中編6
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満月の誘惑

 10階のケイ子の部屋は、真下に位置する1階の私の部屋と同じ間取りなのにベランダから見える景色は随分と違っていた。

遠くに海が見えるし、ランドマークタワーやベイブリッジさえ小さいけど見えたのだった。

「タバコはベランダでね」と促され、点火しようとするも強風でうまくいかない。やっとのことで吸えたのだが三口吸っただけですぐに灰になってしまった。

吸殻をビールの空き缶に放り込むと私はリビングに戻った。

ケイ子はテレビを観ていた。オリンピック選手がメダルを高々と掲げているシーンであったが、それを観ている風でもなさそうで、うつろな眼をしていた。

「とてもタバコ吸える環境じゃないよ。ケイ子はよくこんな高いところで物干しとかできるね。足が震えちゃって私は無理」

「平気だよ。全然怖いなんて感じないし、慣れだよ」

ケイ子は力なく笑った。

 私と同じ年齢のケイ子は同じ時期にこの集合住宅に居住し、同学年の子供がいてPTA活動も一緒だった。1階のエレベーターホールで会うことも多く、他愛ない話を楽しむ仲であった。

ウマが合う人だな、などと私は勝手に思っていた。

 彼女を花にたとえるなら、迷わず真っ先に「ひまわり」と答えることができる。いつも笑顔を絶やすことなく、行動範囲は広く、常に人に囲まれている印象があった。

目鼻立ちはくっきりとして大きく、趣味であるフラダンスの衣装を身につけると小麦色の肌にマッチし、正真正銘の南の国の女性のようであった。

小柄な彼女はバイタリティに満ち溢れ、好きな趣味を仕事に変えてしまった。

資格をとり、3箇所に教室を持つプロのインストラクターになっていた。

子育て世代を終え、女性としての第二の人生を心から楽しんでいるように見えた。羨ましかったし、微笑ましかった。

 私は彼女とは真逆の生活をしていた。人間関係にくたびれ、極力人と会うことを避け、狭い自分だけの世界に閉じこもることで安心を保てるような、そんな女であった。

 いつも忙しげにしていた彼女に声をかけられたのは夏のことだった。

「明日ウチにきてくれる?一緒にオリンピックを観ようよ。ビール冷やしておくからさ。必ずよ。3時ころがいいかしら」

彼女の部屋にはこれまでにも何度か行ったことがある。

私は嬉しかったし、いろいろ深く考えることもせず、翌日、アボカドとエビのサラダを携え、エレベーターの10階のボタンを押したのだった。それが始まり。

 彼女に異変らしきものが現れたのは秋が顔を出した頃だった。

彼女は1階の日当たりの良くない、雑然とした我が家に頻繁に訪れるようになった。

『車を電柱にぶつけてへこましてしまった』

『食事会では言葉が出てこなくて誰とも話せなかった』

『フラダンスが上手く踊れなくなった』

『金曜に主人が赴任先から帰ってくるけど、食事、何を作ったらいいのかわからない』

『皆がラインで私の悪口を言っている』

『息子は嫁に盗られた』

そんな事を言うようになった。

彼女からは笑顔が消え失せ、血色も悪く別人のようになってしまった。

坂道を転げ落ちるかのように日に日に壊れていった。

『私が悪いんだ』と何度も言った。

彼女はうつ病になってしまったのだと思った。

赴任先から月に数日帰ってくるご主人には自分の不調を話したらしく、病院に行き薬をもらっていると言っていたので少しばかりは安心した。

 

毎日のようにドアフォンを鳴らし、私に会いに来てはクッションを抱きしめ

「辛い。辛い」と言いながら芋虫のように丸まったりしていた。

時折、ボーッとした表情で我が家のベランダ付近を見る横顔が、認知症を患い三年前に他界した私の母親にそっくりなことに気づき、胸に熱いものが込み上げてきた。

 毎日来るはずの彼女は、その日、夜になっても来なかった。

心配になり電話やメールもしたが出なかった。

嫌な予感がしたので直接彼女の部屋に行ってみた。

鍵はかかっておらず、ドアを開け玄関で大声で彼女を呼んだ。

中から「はーい」という返事があった。

「ケイ子、入るよ。どうしたの」

私はリビングに向かった。

部屋の照明もつけず、真っ暗な中、彼女はソファーにもたれていた。

ベランダから見える夜景が絵のように美しかった。

「ケイ子、こんな暗いところにいたらダメじゃない」

「いいのよ。このほうが落ち着くから」

「ダメ。ダメ。ダメだよ。いくら連絡しても出ないから心配したよ」

「夜景きれいでしょ。私はこの眺めが一番好きなの」そう言うとケイ子はしみじみと泣き出した。

私はどうしていいのかわからないまま、思わず彼女を抱きしめた。すると彼女は思いがけないほどの力で私を抱きしめ返し、押し倒し馬乗りになった。

私の髪の毛を撫でながら「寂しい」と言って泣いた。

水で溺れる人が救助の人にしがみつくイメージが広がり、哀れみより、恐怖の心に支配された。

「ケイ子。重いから。お願い。放して」と言ってしまった。

「こんなところに一人でいたら良くないから。これからちょっと買い物に付き合ってよ。肉を買って焼いて、二人で食べようよ。肉を食べると元気になるからさ」

渋る彼女を無理やり連れ出した。夜の8時を過ぎていた。

厚めの赤身のステーキ肉を2枚、一口大に切り分けて、カセットコンロに乗せたセラミックプレートで焼いて我が家で食べた。

甘い果実酒を氷と水で割ったものを、彼女は美味しそうに飲んだ。

肉をほおばった彼女に笑顔が戻った。

彼女がこのまま治ってくれるといいなと思った。

 その夜は、肉を焼いた匂いと共に、先程抱きしめられたときについた彼女のハイビスカスのような匂いの体臭が鼻から離れなかった。

 何十年に一度しか出現しない巨大な満月の夜だった。

晩秋の夜空は鋭利な刃物のように研ぎ澄まされ、天空では壮大な天体ショーが繰り広げられているはずだ。

一階の我が家のベランダからは見えるはずもないが。

 午後11時。いつもなら洗髪のあとに湯船に浸かるのだが寒かったせいもあり、最初に湯に浸かっていたその時だった。

家人がドカドカと慌ててやって来て、浴室のドアを叩きながら言った。

「上から誰か落ちたみたいだ」

嫌な予感で全身がしびれる。

ザバリと湯から上がり、濡れた体のまま今さっき脱いだばかりのTシャツとレギンスを身にまとった。リビングにかけ戻り、カーテンを開け放ち、ベランダから1メートル先の光景を凝視する。

小さな外灯に照らされて人が横たわっている。見覚えのあるグレーのパーカー。

隣の住人が大きな声で救急車を呼んでいる。

裸足のまま1メートル20センチのベランダの柵を飛び越え近づくと、ケイ子だった。目をつぶり、口から細い血の筋を垂らしていた。

「うそでしょ。ケイ子」

彼女の首筋に手を当てた。あたたかい。

彼女の手を握った。つめたい。

この手で10階のベランダの鉄の柵を握り締め、放して落ちたのだ。

間もなく救急隊員が来て処置を始めた。

心臓マッサージなら心臓にするはずなのに、なぜかお腹のあたりをさすっていた。救急車には乗せてもらえなかった。

私の記臆はそこで途絶えてしまった。

 彼女が去って四十九日が過ぎた。

今頃、きっと後悔しているはずだと思う。

彼女の体は消えてしまったけれど、彼女の抱え込んだ悩みや苦しみも一緒に消えてしまったのだろうか。

今頃どの辺りにいるのだろう。

 琥珀に閉じ込められた古代の虫の化石のように、こちら側からは閉じ込められた彼女の姿が見えていたのに。

彼女もこんな私になにか伝えたかっただろうに。

私は無理にでもこじ開け破壊し、彼女を引き戻すべきだった。それができなかった。

そもそも、彼女がなんであんなふうになってしまったのか、その理由さえ、正確に聞かないまま終わってしまった。

虚しい。

彼女と過ごしたあの日々は一体なんだったのだろうか。

 多分あの夜、10階の彼女のベランダには巨大な満月が光り輝いていたはずだ。

あまりにも美しかったから、彼女は満月に向かって手を伸ばしたのだ。

素敵な世界、寂しくない世界に連れて行ってくれると、満月を信じ込んだのかもしれない。

 私は今夜も眠ることができずいる。

さっきまで私のそばで寝ていた猫が、カーテンの隙間に身を滑らせベランダに向かって「ニャオ」と鳴いた。

「お友達、来てるの?」

【了】

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ステキな文章と小夜子さんの優しさと、心にジーンっときてしまいました。
1つ1つが淡いセピア色で、まるで映画のワンシーンのように映ります。

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