中編4
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小さな神様

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山の中の、木々に囲まれた野原のような場所である。

もうすぐ陽が沈む。夏の長い昼の時間が終わる。

昼間ほどでなくとも、なお十分な熱量を持った夕日が、世界を紅く、じわじわと焼いている。

影絵のようになった木立の奥から、遠く、近く、ヒグラシの金属質な輪唱が聞こえている。

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僕は野原に一人、立ち尽くしている。

目の前には、彼女が横たわっている。

手足を広げ、夕暮れの空を眺めるように、薄くその目を開けて。

彼女のふくよかな胸からは、血に濡れたナイフが生えている。

僕が刺したのだ、彼女を。

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足元で、ショウリョウバッタがバネのはぜるような音をさせながら跳び上がった。

そのまま視界の外へと消えていく。

僕はただ、彼女を見ている。

残された彼女の時間を、たとえ一秒でも見逃すまいと。

それでも傍から僕を見たならば、ただ放心しているように見えたかもしれない。

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事実、視界は現在の彼女に固定したまま、記憶は過去の彼女を観ていた。

楽し気に僕に話しかける、彼女の姿を。

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「ねえ、神様とか仏様がいるのなら、それはきっと虫のような姿をしているのよ」

北鎌倉のとある寺院で、仏像を眺めながら彼女は言った。

今日は何を言いただすのかと、内心少しワクワクしながら、それでもわざと素っ気ない口調で「なぜだい?」と僕は訊き返す。

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「だって神様は光り輝くお姿をしているでしょう?人の姿でそんなの不自然だわ。

コガネムシやタマムシの方が自然じゃない」

「きっと舞台に立つミュージシャンみたいに、キラキラした派手な衣装を着ているんだよ」

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「神様は人々を救うために、多くの手を持っているんでしょう?人の姿でそんなの不自然だわ。

クモやムカデの方が自然じゃない」

「きっと高速で動かせるから、その残像がたくさんの手に見えるんだよ」

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「神様は世界のあらゆることを見通す眼を持っているんでしょう?人の姿でそんなの不自然だわ。

ハエやトンボみたいな複眼の方が自然じゃない」

「監視カメラのモニターみたいので観てるんだよ。70億個に分割されたやつ。

そこまでいくと虫眼鏡じゃないと見えないね」

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「神様は空飛べるのでしょう?人の姿でそんなの不自然だわ。

チョウやハチみたいに、羽を持っている方が自然じゃない」

「お腹がパンパンになる程、ヘリウムガスを入れているんだ。それなら空だって飛べるさ。

ただ、変な声にはなるし、オナラも止まらないかもしれないけど」

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「屁理屈ね」

そう言って彼女は笑った。

「君の方こそ」

僕も笑った。

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やがて大学で昆虫学研究室に進んだ彼女は、小さな神様たちの研究に情熱を注いだ。

彼女は僕に色々なことを話してくれた。

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生まれ変わる虫の話。

『蝶はサナギになった後、一度身体をドロドロのスープみたいに分解して、綺麗な成虫の姿になるの。

でもサナギの中では身体も、脳も、記憶もドロドロになって、きっと昔のことは何も覚えていないんだろうね。ちょっとさびしいね』

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飛べないのに、飛べる虫の話。

『クマバチってあの体であの羽根の大きさだと、本当は飛べないはずなんだけど、自分が飛べると思ってるから飛べるんだよ?素敵だね』

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擬態する虫の気持ちの話。

『白い花びらによく似た姿のハナカマキリは、白い花を見て、自分と同じように動けないことを可哀そうと想うのかな?ねえ、どう思う?』

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僕はそんなことを話す、彼女ばかり見ていた。

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夕日が彼女の身体を照らす。

彼女はもう動かない。

それほど深く、突き入れたのだから。

それでも僕は目をそらさなかった。

ゆっくりと、世界を影が覆っていく。

山の端から差す最後の光が、今まさに消えようとしている時だった。

彼女の身体が小さく動いた。

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薄く開いた口から、何かが這いだしてくる。

虫だ。

人の舌に擬態する虫、ベニイロシタナメクジ。

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次いで、小さな白い固まりが、列を成して現れる。

人の歯に擬態する虫、ハアリだ。集団で行動する。

ギンバアリやムシバアリも列に加わっている。

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上下の唇が動き出す。

ウワクチビルアゲハとシタクチビルアゲハの幼虫だ。

成虫になると美しい蝶の姿になる。

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ツンととんがった、小さな鼻。

これはハナスジカマキリ。

左右のガラス玉のような目玉。

これはミギヒトツボシテントウとヒダリヒトツボシテントウ。

形の良いまゆげ。

ミギマユゲムシとヒダリマユゲムシ。

柔らかな耳。

ミギミミモドキ、ヒダリモモドキにギンイロピアスムシ。

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艶やかな長い黒髪を形作っていた、10万匹のカラスノヌレバケムシが頭からいなくなってしまうと、すっかり顔面部分はさびしくなってしまった。

ズガイコツカブトの中に潜んでいた、司令塔たるハイイロノウムシが、柔らかくしっとりとして身を草むらに下ろし去っていくと、彼女の頭部から下、白いノースリーブのシャツとプリーツスカート、それに下着に包まれていた四肢と胴体部分に擬態した虫たちも、静かにその場を去っていった。

あるものは飛び去り、あるものは歩き去り、またあるものは地面に潜って行ってしまった。

血液の跡さえ、無くなっていた。

衣服だけが脱皮後の抜け殻のように、その場に残っていた。

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星空の下、僕は立ち尽くす。

いつから彼女は虫たちの擬態する姿になっていたのだろう。

ごく最近だろうか。

ずっと昔からだろうか。

出逢った最初の時からだろうか。

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同時に僕は考える。

僕はいつから彼女を愛していたのだろうか。

僕の心は誰に、何に向けられていたのだろうか。

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草むらの至るところから彼女の気配がした。

気付けば僕は、小さな神様たちの楽園に立っていた。

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綿貫一さま

実は私、ナメクジが大嫌いでして・・・・ベニイロシタナメクジ・・・・・・・・・・・・・寒気がしました。
それはさておき、擬態した虫たちが逃げて行く様子は夢に出てきそうです。

次回作も楽しみにしております。

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