中編3
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下り坂

 冷えていない空気をできるだけ吸わないように、ひとつの人影を追う。魚屋の店先に捨てられている氷に夕日が溶ける。踏み砕いて坂道を下る。

 公園に入る。大きな遊具。滑り台、雲てい、登り網、数種類の遊具がくっつき合ったもの。その中心には空中広場がある。隅のベンチに三人の子どもたちが座って薬指の長さを比べている。そばで大人たちがござを敷いて囲碁をしている。

 今さらなにを悩み、或いはどうしてすべてに満足しているのだろうか。公園を抜け、さらに坂道を下る。一本道を来て盲目か。そういうふりをしたいだけだろうと、カラスが鳴く。

 いつか下り坂は終わり高い塀にぶつかる。塀にそって平べったな道を歩く。若者たちが脇を通りすぎていく。誰の顔も見えず、何体もの人形が空気の淀みに入っていくようなおかしさでぼくたちは前進する。

 横から一人の青年が話しかけてくる。優しい声の彼に帰れないことを伝える。バスに乗ればいいらしい。彼はそうして帰るそうだ。塀の向こうはどうなっているのか聞く。彼は不思議がって答える。塀の上に夜光る線路があって。その向こうは谷底があるだけさ。

 本当に塀の上が光っている。もう夜だと、しびれきった一本足を揺すって外灯が耳打つ。ひとりの女子がへへっと笑ってぼくに合わせてとなりを歩く。彼女の肩が左の腕に当たっている。

 伽藍としたバス乗り場。戸を開けたバスが一台。客用の椅子がない。真ん中に一本と窓枠の下に鉄製の手すりがついている。不自然な、素朴なバス。バス乗り場のそばに塀の上へと続く石の階段がある。登っていく青年が見えて、ぼくと女子もあとに続いて登る。階段を登りきると駅がある。眠たい明かりが目を眩ます。

 電車が到着する。未来を走る全身半透明のデザイン。乗らせてよ、声をあげて女子はぼくから肌を離して電車の方へ向かう。

 駅の隣に本屋がある。店先のばばあが誰に言うでもなく声をはる。おもしろいものが見れるよ。さあ、みんなでおもしろいものを見ましょう。青年も女子もバスの運転手も塀の一番高いところから遠く深くをじっと見ている。青年から聞いた塀の向こう。

 谷底。

 ごとんごとん。ごとんごとん。音が聞こえて。ぼくのよく知る電車が走っている。昔、母と弟と乗ったオレンジ色の中央線だ。昔、恋人がぼくに寄りかかって眠り、そして二人を揺すった小さな箱が谷底に見える。

 本屋のばばあがぶつぶつ言う。ほらほらあれが今夜の子どもたちよ。まだ三人もいたのね。谷底に目をやる。中央線がない。三人の小人とその前に小人の体の何倍もあろう巨大な黒い塊が見える。

 なんだあれは。ばばあが答える。私にはとても難しいわ。子どもたちの手を見てごらん。小さなお手手を血だらけにしてねえ。爪もはげちゃって。目はどうなのかしら。ぽろっと落ちたりやしないかしらねえ。

 ぼくの視界の端には黒いしみができ、それが少しずつ眼球に広がっていく。内臓があるであろう身体の内側が得体の知れないもので埋まっていく。意識を失いかけているぼくを本屋に入るよう、ばばあが呼ぶ。

 大丈夫。あの子の分もまだあるはずよ。呟きながらばばあは店の奥の扉の中へと入ったきり戻ってこない。ただいま。店に女子が入ってくる。未来電車に乗ろうとした女子だ。

 本屋を出ると未来電車はなく、駅のそばには誰もいない。谷底の方には暗闇があるばかり。

 バス停から青年がぼくを呼ぶ。階段を下りて彼とバスに乗る。公園で囲碁をしていた大人たちが手すりを握りしめて立っている。

 エンジンを響かせてバスが進みだす。

 青年が叫ぶ。バスを止めてくれ。彼は言う。ごめんね。君は間にあうかもしれない。ぼくはもう手遅れなんだ。

 耳を突き刺す音でひらく乗車出口。静かに拍手をする大人たち。窓を開けて、なにかを外に投げる青年。初めて彼の顔を見て、それからバスを降りる。

 走り去っていくバスを見送る。地面に転がっているそれを拾う。青年が最後に投げたものは二つの碁石だ。服の裾で擦り、口に入れて吐き出す。

 どっちも黒だ。

Concrete
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