長編11
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SOY CLYSIS 1

music:2

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夜の街は、異様な雰囲気に包まれていた。

静かなのだ。

行き交う車の走行音もなければ、家々から漏れるテレビの音、家族団らんの声もない。

無人の廃墟――

舞台セットの街――

そんな言葉が頭に浮かんだが、実際はそんなことはない。

いるのだ。家の中に、人々は。

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ただ、奴らに見つからぬよう、戸締りをして、息をひそめて――

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俺は、路地のブロック塀を背に、乱れた息を整えている。

白く色づいた呼気が空中に浮かび、すぐに霧消する。

2月の夜の空気は冷え切っていた。

だが、今しがた全速力で駆けてきた身体は熱を持ち、背中を汗が流れる。

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「あと、20発ってところ、か――」

俺は残弾を確認する。これが命の綱だ。

夜明けまで、これだけで耐え忍ばなくてはいけない。

必ず生きて帰る。

息子――かずきの許へ。

ぐっと爪が食い込むほど、手のひらをきつく握りしめる。

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その時だった――

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sound:22

shake

「ばああああああああああああああああああああああああああああああ」

真っ暗な路地の奥から、雄たけびを上げながら、こちらに急速に迫ってくるものがあった。

奴らだ――

俺は、反対側の路地の出口に向かって、弾かれたように走り出す。

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あと少しというところで、目指す路地の出口の陰から、ゆらりと人影が現れた。

切れかけて、まばたきをする街灯の下。

夢遊病患者のような足取り――

背を丸め、うつむいたまま――

女だ。

髪の長い、白いダッフルコートを着た、若い女。

ただ、そのコートはどす黒いシミで、まだらになっている。

あれも、奴らだ――

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shake

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

女は天を仰ぎ、甲高い声で絶叫する。

ジャングルの奥地に棲む怪鳥のような声で。

そして、ぐるりと奇妙な動きで首をこちらに向けると、すさまじい速度で迫ってきた。

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「チイ――っ!」

俺は足を止めぬまま、迷わず弾を弾く。

だが、女は予想以上の俊敏な動きでそれをかわす。どう猛な野生動物のように。

残り少ない弾を――

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女の顔が目前に迫る。

俺以前にすでにあわれな獲物を仕留めた、血濡れた真っ黒な口を開けて、女が。

俺は、惜しげもなくもう一発ぶち込む。

今度の弾は狙いをあやまたず、女の口中に吸い込まれていく。

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shake

とたんに女の頭部が弾けた。

ぱんっ――という、風船が割れるような小気味のいい音とともに。

頭部を失った身体はびくびくと短く震えると、どさりと冷たいコンクリの地面に倒れた。

俺は、路地の奥から迫る雄たけびを背後に浴びながら、通りへとその身を躍らせた。

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music:1

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その日は、2月3日だった。

俺は仕事帰り、保育園に息子のかずきを迎えに行き、その足で家の近所のスーパーへと買い物に向かった。

夕飯の食材をかごに入れレジに向かおうすると、かずきが俺の服の裾を掴んでくいくいと引っ張っている。

「――どうした?」

息子の指さす方を見ると、特売品コーナーに、今日ならではというものが並べられていた。

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豆、紙やプラスチックでできた鬼の面、恵方巻。

節分に関する商品だ。

「パパ、あれほしい」

かずきはそう言って、俺の顔を見上げてくる。

俺は息子の頭を撫でると、それらをカゴの中に放り込み、会計を済ませた。

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家への帰り道、聞けば保育園で節分の豆まきをやったのだそうだ。

鬼のお面をかぶった園長先生に向かって、園児一同が力いっぱい豆を投げつける。

鬼は外、福は内――

「僕ね、いっぱい鬼に豆をぶつけたよ」

得意げに話すかずき。

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片手でスーパーのビニール袋、もう片方の手でかずきの手を握りながら、そうかぁえらいなと俺は応えた。

俺が仕事に行っている日中、息子が保育園で友達と元気に遊んでいる話を、息子本人や保育園の先生方から聞くと、ほっとした気分になる。

息子にはいつも笑っていてほしい。

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家に着くと、まずはテレビを点け、かずきの興味をそちらに集中させる。

俺は着替えてから台所に立つと、先ほど買った食材の中から牛豚ひき肉と卵、そして玉ねぎを取り出し、息子の好物であるハンバーグの制作に取り掛かる。

一人暮らしをしていた学生の頃から、もっぱらコンビニ弁当か外食ばかりで、自炊などしてこなかった俺だが、今では簡単な料理なら失敗することなく作れるようになった。

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しばらくして、食卓の上に二人分の夕飯が並ぶ。

手作りハンバーグに総菜売り場で買ったサラダ、味噌汁に、先ほど買った恵方巻だ。

恵方巻は本来、丸々一本を一息に食べるそうだが、かずきの口には大きすぎるので、食べやすい大きさに輪切りにした。

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「さ、食べようか」

俺がそう言うと、かずきはうんと頷いてから、テーブルの上に乗った写真立てに向かって手を合わせた。

「ママ、いただきます!」

写真立ての中には、彼の母親であり、俺の妻である、節子の姿があった。

生まれたばかりのかずきを胸に抱き、幸せそうに微笑む彼女。

それから数か月後の事故でこの世を去るとは、まだ知らずにいた頃の――

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夕食を食べ終えると、俺とかずきは福豆の袋を持って二階の部屋から順に窓を開け、掛け声とともに豆を撒いた。

「鬼は外ー!福はうちー!」

俺に身体を持ち上げられた息子は、力いっぱい豆を放り投げる。

つたない投球フォームのせいで、いくつかの豆は窓の桟にぶつかって、部屋の中に跳ね返ってきた。

明日、掃除機をかけなくては。

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一通りの部屋で豆まきを終え、リビングに戻ってきた。

この部屋での豆まきはまだ終えていないが、そろそろかずきの寝る時間だ。ここまでにしよう。

「さあ、風呂に入ってからお布団に行こうな。いや、そうだ――」

俺はふと思い立って、手にした袋から福豆を取り出すと、5つほどかずきに手渡す。

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「なあに、パパ?」

「かずきは今、5歳だろ?節分ではな、歳の数だけ豆を食べると鬼が寄って来なくなるんだよ。だから、かずきはそれ食べな」

ふうんと言って、かずきは一息にそれらを口に入れ、ポリポリと小気味いい音を立てて噛み砕いた後、飲みこんだ。その直後、急に俺の方を見て、不安げな顔をした。

「パパの分は?パパはお豆食べないの?」

袋を見ると、残りは30粒前後だろうか。

「うーん、パパは35歳だからなあ。残った豆だと、ちょっと足りないかな」

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かずきは、今さっき自分で豆を食べてしまったことを後悔しているような顔をした。

「いいんだよ。かずきが食べてくれたら。パパの分は、明日にでもまた買ってくるから」

そう言って安心させ、かずきを風呂場に連れていこうとした時だった。

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music:3

shake

バンッ――!

リビングの窓をすさまじい力で叩くものがあった。

見ると、窓の外の庭に見知らぬ男がおり、部屋の中にいる自分たちに向かって、必死の形相で何事か叫んでいる。

俺はとっさにかずきを自分の背後へと追いやり、男と対峙した。

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「なんだアンタは!警察を呼ぶぞ!」

俺が大声で叫ぶが、男は尚も窓ガラスを叩き続ける。

「助けてくれ!追われてるんだ!頼む、開けてくれ!中に入れてくれ!」

――追われている?

よく見ると、サラリーマン然とした格好をした男の白いシャツには、点々と真新しい血の飛沫が飛んでいた。

それが返り血ではなく、男本人のものであることは、彼の首筋の生々しい傷口が証明していた。

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俺が窓を開けてやると、男は転がるように部屋の中に入ってきた。

急いで窓の鍵を閉める。

「いったいどうしたんだ?」

男は床にへたり込んだまま、切らせた息の下から応えた。

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「わからない――。

家へ帰る途中、住宅街に入ったところで女にすれ違ったんだ。若い女だ。

酔ったようにフラフラしていて、すれ違ったと思ったら、急に首筋に痛みが走ったんだ。

見ると、女が俺の首筋に噛みついていやがった。それもすごい力でだ。

慌てて振りほどいて逃げ出したんだが、追ってきやがった。

ちょうど見えたこの家に逃げ込んだってわけだ」

女はと訊くと、わからないと男は応えた。恐ろしくて、後ろも見ずに走ってきたのだそうだ。

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「とにかく、ひきはがした時に見たあの女の顔、絶対普通じゃなかった。

それにあの角――」

角――?

「そうだ、角だよ。女の額から、二本の、とがった角が生えていやがった。前髪を押し上げるように、こう、わかるだろ?お伽噺の鬼みたいな角だよ」

俺は鬼に襲われたんだ、と男は行った。

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馬鹿な、と思った。男が怪我をしているのは確かだが、それにしても鬼とは。

酔っているのか?酔って喧嘩でもして、相手に食いつかれたのかもしれない。

それならやはり警察に連絡して、早々にお引き取りいただいた方が――

そんなことを頭の中で考えている時だった。

男が頭を押さえて苦しみだした。

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「あ、ああああ、ぐああああ……。あ、頭が……」

白目をむき、口から涎を垂らしながら、うめくように男が呟く。

額を抑えていた指の隙間から、何かが覗いた。

それはみるみる大きくなる。

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「つ、の――?」

角だった。

スーツの男の額には、男自身が口にしていた、お伽噺の中の化け物が有する尖った角が生えていた。

そして、同時に男は正気を失っていた。

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shake

「あああああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああ」

男は吠えた。

そして、直後、俺目がけて襲い掛かってきた。

不意のことに、あっさり体勢を崩され、床に身体を叩きつけられる。

shake

「ぐはっ――」

肺から強制的に空気が吐き出させられる。

目の前には、蛍光灯の明かりに逆光になった、男の醜く歪んだ顔があった。馬乗りになっている。

男はカチカチと歯を鳴らしながら、俺の顔を舐めるよう見つめていた。

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男はさっき言っていた。

道端でおかしな女に首すじを噛みつかれて、逃げてきたと。

女の額には、鬼のような角が生えていたと。

男の額には今、角がある。

そして、どうやら俺に噛みつこうとしている。

もし噛みつかれたら、俺はいったいどうなる――?

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俺は男の身体の下で必死にもがいた。

しかし、痩せぎすの体形に似合わぬ男の万力のような力に固定され、びくとも動かない。

男の顔が、涎のしたたる口が、俺の顔面に近づいてくる。

噛まれる――!

そう思った時だった。

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――パラパラ

――ジュッ

shake

「ぐあああああああああああああああああああああああ!」

男は悲鳴を上げて、顔を抑えながら俺の身体から飛びのいた。

肉の焼ける、厭な臭いが辺りに漂う。

――助かったのか?何だ?何が起きた?

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俺は上半身を起こして周囲を見回す。

視線の先に、かずきの姿があった。

べそをかきながらも、男の方をにらみつけている。

「パパをいじめるな!鬼は外!」

そう言って、小さな手から、何かを男に投げつける。

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かずきの放った何かに当たった男は、顔を抑えてうずくまっている。

足元にそれが転がってきた。

「――豆?」

豆だった。

先ほどまで、かずきと一緒に部屋の窓から投げていた。

福豆。

鬼の、嫌がるもの。

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かずきはテーブルの上に置いていた、残りの福豆の入った袋を片手に持っていた。

俺は息子の手からその袋を奪うと、中の豆を掴み、振りかぶる。

男はちょうど、体勢を立て直し、俺とかずき目がけて大口を開けて迫りくるところだった。

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「がああああああああああああああああああああああああああ」

その、口に。

放り投げた豆の散弾銃、そのうちの何粒かが入った。

その途端――

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shake

ぱんっ――!

風船が割れるような小気味のいい音とともに、男の頭部が弾けた。

部屋中に真っ赤な肉片を飛ばしながら。

そして、頭部を失った身体はどさりとフローリングの床に倒れ伏した。

息を弾ませて、俺はそれを見ていた。

隣ではかずきが呆然と立ち尽くしていた。

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『緊急放送をお送りいたします』

それまでバラエティー番組を流していたテレビが、聞く者の不安を煽る警戒音とともに切り替わり、緊迫した表情の男性アナウンサーの顔を映し出した。

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『本日20時、政府より感染症による非常事態宣言が発令されました。

それに伴い、事態が深刻であると考えられる○○県××市△△町一帯は、防疫隔離地区に指定されました――』

突如テレビから告げられた、俺が住むこの町の名前。

感染症――?

防疫隔離――?

現実味のない単語が頭の中で踊る。

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『この新種の感染症は保菌者の粘液が体内に侵入することで引き起こされ、感染者の理性と人格を奪います。

保菌者の一番の特徴は、感染後ごくわずかな時間で額の形成される二本の角であり、古来より我が国に伝わる、〈鬼〉によく似た姿になる、ということです』

鬼――。

目の前に倒れた、頭部のない死体。

先ほどまでこの身体の肩の上には、角の生えた頭が乗っかっていたのだ。

あれは感染症の保菌者だった。

男を噛んだという女もまた――。

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『すでに多くの被害が出ております。

ここで大切なお知らせです。

〈鬼〉になった感染者は、周囲の人間に見境なく襲い掛かり、噛むなどして感染を拡大させようとします。

説得は無意味です。

それがたとえ、家族であれ、恋人であれ、友人であれ、〈鬼〉となったものは元には戻りません。

適切に〈対処〉しなければなりません。

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すでに〈鬼〉の対処法は確立されております。

〈豆〉です。

炒った大豆の遺伝子が、感染症患者の粘液に付着すると、両社は激しい化学反応を起こして爆発します。

〈鬼〉を退治するのは〈豆〉なのです。

患者の皮膚に当てることでもひるませることができますが、一番は口内に一粒でも投げ込むことです。

それで、〈鬼〉は倒れます。また――

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未感染者が〈豆〉を体内に摂取することで、感染者を周囲に寄せ付けない効果があることが確認されています。

ただし、肉体の成長にあわせて、効果を発揮するに必要な摂取量が異なることに注意が必要です。

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〈豆〉一粒につき、肉体年齢一歳分。

すなわち、〈歳の数だけ豆を摂取する〉ことにより、感染者を周囲に寄せ付けなくすることが可能です。

皆さん、今日は節分です。ご自宅に〈豆〉の買い置きがある方々は、直ちに〈豆〉を摂取してください。

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また、効果が確認されたことで、自衛隊は大規模な感染者対策活動を予定しています。

明日2月4日午前5時ちょうどに、計画は発動されます。

皆さん、〈豆〉の摂取の後、明日の5時まで家の戸締りを厳重にし、決して出歩かないようにしてください。

繰り返します――』

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冗談のようなニュースを、悲壮な表情で読み上げるアナウンサー。

エイプリルフールにはまだ日が早すぎるというのに。

それに、このアナウンサーは言っていない。

年齢に足る分の〈豆〉がなかったら――

感染者が、先ほどのようなあの馬鹿力で、家の戸締りなどものともせずに侵入してきたら――

一体どうすればいいというのか。

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呆然とテレビを見つめる俺の手を、小さな手のひらが掴む。

「パパ――」

不安げなかずきの視線。

それでも、俺はひとまず安心していた。

神だか、仏だかに感謝していた位だ。

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かずきは、〈歳の数だけ豆を食った〉。

つまり、この子は何があろうと、奴らに襲られることはない。

それは救いだ。何よりの。

問題は――

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「かずき!二階の部屋に行って、押入れの中に隠れていろ!

朝まで隠れんぼだ。誰が来ても――〈鬼〉が来ても、開けるんじゃないぞ!

パパはちょっと、朝まで鬼ごっこだ。

絶対戻ってくるから、良い子で待ってるんだぞ!」

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手元の袋には、豆は20粒ほど。俺の年齢の分には足りない。

この放送が流れた時点で、何人が〈鬼〉になっている?

あの馬鹿力に籠城は通用しまい。

かずきが巻き込まれないようにするには、俺がここを離れた方がいい。

今が午後8時。明朝5時まであと9時間。

命がけの鬼ごっこが始まった。

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