長編16
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木菟と反魂香

白い花に囲まれた君の顔は、まるで眠っているかのように安らかで。

そっと組まれた指先は、恐ろしいほどに冷たかった。

柔らかな内に重ねることのできなかった唇に、後悔は募るばかり。

初めて僕の唇に触れた感触は正に、硝子細工のそれだった。

どうにかして、この美しい硝子細工に命を吹き込めないものだろうか。

もしもそれが叶うのなら、僕はこの身だって惜しくはないのに。

しんしんと冷える夜のことだった。

晴明と律子は連れだって、中学校の裏山を訪れていた。

勿論、晴明から誘った訳ではない。「星が綺麗に見られるから」と、半ば強引に律子が誘ったのである。

因みに律子の立てた計画では、その後晴明を多少強引にでも家に連れていき、一晩ロマンチックに過ごす予定である。

「さみい…。炬燵で丸くなりてぇ…。」

「ネコみたいなこと言ってないでさー。ほら、寒いならあたしが暖めてあげるよ?人肌で。」

そう言って腕に抱き付いた律子を、晴明は呆れたように見た。

「そんなセリフ、どこで覚えてくんだ?」

「お父さんの口説き文句。毎晩部屋で練習してるの、聞こえてくるんだ。」

「うっわ、マジで?気色悪っ。」

乗り気ではなかった晴明も、何だかんだ言って楽しそうにしている。

恋人同士でないとはいえ、若い二人だ。夜の山に二人きりとなれば、それなりに気分も上がるのであろう。

「…あれ?」

晴明に凭れていた律子が、不意に顔を上げた。

「どうした?」

「あそこ…、人がいるよ。」

彼女の指差す先を見ると、茂みの中に確かに動く人影が見える。背は小さく、長い髪を三つ編みのお下げにした少女のようだ。こんな時間に一人、こんな山奥にいるのはあまりに不自然である。

「あの後ろ姿、何か見覚えあるなあ。」

律子が首を傾げ、お下げ髪の少女へ近付く。その気配に気付いてか、少女がこちらを振り返る。

くりくりとした目の可愛らしい、小動物のような顔立ちの少女。

それを見て、律子はあっと声をあげた。

「ヨミちゃん!なんで?」

森の中へ駆けてゆく少女、それをひどく青ざめた顔で見送る律子に、晴明は尋ねた。

「何、友達かなんか?」

律子は曖昧に頷き、彼を振り返った。

「でも、ここにいるはずがないんだよ。だってあの子、去年の11月に病気で…。」

強い夜風に、木立がざわめいた。

葉の擦れる音が、彼女の声を掻き消してしまったのは幸いだったのかもしれない。

しかし勘のいい晴明には、彼女の言わんとする事がはっきり分かった。

「…見間違いじゃねぇの?」

「絶対違う。」

「マジ?」

「大マジ。」

今までにないくらい真剣な表情で頷く律子の手を、晴明は掴んだ。

「確かめに行こうぜ。どうせ暇だろ。」

夜の山中はかなり冷え込んで、言葉を発するにも舌がもつれるほどに二人の身体は震えてしまっていた。

「ハルマキ、寒い…。」

「あ?そんな短けースカート履いてくるからだろ。」

冷たく言った彼であるが、顔色も悪く冷たい手で自分の手を握っている律子が心配になったのか、大きな溜め息をついて自分のマフラーを解いた。

「これ、巻いてろよ。安物だけど暖かいぜ。」

「いいの?さっき寒いって言ってたじゃん。」

「あのな、お前に風邪なんかひかせたらあのジジイに何されっかわかんねーの。分かったら黙って使え。」

律子はその深緑のマフラーを首に巻いた。

僅かに残った晴明の体温が感じられる。暖かい。

「ヨミちゃんはね、あたしの隣のクラスの子だったの。可愛くて、大人しくて…。密かに男子人気が高かったんだ、あたしには負けるけど。」

口調はおどけているものの、その語尾は確かに震えている。

「幽霊には見えなかったんだけど。生気があったわけじゃないけど、確かにそこにいる感じはあったの。」

彼女は改めて進路を探った。

懐中電灯の丸い光の中に、草を踏み倒して作られた道が見える。

「確かに、幽霊じゃ道は作れねぇわな。」

道をなぞりながら進むと、開けた場所に出た。古ぼけた屋敷が建っている、小さな草原のような場所だ。

「こんな屋敷があったなんて、驚きだな。あの中にいるのか?」

「分かんない。でも何だろ、凄くヤな感じがする。」

律子の手に力が籠ったのを感じて、晴明は腹を括った。

「入るぞ。」

小屋の戸に手をかける。しかし、鍵がかかっているようで開かない。誰かが住んでいるのか?

彼は戸を軽くノックし、声をかけた。

「すみません、誰かいますか?」

しばしの静寂。その後に、カチリと鍵を開けるような音がした。

キィ、と耳障りな音を立てて、扉が開く。

身構えた二人の前に顔を出したのはヨミではなく、一人の青年だった。

さらっとした髪質の、中々のハンサムだ。長めの前髪が、夜風で揺れている。

「どうかしました?」

彼は怪訝そうに二人の顔を見た。

「あの…。この辺りでお下げ髪の女の子を見ませんでしたか?」

律子が恐る恐る訪ねると、青年は首を振った。

「いや、見ていませんが…。その子が何か?」

「いや…。」

事情を知らない人間に話したところで、理解を得られるはずがない。

「兎に角、外は寒いでしょう。温かい飲み物でもお出ししますよ。入ってください。」

二人は躊躇ったが、青年の紳士的な態度に少し安心して屋敷に足を踏み入れた。

「この建物、実は僕の持ち物じゃないんですよ。」

白い湯気を立てる湯呑みを二人に勧め、ツバメと名乗る青年は言った。

「この山を散策しているときに偶然見つけて。誰も使っていないようだったので、僕一人の秘密基地のように使っているんです。」

「へえ…。それじゃ、このお茶は?」

すっかり落ち着いた様子の律子が尋ねる。

「僕の持ち込みです。お湯は焚き火で沸かして淹れました。」

「えー、すごーい!なんかカッコいい!」

彼女はつい5分前まで怯えきっていたのが嘘のように、楽しげに青年と会話していた。

一方晴明はというと、出された茶には一切手をつけずに青年のことをじっと観察していた。

「どうしました?」

青年が怪訝そうに彼に視線を送る。

「日本茶はお嫌いでしたか?」

「いや…。俺にはお構い無く。」

困惑した様子の青年に、律子が囁く。

「気にしないで。きっと、あたし達が仲良くしてるから妬いてんのよ。」

「そうかい?」

青年はほっとしたように微笑んだ。

「暫くゆっくりしていてください。僕、少し消えますね。」

「はーい、ありがとうございまーす!」

彼の後ろ姿を見送り、律子は深く息をついた。

「いい人~…。紳士的だし、ツバメさんに乗り換えちゃおうかなあ。」

彼女の挑発的な口調も気にせず、晴明は辺りを見回した。

「おかしいと思わないか?」

「え、何を?」

「見ろよ、これ。」

晴明は出された湯呑みを指した。

「これ、多分対の湯呑みだぜ。」

薄桃色と空色の湯呑み。その側面に描かれているのは、奇妙な形のシルエットである。

彼はそのシルエットの一辺、直線になった箇所を突き合わせ、律子に見せた。

「こうやって合わせると、ほら。一羽の鳥になる。」

「あ、ホントだー。」

真剣な眼差しを彼女に向ける晴明。しかし、彼女は何の事やら全く分からない様子である。

「…分からないのかよ。」

彼は舌打ちをし、呆れたように鼻を鳴らした。

「あいつ、さっきは『自分一人の秘密基地』だって言ってたろ?どうして湯呑みが2つ用意してあるんだよ。」

「え、いつも同じ湯呑み使ってたら飽きるからじゃないの?」

「馬鹿か。これは対の湯呑みだぞ。夫婦とかカップルが使うもんだ。いくら飽きたからって、女物の湯呑み使う奴なんていねーよ。」

「つまり…。」

律子は黙りこんだ。そして、顔を上げた。

「つまり、どういうこと?」

「お前…。それ、ボケてるだけだよな?本気じゃないよな?」

「ば、馬鹿にしないでよ!」

頬を膨らませた律子を宥めつつ、晴明は立ち上がった。

そして玄関への扉を開け、何やらごそごそと物をあさるような音を立てる。

「ちょっと…。」

「やっぱりな。」

心配そうに立ち尽くす律子の前に、戻ってきた晴明は一揃いの靴を差し出した。

淡いピンク色のラインが入ったスニーカーで、柔らかなデザインはそれが女物であることを示していた。

「あ…、これ…!」

律子の顔がひきつる。

「ヨミちゃんの靴だ。遊びに行ったとき、何度も見たから間違いないよ。」

彼女が漸く彼の言わんとする事を理解した、その時。

「律子…ちゃん…。」

「!」

どこからともなく囁くような声が聞こえた。

振り返った律子は目に飛び込んできたものは、暗い廊下にぽつんと佇む白い人影であった。ヨミだ。

「…ヨミちゃん!」

律子が彼女に駆け寄り、その体を揺さぶる。

「ヨミちゃん、どうしてこんな所にいるの?ねえ!」

「たすけて…。たすけ、て…。」

無表情で、抑揚のない声で繰り返す彼女。その姿は、生きた人間のそれには到底見えなかった。

「ヨミちゃん、体が冷たいよ。暖めなくちゃ…。」

律子がヨミの手を引く。しかし、彼女はその場に佇んだまま動こうとしなかった。

「どうしたの、ほら早く!」

その時、床が軋む音がした。

慌てたような足音もする。

「律子、ひとまず退散するぞ。」

晴明は律子をヨミから引き剥がし、居間へ入って扉を閉めた。そして扉に耳を押し当て、様子を伺う。

足音の主は扉の前で止まると、溜め息をついた。

「だめじゃないか、勝手に抜け出したりしたら。」

それは間違いなくツバメの声であった。

「君の姿を見た人間が来ているんだ。誤魔化して足止めはしているけれど、いつ勘づかれるか分からない。」

「ごめんなさい…。」

「…まあいい、過ぎたことさ。どちらにせよ、いずれ消すつもりだし。さあ、部屋に戻るんだよ。」

足音が遠ざかっていく。

晴明は不安げな律子を居間に待機させ、足音を忍ばせて廊下に出ると青年の後を追った。

木製の廊下を軋ませないよう気をつけながら、晴明は歩いていた。

ヨミは助けを求めていた。あいつに何かされているのか?それにあの男、俺達の事を消すと言っていたな。殺すつもりか?しかし、そんなことをすれば自分もただでは済まないだろう。

ツバメを見失わないよう、かつ見つからないように適度な距離を保ちながら、彼は進んだ。

暫くすると、ツバメらは一つの部屋に入った。

晴明は素早く扉の前に回りこみ、聞き耳を立てる。

「ここで大人しくしててね。今日の分を済ませてあげるよ。」

今日の分?何の事だ。

晴明は扉の隙間に目を当てた。甘い香りが鼻腔を擽る。何の匂いだろう。

可愛らしい、いつか遊びに行った律子の部屋に似た作りの部屋だ。

ベッドにはヨミが座っている。傍らには、青年が何か手帳のような物を持って立っていた。

彼は手帳を開き、何か書き込み始めた。

「なんてこった…。」

手帳を持った青年の指先から、白っぽい煙のようなものが立ち上っている。

それがヨミの胸に手繰り寄せられるようにして、吸い込まれていくのだ。

「ぐぅっ…。」

青年は手帳を閉じると、ふらりとよろめいてその場に片膝をついた。

それを見ていたヨミが、悲しげに顔を歪ませる。

「もう、やめて…。このままじゃ、豊房が死んじゃう…。」

豊房というのは、ツバメの本名か。

彼は額に汗を滲ませながら、微笑んだ。

「だ、大丈夫だよ、心配しないで。それに、やめる訳にはいかないんだ。こんなところでやめる訳には…ぐあぁ!」

先程煙が出ていた彼の左手に、青黒く血管のようなものが浮き上がる。

「この…!」

豊房は反対の手に持っていたペンを振り上げ、左手甲に突き立てた。

思わず目を瞑った晴明の耳に、ガリガリという何かを引っ掻く音が入る。

「お願い、もうやめて!」

ヨミの泣き出しそうな声が聞こえる。

恐る恐る目を開いた晴明が目にしたのは、左の手から黒っぽい突起を何本か生やした豊房の姿だった。

「しつこい…しつこいんだよ!」

彼は突起に手をかけ、引き抜く。

血塗れの鳥の羽根のようなものが、床に舞い落ちた。

「こんなはずではっ…。」

一本抜いてはまた突起に手をかけ、引き抜いて捨てる。それを繰り返すと、辺りはあっという間に黒と赤に染まった。

全ての突起を抜き終えた彼はふらふらと立ち上がると、乾いた笑い声を立てた。

「…はは、君の部屋、汚してしまったね。ごめんね、すぐ掃除するからね。」

ロッカーから箒のようなものを取り出し、掃き掃除を始めた彼。もはや正常な人間の目をしていなかった。

「…冗談じゃねぇよ」

軽く眩暈を感じ、晴明はよろめいた。

そのせいで床を勢い良く踏んでしまい、ギシッと大きな音がした。

「やべっ…。」

目の前の扉が開く。

「あーあ、見ちゃったかあ。」

四角く切り取られた風景の中で、豊房が穏やかな微笑みを浮かべていた。

「お、お前…。何やってたんだ、あれは一体…!」

「君が目にしたとおり。見られたからには消えてもらうよ。」

晴明に歩み寄る豊房。その体がぴくりと痙攣して、ひきつった。

「う…嘘だ、手帳使ってないのに…!」

先程の比ではないほど素早く、広範囲に血管のようなものが浮かび上がる。

「あ…なんで…なんでだよぉぉぉ」

不気味に脈打つ腕に、黒い突起がびっしりと生える。

「…気色わり。」

晴明は動けなくなっている豊房を避け、ベッドに座っていたヨミをひょいと抱えた。

「な、何をするんだ!」

「ん?囚われたお姫様の救出。」

思うようにならない体を無理に引き摺って、豊房は彼を捕らえようと手を伸ばす。

「ヨミは…。ヨミは僕のものだ!僕のものなのに…!」

「…本っ当、気色わりーな。変態野郎が。」

彼の手を難なくかわし、晴明は部屋を出た。

「本当なら、何者だか分からないあんたの事なんて放っとくんだけどな。あんたを待ってる子がいるんだよ。」

俺も人がいいよ、とぼやきなが走る彼の腕の中で、ヨミは涙を流していた。

「ハルマキ!大丈夫?」

晴明を出迎えた律子は、ヨミの姿を見て目を見開いた。

「…何があったの、すごく騒がしかったけど。」

「それはその子に聞いてくれ。俺、疲れちまったよ。」

ソファに倒れこんだ晴明。律子はヨミに向き直った。

「ヨミちゃん、話せる?」

彼女は頷いた。

「あのお兄さん…。ツバメさんは知り合い?」

「うん…。」

ヨミはその場にくずおれた。

「律子ちゃん、お願い…。助けて!」

その冷たい背中をさすりながら、律子は彼女を宥めた。

「大丈夫、落ち着いて。晴明が連れ出してくれるから。」

「違うの!」

泣きじゃくりながら、彼女は言った。

「ツバメ…。豊房を助けてあげて!」

豊房とヨミは年こそ離れてはいるものの、幼い頃からよく遊んでいたのだという。

喘息持ちであまり同年代の子供と遊べなかったヨミのことを何かと心配して、よく訪ねてきてくれたのだそうだ。

彼は物語を創作するのが好きで、ツバメという名も自らの本名である「飛燕豊房」から一文字取ったペンネーム。よく自分の書いた御伽噺を彼女に聞かせ、喜ぶ彼女を見ては自分も嬉しそうにしていたという。

時は経ち、二人ともそれなりの年齢になると互いに意識しあうようになった。

どちらからともなく気持ちを伝え、付き合い始めた矢先であった。

ヨミの喘息が悪化し、入院しがちになってから、その命の灯火が消えてしまったのは。

そこからは分からない、覚えていないとヨミは言った。

気がついたらこの家で、少しやつれた彼が身のまわりの事をしてくれていたのだという。

「でも、既にこの世にいない私がここにいるのは不自然なこと。それを無理に留めるために、あの人は何らかの代価を払っているはず。現に、最近彼の様子が変なのよ。」

あの気持ち悪い症状。あれがそうか。

晴明は一人納得した。

「放っとけよ、自分が寂しいからって死人生き返らすような身勝手な奴。それよりさっさとずらかろうぜ。あいつ、いつ動き出すか分かんねぇし。」

「そんな…。」

ヨミがさめざめと泣く。

「ハルマキ…ひどいよ。」

「ん?」

律子は立ち上がり、ヨミの手を引いた。

「ヨミちゃん、行こう。」

止める間もなく、彼女は弾丸のような勢いで居間を飛び出していった。

朦朧とする意識の中で、豊房はあるやりとりを思い出していた。

悲しみに暮れていた自分の前に、まじない師を名乗る女が現れた。

『反魂香って知ってる?』

女はそう聞いてきた。

『死者の魂を現世に呼び戻す、不思議なお香。』

しかし、魂だけではすぐ消えてしまう。

『だから特別大サービス。この手帳とペンをつけてあげる。』

生きた人間の肉体と引き換えに、死者の肉体を呼び戻すことの出来る手帳。

『その名も反魂帳。どう?』

生きた人間の肉体とは、どういう事だ?

『おまじないっていうのは強力なほど、大きな見返りが必要になるものよ。おまじないで死者の魂を呼ぶのは簡単だけど、留めるのはとても大変なことなの。呼び戻す相手に肉体を捧げる覚悟があるのなら、使うといいわ。』

覚悟は十分にあった。

最初は半信半疑だったが、効果を目にしてからは疑いを捨てた。

僕は、何か間違ったことをしただろうか。

そんなはずはない。

僕は悪くない。間違ってない。

「今晩は。」

不意にかけられた声に、顔を上げる。

「あ、あなたはあの時の…。」

突然目の前に現れた女は、出会った時と同じように薄紫のベールの奥で妖しく笑っていた。

「その様子だと、随分あの手帳を使ったみたいね。」

「…ええ。お蔭様で、ヨミも大分戻ってきました。」

女はしゃがみこみ、豊房の頭を撫でた。

「頑張ったのねえ。あたし、そういう健気な男好きなの。その努力が無駄だったと知っても、あなたはそのわずかに残った正気を保てるかしら?」

ぐったりしていた彼が、ゆっくりと頭をもたげる。

「…どういう事です?無駄?ヨミは僕と一緒に生きられるんですよね?」

「あら、あたしそんなこと言ったかしら?」

女は意地悪く口角を上げた。

「確かに、反魂香は死者の魂を呼び出すための古来より伝わる術よ。でも、手帳の方は私が反魂の術を参考に独学で作ったもの。不完全なのよ。」

黒い羽根を撫でながら、女は続けた。

「これはあなたの欠けた体を補おうとする、霊的な防衛反応のようなものね。辺りの霊体を取り込んで…。あなたの場合はツバメ君だから鳥なのかしら?」

「…騙したんですか」

「いやぁね、効果はあったでしょ?ただ、副作用がどう出るか分からなかっただけ。多分、極限まで磨り減ったあなたの体は、不足分を求めて彷徨うようになるでしょうね。そして、何よりも先に元々自分の体だったものを取り戻そうとするはずよ。」

豊房の顔色が変わった。

「理解できた?あなたがあの子の側に寄ると、あの子は消えてしまう。全て元通り。」

「僕が…。僕がヨミを消す、だって…?」

彼は左腕の羽根を掴み、毟り取った。

「嫌だ、嫌だよそんなの。…愛してるのに!」

廊下はすぐに黒い羽根で一杯になった。

「愛してるんだ、一緒にいたいんだよ!」

そんな彼を見下ろして、女は冷ややかに笑った。

「馬鹿ね。でも、その馬鹿さ加減が堪らないわ…。あたし、健気な男も好きだけど、馬鹿な男はもっと好き…大好きよ?」

そして、女は芝居がかった素振りで耳を澄ませた。

「あら?誰か来るわね。女の子みたい。」

「え!」

見ると、長い廊下の先に見覚えのあるシルエットが見えた。

「あ…、ヨミ…。」

彼女は豊房の姿を見つけると、悲しそうな顔をして歩調を早めた。

それに呼応するように、彼の腕の羽根が逆立つ。

「く、来るな!来ちゃダメだ!」

しかし、彼の言葉など耳に入っていないかのように、彼女は豊房の目の前まで近付いた。

「ごめんなさい…。私のために、そんな風にしてしまって。」

ヨミは彼の脈打つ腕を抱きしめ、頬擦りをした。

「ほら、まだこんなに暖かい。無駄にしちゃ駄目だよ。」

「いいから早く離れ…。」

身を捩る彼を、後ろから律子が押さえる。

「あんたほんとにバカね、ヨミちゃんの気持ちが分からないの?」

「え?」

ヨミは豊房の腕を抱き止めたまま、微笑んだ。

「私との別れは、あなたにとっての冬なのよ。ツバメは渡り鳥、冬が来たら旅に出るもの。また新しい春を探してほしいの。」

「どういうことだい、分からないよ!」

「回りくどい言い回しは、あなたの十八番でしょ。」

豊房の腕が興奮したようにヨミの体を包み込む。彼女の姿は次第に薄れ、またそれに連動して腕も元に戻った。

「これでもあの子の気持ちが分からないなんて言ったら、あたしがあの子に代わってハッ倒すよ?いい加減に目を覚まして、あの子を眠らせてあげなさい!この陰険モヤシ男、変態ド腐れ野郎、身勝手キザ鳥!」

「…。」

ヨミの消失が効いたのか、律子の意味不明な悪口が効いたのか、はたまたその両方か。それは分からないが、豊房は項垂れて動かなくなった。

「…あーあ、ハルマキ呼んで運ばせよ。」

その場を後にした律子。その後ろ姿を、今までどこに隠れていたのか、先程の女がつまらなさそうに見ていた。

気絶している豊房を連れて、晴明と律子は木菟の家を訪れていた。

「反魂の術は諸刃の剣、とでも言うのでしょうか。面白いですね。」

「おっさん、少しは気ぃ遣えよ…。」

項垂れている律子をちらりと見て、晴明が囁く。

「おっと、これは失礼。」

口ではそう言っているものの、彼の態度には全く反省の色が見られない。

「皆さん、お茶が入りましたよ。」

盆を持って現れた経凛々が、室内の気まずい雰囲気を察知する。

「…先生がまた何か仰ったんですね。すみません。」

律子が顔をあげ、ぎこちなく笑った。

「ううん、言の葉ちゃんが謝ることじゃないし、木菟のおじさまも気にしないで。」

経凛々は申し訳なさそうに頭を下げた。

「これから彼、どうするんですか?」

「とりあえず、目を覚ましたら住所を聞き出して、それから送り届けるんだな。全く、早く起きろよな。」

晴明が豊房の額にデコピンをかます。

ばちん、という鈍い音が室内に響き渡った。

「痛っ」

「あ、起きた。」

フラフラしている豊房の肩を、晴明は掴んだ。

「おいてめぇ、どこ住みだ。住所言え。」

「ひっ…。」

空気の抜けるような音を立てて、彼は再び気絶した。

「何だこいつ、また白目剥いてやがる。」

「いや、ハルマキ。今のはあんたの聞き方が悪い。」

その時、経凛々がおずおずと手を上げた。

「あの…。暫く家で面倒をみてあげてはいかがでしょう。あんな酷い怪我をした状態では、帰れないでしょうし。」

「何を言い出すんです、経凛々さん。」

木菟がすっとんきょうな声を上げる。

「面倒を見るって、犬や猫じゃないんですよ。大変なことです。」

「いえ、私、この人の言い分も少し分かる気がするんです。私も過去に、愛した人を失いましたが…。もしもその時、私が反魂の術を知っていたならやはり彼と同じことをしたかもしれません。少しお話してみたいというのもあります。」

なるほど、考えてみれば確かにそうかもしれない。豊房と経凛々には共通項がいくつかある。

木菟は困ったように笑った。

「…仕方ないですね、情操教育の一環として認めましょう。」

「本当ですか?」

「しっかり自分で面倒を見るんですよ?」

「はい!」

目の前で繰り広げられた超展開に、晴明と律子は顔を見合わせた。

「経凛々さん、少しおじさまに似た?」

「…帰ろーぜ。」

晴明は机の上の茶菓子をいくつかくすねて、律子と共に木菟宅をあとにした。

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