中編6
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光る芸人魂

「何やってますのん!」

 高身長の男が横に居る男へ手の甲を打ち付けて、へらへらと笑った。横に居る男は怒りもせずに、そうは言うてもなあと言葉を続ける。

 俺はそんな馬鹿二人を長机に肘突いた手に頬を乗せながら、眺めていた。俺の横に居る長門は愛想笑いのような表情を二人に投げかけている。

 やがて漫才が終わり、二人が緊張したような顔で俺たちを交互に見た。

 俺は二人の履歴書をとんとんと机上に二回つくと、深く息を吐いた。

「あのねえ、はっきり言うけども、そんな犬の糞の足しにもならない漫才でオーディションに来られたって迷惑なだけなんだよ。大学も行けない高卒の馬鹿が芸能界で大金を稼ぐのには才能がないといけないよな。鬼才松本仁志を知ってるかね? もっと笑いを勉強にしてきたら、どうだ。ええ?」

 最後には強い口調になって、二人の履歴書に手の平を叩きつけていた。

「先輩」

 長門が小声で俺を宥めようとする。

 二人の男は萎縮し、高身長の男に至っては目に涙を浮かべていた。

 無様な姿だ。

「分かってるよ。はい。じゃあ、オーディションは終わりでぇす。さっさと帰って、バイトでも探してください」

 俺はそう吐き捨てると、何か言おうとしている長門に二人の履歴書を押し付け、部屋を後にした。

 身の丈を知らない馬鹿程むかつくものはない。人間は自分の能力と才能にあった人生を歩むべきだ。それが見抜けない今のような馬鹿どもがきちんと自分に見合った人生を送ってるやつの邪魔をする。

 俺は身に羽織ったコートに顔を埋めながら、事務所の地下駐車場に足を踏み入れた。肌寒さが一層増す。

 愛車のレガシーの前に来ると、俺は自分の人生が如何に恵まれているかを知ることができる。レガシーのボンネットに天井の安っぽいライトが反射し、美しい曲線に色気を孕む艶が出来ていた。俺はそれにうっとりと目を細め、無償に手入れをしたくなった。しかし、こんなところで長く佇んでいるわけにもいかない。周囲を見回した後、俺は車に乗り込んだ。

 煙草の匂いがまず鼻を突いた。そして肌を刺すような寒気に顔を顰める。俺はポケットからキーを切り出すと、冷たさで赤くなった指先を眺めながら――ふと、後ろに気配を感じて、恐る恐る振り返る。そこにはひょっとこの面があり、次の瞬間、俺の視界は黒に染まった。

 コツコツコツ。

 革製の靴底が地面に触れる音に俺の目は開いた。まず、木製の扉が目に飛び込む。天井に吊るされた裸電球が地面に作る光の円がゆらゆらと揺れている。

 俺は苦しさを感じて、空気を吐き出した。呼吸することを忘れていた。

「何処だここ」

 手を動かそうと思ったら、手首しか動かなかった。どうやら椅子に座らされ、背凭れの後ろで手を縛られているらしい。

 下手に手を動かすと、紐に縛り付けられた血管が唸りを上げる。

 足許を見ると椅子の脚がガムテープで乱暴に固定されており、俺が体を揺らしてもびくともしない。

 足は自由に動く。

 俺は状況の整理をしようと思ったが、上手く頭が回らない。

 コンクリートを四面に置く部屋は冷徹であった。着ていたはずのコートがなくなっていて、寒さが肌に浸透してくる。

「誰か! 誰かいませんか!」

 声を張り上げると、それに応じるようにして木製の扉が軋みながら開き、部屋の中に影が入って来た。しかし、それは俺を救うを天使のようには見えない。

 ひょっとこの面をつけ、俺のコートを体に羽織った男が入ってきた。体の造りから見て男のようだが背が高く、俺のコートの丈が合っていない。男は白い袋を俺に見せつけるように掲げると、自分の足許に置いた。

「おい! 離せよ!」

 俺は顔を前に出し、男に噛みつこうとした。だが、到底男の位置には届かない。

「クソ! 離してくれ!」

 男は何も言わぬまま俺の前に立ちはだかる。見上げたひょっとこの顔は薄暗い影に塗れ、不気味であった。次の瞬間、左の頬に強い痛みを感じた。

 右の方に男の手の平が見えた。どうやら、ビンタされたらしい。寒さのせいで頬に受けた痛みは何十倍にも膨れ上がり、ヒリヒリと痺れるような感覚が響いた。

「なんでやねん」

 男のくぐもった声が面から発せられた。

 俺は只ならぬ恐怖を感じて、離してくれと喚く。

「お前はさながら南アフリカに住む猛獣か」

 また平手打ちが飛んできて、俺の頬を打った。三回、四回――どれほどやられたか分からない程に俺の頬は打たれ、頬に残るような痛みが絶え間なく続く。そして痛みを受ける度になんでやねん、お前はアホかなどと突っ込む声が聞こえてきた。

 やがて平手打ちが止んで、俺はぐったりと首を下げた。頬は痛みと熱を持ち、口の中に血の味を覚えた。

 何なんだよ、クソ――言葉を発したはずなのに、口内が凍てついたように動かない。血の温かさだけが異様に感じられる。俺はぺっと地面に血を吐き出して、男を見直した。そして、男の手に持つものに釘付けになった。ぎらりと光るそれは威圧的に光を反射し、存在を強調した。口元がわなわなと震え、寒さとは別の悪寒が背筋を這い上がった。

「や、やめてくれ、お願いだ! か、金ならやる!」

 しかし、男はそれに反応を示さず、面の中でぼそぼそと何か言いながら近づいてくる。俺は初めて死の恐怖を感じた。幸福な人生を歩んできた自分の足許が容易に崩れ、奈落の底に突き落とされる感覚。

「うぉぉぉぉああああああああぁあっ!」

 口内を滑って、唾の飛沫が外へ飛び出す。体を思い切り揺らして、足元を必死にバタつかせた。

 先を尖らせた包丁が俺の目と鼻の先に向けられた。

 下手に動けば刺さってしまう。俺は騒ぐのを止め、刃先に目を寄せた。心臓が活発に脈打つのに対し、頭の中の血の気がさぁと引いていく。

「あ、ああ――や、やめてくれぇ」

 俺は記憶をすごい速さで巻き戻し、自分がこうなった原因を探った。

「この犬の糞に足らないクソ野郎がって言われたらどうしますのん?」

 そして偶然探っていた記憶の箇所とそのくぐもった声が合致した。はっと顔を上げ、ひょっとこの全貌を見る。

 この高身長――まさか。

 唇が乾き、喉が干乾びていく。そんな喉を振動させて、俺はやっとの思いで声を出した。

「お、お前――今日オーディションに来た――コマツタダヒロか?」

 確かそんな名前だったように思う。男の動きがピタリと止まる。俺の息が突然、荒くなり始める。

「お、お前、お、お前、こ、こんなことして、ただで済むと思うなよ」

 男はまたぶつぶつと何か呟いて、ナイフを持つ手を振り上げた。ナイフ越しに見える天井の光が何だか先程より眩しかった。

「や、やめ――」

 言い終えぬうちに刃先が振り下ろされる。膝に刃先が食い込み、肉が捻り潰される。骨に刃先が当たって、足全体が痛みに見舞わた。

 男がナイフを抜くと、傷口に冷気が雪崩れ込む。血がぼたぼたと地面に垂れる。

「ぐあああああぁぁぁああ!」

 歯を食い縛ったが、無駄だった。逆流した胃液が喉元に込み上げた。

「お前は蟾蜍か」

「わ、分かった。こ、こうしよう。お、お前を――いや、お前たちを合格したことにして、番組に出してやる。一本、漫才をやってくれ。そこで――」

「お前は障碍者の母親か」

「な? 頼むよ。お、お願いだ」

「躁鬱の患者担当をする獣医さんか」

 俺は男が油断したのを見計らって、思い切り男の脚を蹴ってやった。ぐぎゅう、と声を出して男が蹲る。俺はもう一発蹴ってやろうと思い、足を後ろに引く。

 男が屈んだ拍子に、面がひらりと俺の足許に落ちた。男が顔を上げる。

 切るのに失敗したかのような角刈りの頭。半開きになった口から覗く歯茎は黒ずんで、ねじなものがそこから何本から飛び出していた。黒目は色を失っており、俺を見据えているようで見ていない。

 腐った生もののような匂いが鼻にこたえた。

 知らない男だ。

 弛んだ頬が吊り上がり、男は微笑を俺に見せた。

 男が立ち上がり、ナイフを振り上げる。先程より男は随分高く見えた。

 そして、この男に何を言っても何を提示しようとも、自分は助からないのだと悟った。

Concrete
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