中編6
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迷路(メイズ)2

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これは僕が大学の夏休みを利用して、車でひとりぶらぶらと旅をした時の話だ。

当時、免許を取り立てだった僕は、ただもう車を運転すること自体が楽しかった。

それまでもっぱら移動の脚といえば電車であったので、僕の好きななんでもない景色――見晴らしの良い峠や、青々とした稲が風になびく田園地帯など――を拝める場所へは、(うまいこと近くに線路が通っていない限り)なかなかに行きづらかったわけだが、車は僕を望むままに連れて行ってくれた。

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カーラジオを適当に流しながら、気の向くままに車を走らせる。

時間はあった。なにせ暇な大学生だ。

金はなかったが、父親から借りた(壊すなよ、と何度も釘を刺された)自家用車が、移動手段兼宿泊場所にもなったので、食費と銭湯代くらいで事足りた。

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ある山奥の小さな町に差し掛かった時だった。

車窓を通り過ぎる、道端の看板のひとつが、僕の目に止まった。

〈ひまわり迷路〉

看板にはそうあった。

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興味を引かれ、看板の指し示す方へ車を向ける。

20分ほど山道を走らせると、万緑に染まる景色の中、黄色に山肌を染め上げた、目的地らしい場所が見えてきた。

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車を駐車場に止め、小高い丘の上からその場所に眺めると、僕はため息をついた。

斜面を埋め尽くす、一面のひまわり。

植えられているひまわりの種類の違いか、区画ごとにわずかに色味を変える、黄色のモザイク。

その中を、細い通路が縦横に走っている。

確かに、ひまわりでできた迷路だった。

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駐車場の近くに、白いペンキが塗られた古い木造の、電話ボックスよりも一回り大きいほどの建物があった。

中にはひとり、初老の女性が座っており、こっくりこっくりと船を漕いでいた。

どうやら入場券を売っているらしい。

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辺りに人はいなかったので、その気になれば受付を素通りして入場できそうだったが、僕は女性に声をかけチケットを求めた。

女性は小さく伸びをして、「500円ね。ごゆっくり」と言って、再び椅子の背にもたれた。

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斜面を下って、迷路の入り口に至る。

それは広大なひまわりの壁にうがたれた、大人ひとりがやっと通れるほどの細い通路だった。

脇に「入り口」と書かれた矢印型の木の看板があったから、ようやくそれと知れたくらいだ。

花は大人の背丈よりも高く、密集していて先が見通せない。

背後から丘を渡る涼しげな風が吹き付けてきて、ひまわりが一斉にさわさわと揺れた。

花たちに誘われるように、僕は足を踏み入れた。

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ひまわり。

ひまわり。

ひまわり。

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ひまわり。

ひまわり。

ひまわり。

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景色は目の前のひまわりと、その上に広がる紺碧の空のふたつしかなかった。

奥から、子供のはしゃぐ声がする。

待ちなさいと呼ぶ、母親の声がする。

遠くの丘から、蝉の群れ鳴く声が響いていた。

風にひまわりがさわさわと葉を鳴らす。

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花たちは真夏の太陽の光をその身に受けて、真っすぐに立っている。

緑の葉を大きく伸ばし、自身の存在を誇示するかのように。

こうしてみると、ひまわりはやはり夏の花だ。

黄色い花弁も、緑の葉も、茶色い種をたたえた顔も、ぎらぎらとした強い日差しに色と輪郭をくっきりと浮かび上がらせている。

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小路はふたつに分かれ、その先でさらに三つに分かれていた。

右に曲がる。

左に曲がる。

景色はそれでも変わらない。

左に曲がる。

右に曲がる。

それでも見えるのはひまわりだけだった。

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そのうちに、完全に方向感覚を失った。

もはや元来た道もわからない。

その時、僕は久しぶりに感じるある感覚に、少々郷愁を覚えていた。

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迷子。

思えば、迷子になるなんて、何年ぶりのことだろう。

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子供の頃、自分の知らぬ場所に迷い込んだとき、(それはよく知る場所から実はそんなに離れていなかったとしても)なんとも心細い気持ちになったものだ。

今なら、元来た道を引き返すなり、番地の看板を調べるなりで、よく知る場所へ戻る手段はすぐに見つかるだろう。

身近と繋がった未知の場所に過ぎないのだ。

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しかし、子供の頃の迷子は違っていたように思う。

そこは、迷い込んだその場所は、自分の知る日常とは繋がっていない世界だった。

隔絶された、世界の裏側。

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だから、恐ろしくて、心細くて、泣いた。

自分を囲む世界が広くて、遠くて、そう感じて、泣いた。

忘れていた感覚。

いや、自分が車で旅に出たいと思ったのは、そういう感覚を求めていたからではないか。

大人になるにつれ、知識によって覆い隠され、薄められてしまった、この感覚を。

僕は迷路の真ん中で、目をつぶり、しばし立ち尽くした。

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耳に、ヒグラシの鳴き声が届いた。

目を開けると、先ほどまでの青空、太陽の光が嘘のように、辺りは夕暮れに包まれていた。

いったいどれくらいの間、僕は我を失っていたのか。

迷路を抜けなければいけない。

帰らなくてはいけない。

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辺りを覆うひまわりの花は、夕闇にすでに色を失っていた。

心細い気持ちになった。

先ほどまで、あれだけ色づいていた花たちが。

夏という、生を、命を、輝かせていたひまわりたちが。

今は一様に影に沈んでいる。

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僕の背丈よりも高い花たちは、今はその頭を重そうに地面に向けて垂らしうつむいて、僕のことを見つめていた。

風に、花たちが揺れる。

ざわ、ざわ、ざわわ。

大きな頭は、まるで人の首のようだ。

丘を埋め尽くした花たちは、今は大勢の影法師だった。

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空が赤い。

もうじきこの空も、闇に染まる。

昼間のまぶしさとの、その対照さが、僕をより一層心細い気持ちにさせた。

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不意に、花の壁の向こうで足音がした。

ざっ、ざっ、と力強く歩く音。

どころかで聞き覚えがある音だった。

懐かしい音だ。

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脳裏に、この春に亡くなった、親戚の叔父のことが思い出された。

父の弟だった人だ。

比較的インドアな父とは違い、スポーツマンで豪快な人だった。

僕のことも、子供の頃、よく旅行に連れて行ってくれた。

そんな叔父は、50そこそこで、先日事故で亡くなった。

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足音が止まった。

壁の向こうに誰かがいる。

きっとこちらを向いている。

僕らはひまわりの壁越しの向かい合っている。

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――叔父さん?

――ああそうだよ。久しぶりだな。元気でやってるか?

――うん。今、大学は夏休みで、取ったばかりの運転免許で、こうして旅行をしてるんだ。

――そうか、事故には気をつけろよ。お前はそそかっしいところがあるからな。

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――叔父さんは、どうしてここにいるの?

――ここは裏側だからな。それにもうすぐ夜になる。お前はここにいてはいけない。

――どっちが出口かわからないんだ。

――わからないなら、とにかく歩け。

ここにいてはいけない。

ここにいてはここにいてはこここここここ……

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ガサガサと目の前のひまわりの壁を押し分けて、何かがこちらに近づいてきていた。

通路のない、茂みの中を。

僕は急に恐ろしくなって、その場を駆けて離れた。

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ひまわりの間を伸びる、細い通路。

それはふたつに分かれ、次に三つに分かれた。

それを右へ。

次を左へ。

背後からガサガサと、ひまわりを押し分けてこちらに近づく音がする。

息を切らせて、僕は走る。

駆ける。

駆ける。

右へ。

左へ。

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ガサガサ。

ハッ、ハッ。

ガサガサ。

ハッ、ハッ。

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気付けば、迷路を抜けていた。

振り返ると、残照に照らされた丘を覆う、無数のひまわりが見えた。

その、ところどころに、人影が見えた。

真っ黒な、人の形をした何かがうごめいていた。

そのように見えた、ただのひまわりだったかもしれない。

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舗装された道を通って、車を停めてある駐車場にたどり着いた。

白いペンキで塗られた、木造の小屋の中を覗いてみると、もう女性の姿はなかった。

車に乗り込んでキーを差し込みエンジンをかけると、点けっぱなしだったカーラジオからゆるやかな音楽が流れだした。

静かに車を発進させた。

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バックミラーの中、ひまわり畑がゆっくりと遠ざかっていく。

背後で自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、僕はもう振り返りはしなかった。

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