中編7
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トイレ怪談

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「ったく、あのセンコー、こんな時間まで居残りさせやがって――」

俺はひとり悪態をつく。

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今は夏休み。

高校で水泳部に所属する俺は、部活の練習に手を抜いていた。

だってしょうがねえじゃん。

一学期のラストでやった、大会のレギュラーを決める部内のレースに負けて、チームから外された。

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俺だって、それまで滅茶苦茶頑張ってたんだ。

んで、結局ダメで、心が折れたってやつ?へこんでたんだよ。

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それをあの顧問のセンコー、「たるんでる!」とか言いやがって(いや、実際たるんでたけど)。

んで、俺だけ居残り練習だよ。こんな、夏だってのに薄暗くなる時間まで。

マジやってらんねー。

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俺はぶつくさ文句を言いながら、更衣室で着替えを済ませた。

さて帰るか、と思ったその時、急に下腹が鳴り出した。

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やべえ、プールで冷えたかな?

かすかに感じた便意は、みるみる膨らんで俺を支配した。

頭の中に、緊急事態を告げるシグナルが赤く点滅する。

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俺の頭はこの窮地から脱するための場所を表す言葉で埋め尽くされる。

便所、

WC、

厠、

雪隠、

お花摘み......

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shake

「ト、トイレ......、トイレ!」

俺はうめくように云うと、今いるプール施設のトイレへとダッシュする。

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が、俺は辿りついた先で立ち尽くすことになる。

男子トイレの入口には、救いを求める小さき者の進入を阻むかのごとくロープが渡されており、その真ん中に1枚の紙が貼られていた。

曰く――

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shake

sound:18

『 水道管破裂、使用禁止!』

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「マジかよ......ありえねー」

俺は腹を抱えたまましばし立ち尽くす。

だが、

shake

sound:9

ギュルルルシシャ......キュルルゴニュウ......

不定形の怪物の鳴き声のような音が腹から響き、「立ち止まるな......さもなくば貴様の肛門の戒めを内側から喰い破るぞ......」という、内なる暴虐者の意思を俺に伝えてくる。

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背筋に冷たい汗が流れ伝う。

ここがダメなら女子トイレ......は、誰もいない放課後とはいえ、緊急事態だとはいえ、思春期の男子には立ち入れない場所だ。

となると、

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俺はヨロヨロとした足取りで、外履きに履き替えプール施設を抜け出す。

本当ならダッシュで移動したいところだが、もはや今の状態ではスタートダッシュの時点で後方に何かを噴出しかねない。

鞄など持っていられない。身体ひとつで移動する。荷物はあとで取りにくればいい。

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俺が向かった先は旧校舎だった。

通常の教室はなく、特別教室や部室、倉庫などを利用されている建物だ。

その1階奥にあるトイレ。

それが最短距離にあるトイレなのだ。

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校舎内は夕闇に沈んでいた。

無人の建物は不気味に静まりかえっている。

そら怖ろしい気持ちがあったが、腹の中からそれ以上のリアルな恐怖が迫っていたため、めげずに歩を進めることができた。

要は切羽詰まっていたのだ。

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トイレの前まで辿りつく。

安心して気が緩みそうになるが、下着を下ろして便座に座るまでが遠足だ(遠足ではない)。

最後の気力をふり絞る。

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男子トイレの中は、一層暗かった。

照明のスイッチを手探りで見つけ出す。

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カチン……カチン、と小さく甲高い音がして手洗い場の明かりが灯る。

しかし、室内全体を照らす天井の照明は、どうやら電球が切れてしまっているらしい。

そのせいで室内にひとつだけある個室は、完全に闇に沈んでいた。

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はっきり言って、気味が悪かった。

しかし贅沢を云っている余裕はない。

個室に飛び込むと、扉を絞め、下着を下ろし、洋式便器の便座に腰を下ろす。

そして――

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sound:9

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sound:8

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sound:1

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「ふう――」

俺は安堵の息を吐いた。

人間、気兼ねなく用を足せる瞬間というのは例外なく至福の時なのではないだろうか。

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俺はようやく人心地ついた。

それと同時に五感が正常に働き、今自分がいる場所について、情報を収集し始める。

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周囲は静かだ。なんの音もしない。

今だったら遠くの教室で誰かが椅子を引いたとしても、それに気がつくだろう。

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室内は乾燥している。

使う者のめったにないトイレは、水気がないのだ。

屋外で感じる蒸し暑さもなく、汗が乾いて肌寒さすら感じる。

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そして、暗闇に慣れた目が見た、個室内の風景。

四方から壁が迫っている。

狭い空間だ。

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shake

あ!そうだ、紙は......

……よかった、トイレットペーパーは潤沢にあった。

壁に顔を近づけて見ると、様々な落書きが浮かび上がった。

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2年F組の〇〇(女子名)が好きだー!

〇〇(教師名)の野郎、卒業までにぶっとばす!

〇〇(男子名)の奴、風紀委員のくせにタバコ吸ってんだぜ......

〇〇(校長名)は生徒に手を出すロリコン変態オヤジ

子猫お分けします。連絡先は〇〇〇-〇〇〇〇...

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便所の落書きは実にバリエーション豊かだ。

仮にも学校の中なのに、これほど落書きはひどいのは、普段使われていない古い校舎だからか。

かすれていて、いつ書かれたものか判然としない文字もある。

そんな中に、こんなものがあった。

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sound:21

僕はここで死にました。

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――なんだこれ?

――なんで過去形?

書いた人間の性格を表すかのような、小さく、震えた、弱々しい筆致。

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個室の扉の内側の、低い位置に書かれている。

便座に座っている、今の姿勢でも腕を伸ばして書くのがつらいほどの位置。

これを書くには、トイレの床に腰を下ろして――

こんな狭い個室の、便座の真横に床に?

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ぞくり、と背筋に悪寒が走る。

と――、

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sound:15

チャイムが鳴った。

無人の、使われていない校舎に、チャイムが。

思わず、びくりと身体を震わせる。

動悸が早くなる。

自分の胸の鼓動が聞こえるほどだ。

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トイレ内の空気が変わったのがわかった。

肌が感じる。

湿った、生暖かい空気。

梅雨時のプール施設のような。

息苦しくなるような、質量を持った空気。

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個室のドアの下、床との間に空いた隙間から、ひたひたと水があふれてきた。

それは生き物のように床を這い、個室全体に広がっていく。

四方に迫った壁が、汗をかいたように、泣き出したように、じっとりと濡れていく。

壁に書かれていた文字たちが、ぐにゃり、ぐにゃりと溶けだして、黒い筋になっていく。

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俺は慌てて、トイレットペーパーを手に取った。

早くこの個室から逃げ出さなければ。

早く、この紙で――

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ふと目にしたトイレットペーパー。

そこに、真っ赤な文字が見えた。

俺に向けられた、誰かからのメッセージ。

それも、現在進行形で書かれている言葉が。

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『僕はここで死にました。

ドアの外には、僕をいじめている人たちがいます。

皆、僕を嗤っています。

泣いている僕を、許しを乞うている僕を、嘲笑いながらドアを叩いてきます』

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手が紙から離れない。

カラカラと、自分の手が勝手にトイレットペーパーを引きずりだす。

文字が、真っ白な紙の上に、次々と沁みだしていく。

目が、文字を追っていく。

目が離せない。

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『初めは些細なことでした。

仲のよい友達だっていました。

それが、ひとりの女子のちょっとした悪口で。

僕に対するからかいの一言で。

すべてが変わってしまったのです』

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『その女子がいるグループと仲のよい、男子のグループが、僕をからかい始めました。

初めは皆、本気じゃなかった。

でも、人数が増えてくそのうちに。

クラス全員が関わるようになった、そのうちに。

僕をかばえば、その人も。

いじめられるとわかった時から』

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『誰もが誰も、皆して。

僕を。

許してって云ったのに。

痛いって。

厭だって。

つらいって。

やめてって。

なのに、それなのに』

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足元に、引きずりだした紙が山を作っていく。

濡れた床が、その山を麓から溶かしていく。

俺の手は止まらない。

厭なのに。

厭なのに。

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『その日、僕は皆に追われて。

逃げて、逃げて、逃げ回って。

校舎中を逃げ回って。

このトイレにたどり着いて。

個室の中に逃げ込んで』

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『鍵をかけて、床にへたり込んで。

そしたら胸が痛くなって。

息が苦しくなって。

そのまま崩れ落ちて。

外では、皆の嗤い声が。

扉をドンドン叩く音が。

苦しいのに苦しいのに苦しいのに。

僕がこんなに苦しんでいるのに。

皆して皆して。

僕が何をしたというんだ。

お前たちは何がそんなに面白いんだ。

人が苦しんでいるのが、そんなに楽しいというのなら。

皆、皆、皆――』

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『……

………

………』

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『――でも、僕は、人を呪うなんてできなくて。

弱虫な僕は、こんなにされても、こんなところで死んでしまっても。

僕が死んで、悲しんでくれた人がいるのを、知っているから。

あんな人たちでも、いなくなれば悲しい想いをする人がいるのなら――』

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『だから』

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『ずっとここから出られない、

僕のたまにの気晴らしに――』

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『――笑って許してくださいね』

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カラカラカラカラ――

ちょうど、ロールをすべて解ききって、俺への言葉はそこで止んだ。

後には、足元の床に、濡れて使い物にならなくなった紙の山が残るのみ。

残るのみ。

嗚呼、残るのみ――。

〈尻〉

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