進めていたプロジェクトが大きな成功を収めた日、打ち上げと称して二人きりでディナーに行った夜のことだった。

今から三ヶ月程前の話だ。

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「今日は、奥さんにはなんて言ってあるんですか?」

ベッドの中で、加奈子が身体を密着させてくる。

その肉はみずみずしく、しなやかで、猫科の動物を思わせた。

アーモンド形の瞳が、照度を絞ったベッドライトの光を照り返して官能的に光る。

「なんてって……。普通に、仕事の付き合いで遅くなる、って言ってあるよ」

ふうん。加奈子が拗ねた様に小さくつぶやく。

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「奥さん、その言葉信じてるんですかね?私だったら色々疑っちゃうな。

伸宏さん、嘘つく時すぐ分かるし。ちゃんと私の目を見て言って、って問い詰めちゃうかも」

その口調に真田は苦笑する。

「うちのはそんなに鋭くないよ。君みたいには」

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真田の妻は、元々、取引先の重役の紹介で知り合った。

良家の次女で、当時三十手前で社会に出たこともない箱入り娘だった。

話してみると、少々世間に疎いところもあったが悪い娘ではなく、そこそこ美人で、また出世欲に燃える真田にとってはおあつらえ向きな「物件」でもあった。

結婚したのが十年前。

二人の間に子供はいない。

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「22時か……。そろそろ出る支度をするか。

いくら遅くなっても、うちのは起きて待っているからな。

門限のない君がうらやましいよ」

ふとんを跳ね除けて、真田が身体を起こす。

加奈子がベッドの上でうつぶせになり、手足を投げ出して伸びをしている。

その左手の薬指には、指輪が光っている。

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「私の方は出張が多いだけです。常に門限がないわけじゃありませんよーだ」

首だけ真田の方に向けて、加奈子が悪戯っぽく笑う。

その表情に、ホテルを出る前にもう一度、加奈子を抱きたくなっていた。

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『既婚者である人気ミュージシャンFは、友人であるお笑い芸人Sの妻と不倫関係にありました。

男女双方が不倫状態にあることから、今回のようなケースをW不倫と……』

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朝から、テレビのニュースバラエティー番組が、芸能人のスキャンダルを取り上げている。

訳知り顔のコメンテーターが、やいのやいのと、身のないことを叫んでいる。

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これまでだったら「下らない」の一言でチャンネルを変えていた真田だったが、自身の境遇と重なる話題に思わずリモコンを持つ手が止まる。

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W不倫。

いや、自分たちがしていることは、世の中を騒がすスキャンダルとは、程度が違うささやかなものだ。

ホテルに行った回数だってごく僅かだし、頻繁にメールを交わしているわけでもない。

互いのパートナーをないがしろにしているわけでもない。

むしろ大切にしている方だ。

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ただ少し、互いのパートナーにない魅力を相手に感じ取っただけであり、パートナーを大事にし続けるための、鋭気を養う息抜きのような行為だ、と真田は思っている。

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もっとも、加奈子が自分と同じ考えかどうかは、定かではない。

彼女は自分の欲求に対して素直な性格であり、それが仕事の面でも抜群の行動力を生む源泉になっている。

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だが、同時に彼女は、冷静に状況を判断できる決断力も持ち合わせている。

真田はこれまで、加奈子が仕事において、のめり込みすぎて失敗するという姿を見たことがない。

だからこそ、部下として、ひいては女性として安心感を持っている。

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いずれにしろ、自分と加奈子の関係は、芸能人のスキャンダルとは次元の違うものなのだ。

真田は妻から手渡されたコーヒーを一口飲んで、ようやく心を落ち着ける。

月曜の朝だ。

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「はい、あなた。お弁当」

妻の幸子がおずおずと弁当箱を渡してくる。

幸子は昔からこうだ。

こちらの反応を伺うような視線。

加奈子が猫なら、幸子は兎と言ったところか。

引っ込み思案な草食動物。

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四十手前の妻だが、元から顔立ちが幼いこともあって、黙っていれば三十代前半に見える。

性格は奥手だが、庇護欲を誘われる。

それに、細かいところによく気が付くし、かいがいしく家事をしてくれる。

夫婦仲は悪くない。

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ただ、幸子にない部分を加奈子が持っている、ただそれだけだ。

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「金曜の夜は疲れた顔してたから、今日はスタミナが付きそうなオカズにしてみたの。唐揚げとか」

「ああ、ありがとう」

真田は一瞬どきりとしたが、すぐに純粋に自分を気遣っての言葉と思い直す。

妻相手に駆け引きは要らない。鎌をかけてくるような真似はしない。

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「そろそろ出かけてくる」

真田は上着を羽織り、鞄を手に玄関に向かう。

「いってらっしゃい。私、今日は昼間、いつものお稽古に出かけてきますね」

最近、料理教室に通い始めた妻の声が、扉を開ける真田の背後から聞こえた。

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自席で弁当を食べていると、加奈子がパン屋の袋を持って帰ってきた。

走ってきたのだろうか、小さく息を切らせている。

「高木君は、またいつものパン屋か?」

真田の呼びかけに、びくりと身体を震わせ、顔を上げる。

「あ……はい……」

心なしか、顔が青ざめている。憔悴した様子に見えた。

「……どうした?」

「いえ、あの……。なんでも……ありません」

そう歯切れ悪く言って、加奈子はそそくさと自分の席に戻っていった。

いつもの加奈子らしからぬ態度に、妙なひっかかりを覚えたまま真田は一日を過ごした。

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その日を境に、加奈子の様子が変った。

仕事の必要がある時を除いて、会社で真田に話しかけてこなくなった。

たまにメールを送っても返事がない。

金曜の夜などに、二人だけで逢う機会もなくなった。

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真田に対する態度だけではなかった。

いつも不安げに辺りを見回すようになった。

デスクで仕事をしている際も、不意に窓の方を向いて、そこから見える、通りを挟んだ隣のビルの屋上をじっと見つめていることなどもあった。

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一方で、妻は最近明るくなっていた。

料理教室に気の合う友人ができたそうで、毎日が楽しそうだ。

食卓に上る料理のレパートリーも増えていった。

毎日の愛妻弁当も彩りが良くなった。

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二人の女性の間で、真田は言い知れぬ不安が増していくのを感じていた。

少なくとも、妻が明るくなっていくことはよいことのはずなのだが、それと反比例する加奈子の様子が気がかりでしょうがなかった。

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まるで大きな見えない天秤の間に立たされているような気がした。

あちらが上がれば、こちらが下がる。

そして、その中心は自分だ。

本来、天秤の両端に乗ることがなかった二人の女性を、そこに乗せた張本人。

お前のせいだ。

誰かが真田の胸に囁く。

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一ヶ月が過ぎたある日のことだった。

自席で弁当を食べようとしていた真田は、内線を受けた加奈子に、上司が呼んでいる、と告げられ、席を立った。

真田の島の他のメンバーは皆、食事に出ていたが、加奈子が残っていれば電話があっても問題はないはずだ。

今朝、怪我をした、と左手に包帯を巻いて出社した加奈子だったが、普段よりも顔色は良いようだった。

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しばらくして戻ると、事務の女性が食事から戻っており、代わりに加奈子は外出、直帰とホワイトボードに記されていた。

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昼食の続きに取り掛かる。

妻の料理熱はこの頃さらに勢いを増し、凝ったメニューも増えてきていた。

たとえば、この唐揚げなどは、口に含んでみるまで想像すらできない中身が入っていたりする。

それはたとえば、

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ひだりてのくすりゆびとか

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shake

「ぐはっ!」

真田は口に入れた唐揚げを思わずデスクの上に吐き出した。

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一瞬前の口内の記憶がよみがえる。

血の滴るレアな肉の柔らかさ。

その奥にある芯がある固さは、細い骨の存在をうかがわせる。

硬質な感触。無機質な味。これは、爪か。

そして、舌がしびれる、冷たい金属の感触。

指輪。

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机の上の吐しゃ物と、口内の記憶が、真田の認識の中で結びつき、思わず身体を折って、さらに床の上に嘔吐した。

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はい、あなた。お弁当。

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加奈子からメールが来ていた。

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『伸宏さんとの浮気が、旦那にバレました。

一ヶ月前のお昼、買い物に行ったとき、出張中のはずのあの人が、会社の近くに来ていて、そのことを打ち明けられました。

知らない間に、興信所に調べさせていたそうです。

前の週の金曜、ホテルに行った時の写真もありました』

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『あの人は、人が変わったようになっていて、話し合いもできず、私は怖くてずっと逃げ回っていました。

毎日、ホテルを転々として。

でも、どこまでも追いかけ回されました。

戻ってこい、戻ってこいって』

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『もう、貴方のところには戻らないって、昨日はっきり言いました。

そうしたら押し倒されて薬指を切り落とされました。

痛かった。

血がたくさん出ました』

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『夜、一人の部屋で、コロンと切り落とされた薬指と、指のぽっかり抜けた左手をずっと見ていました。

はじめは痛くて、悲しくて、悔しくて、泣いていました。

でも、そのうちに思ったんです。

仕方がないのかな、って』

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『私、やっぱりあの人のこと、裏切っていたことになるわけだし。

伸宏さんのこと、好きになっていたわけだし。

これは罰なのかな、と思うようになりました。

それに伸宏さんも、奥さんより私の方を好きになっていたわけだし、これは私たち二人の罰なのかな、と』

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『伸宏さんに、この指、あげようって思いました。

貴方のせいで、落とされた指だし。

貴方に捧げる、誓いの指です。

でも、男の人って、女に比べると血に弱いって聞くし、ちょっとイタズラしてやろうって思って、唐揚げにしてみました。

飲み込んでもらおうと思って』

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『本当なら、コンビニの唐揚げを買ってきて、その中に混ぜて、差し入れですって渡そうと思ったんですけど、ちょうど愛妻弁当が目に入ったので、伸宏さんが席をはずした隙に、入れておきました』

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『飲み込んでくれましたか?』

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『このあと、いつものホテルで待ってます。

ずっと』

 

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