中編5
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娘が見ているもの

娘のユキは大人しい子どもだった。

一人で絵を描くのが好きだった。

私が話しかけると、にっこりと笑顔を返す。

マイペースな子だなと当時はのんきにそう思っていた。

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三歳になったあたりから、不思議な言動が目立つようになってきた。

誰もいない部屋の四隅を延々と歩き続けたり、中空の何かをつかむような動作をよくする。

幼い子が目の前のシャボン玉をつかもうとする動作に似ていた。

ほちいほちい、と舌足らずな口調でわたしに訴えかけてくるので、何が欲しいの?と優しく問いかけてみても首を横に振るだけである。

彼女の目の前の空間をじっと観察してみても、私には何も見えなかった。

虫でも入ってきてるのかとも疑ったが、窓は常にぴっちりと閉まっている。

部屋を隈なく見渡してみるのだが、いつもそれらしいものは見つからず首を傾げるばかりだった。

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危険がないのならそういった奇行も気にすることはない、どこの子でも何か癖みたいなものはあるはずだ。

そう言い聞かせていたのだが、突然火がついたように自分自身の顔面を両手で殴打するまでに至り、私は急速に心配になっていた。

そんな時いつも私は暴れるユキを抱きしめるのだが、如何せんこれほど娘がヒステリックになる理由がさっぱり分からない。

それらを何度も繰り返すので、娘の顔はたちまち傷だらけになった。

児童相談所から虐待を疑われた時は、自分の子育てに原因があるのではとさすがに自己嫌悪に陥った。

愛情を注いでいるという自負はあったが、父親のいない不安感が無意識の内にこの子に伝わっているのではという心配も常に頭の片隅にあった。

女手一つで育てる難しさ、または疲労感をひしひしと感じていた。

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私は比較的現実主義なタイプなので、科学で解決できない問題は信じない方だ。

しかし一方で、影のようにあやふやで宗教などもからんでくるデリケートな存在や現象があることも重々承知している。

私には見えないものを娘が見ているとしたらどうだろう。

その考えに思い至ったのは、娘の描く絵を見た時だ。

ユキは絵を描くのが好きでクレヨンでよくカラフルな絵を描いた。

しかし描く絵はいつも不思議なものだった。

画用紙の中心に必ず縦に長い楕円が描かれているのだ。

太陽を描いているのかとも思ったが、それにしては細長く、また空に太陽を別に描いている。

楕円形の球体は、それ自体が宙に浮いている別個のものとして存在しているように見えた。

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(ユキは私には見えない幻を見て泣き叫ぶのでは…?)

霊的なものを信じるわけではないが、原因が分からない不安を私は何かに託したかったのかもしれない。

思い至ったのがオーブ(霊魂)だった。

よく心霊写真として紹介されている、写真や映像の中で飛び回っている人魂のような光の塊だ。

もしくは、これはあまり考えに含めたくはないが、娘は「何か」ではなく「誰か」を見ているとしたら。

いや、しかし娘は得体の知れないそれに向かって話しかけるような素振りはしない…。

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とにかく、馬鹿馬鹿しいと思いつつも私はこの時娘のためにあらゆる可能性を考慮に入れていた。

半ばやけくそ気味とも言えるが、娘がよくさまよっている部屋をスマートフォンで撮影してみる。

もしオーブや霊的な何かが写っていたら、霊媒師にお願いしようという計画の道筋を頭の中で立てていたことには我ながら驚いている。

結果は、何も写っていなかった。

落胆とも安堵とも言えず、何とも形容しがたい気分だった。

いよいよユキが何を見ているのか分からず私は困惑した。

事件が起きたのはそんな時だった。

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ある日の夕方、キッチンで料理をしていると娘の割れるような泣き声が廊下から響いてきた。

私は仰天して、お玉を投げ捨てて一目散に声のする方へ向かった。

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廊下でユキがしゃがみこんで大声で泣いている。

私は思わず悲鳴をあげた。

ユキの足元にはおびただしい量の血が飛び散っているのだ。

泣き叫ぶ娘の顔を見た時、私はさっきよりも大きな悲鳴をあげていた。

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我が子の顔面の中央部が血に染まっているのだ。

唇の上、そこにあるはずの隆起がなく、洞窟のような二つの呼吸穴だけが覗いている。

裂かれた皮膚の隙間から、真っ白な骨が異様なほどのコントラストを際立たせていた。

鋭利なものでえぐりとられている。

娘は涙を啜り上げようとして、ズズッと血液を詰まらせて激しくむせた。

「ああ、ユキちゃん!」

私は咄嗟に娘を抱きしめ自分の着ているTシャツで傷口をおさえつける。

(誰が…!誰がこんなひどいことを!)

恐怖や悲しみよりも怒りが勝っていた。

素早く周りを見渡したが人の気配はない。

目の前の玄関の鍵は確かに閉まっており、誰かが部屋に侵入した形跡はない。

(一体誰がどこから…)

身構えようと足元に力を入れるが、スリッパの下の血で危うく滑りそうになった。

ちりちりと焼けるような緊張感が全身を覆っている。

娘はわたしの胸の中で、うめく様に咳き込んだ。

あまりの痛々しさに、自分で気づかないうちに私の頬は涙で濡れていた。

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(そうだ、まずは救急に連絡しなければ!)

そう思った刹那、娘を抱く手のひらに固いものが触れた。

おやっと思いそれが何なのかを確認すると、娘自身が手にしていたカッターだった。

刃先が飛び出ておりそこに血液が付着している。

思わず娘を持ち上げると、驚いたことに逆の手には赤く染まった肉片をしかと握りしめているのだ。

その形状から、本来顔の中央部についているそれだと分かった。

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瞬間、頭の中を稲妻が落ちるように娘の過去の言動がフラッシュバックしていった。

顔面を殴打する様子、絵に描かれていた楕円、目の前の何かをつかむような仕草。

あ……っ!!ああ!

叫びとも嗚咽ともつかない声が喉元から漏れる。

この子には何か特別なものが見えているわけじゃない!

皆が見ているものを当たり前に見ているに過ぎないのだ。

誰だって気にも留めないそれが、この子にとっては所有欲の対象だったのだ。

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娘がとりたかったもの、欲しかったものは、いつも視界の下部に見え隠れする自分の鼻に違いなかった。

娘はそれを今日やり遂げたのだ…。

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かろうじて救急車に連絡することはできた。

娘は苦しそうに呼吸を荒げている。

私は我が子を抱きながら、哀しみと自分の愚かさに打ちのめされていた。

心の中で、気づいてあげられなくてごめんねごめんねと何度も謝った。

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黄昏時の空気が、廊下のフローリングからしっとりと這い寄ってきていた。

遠くでからすの鳴く声が響く。

私は、無言で娘を抱き続けた。

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面白かったです。
いい意味で予想の斜め上をいかれました

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