中編5
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異界への扉。

その様なものの存在を、認めざるを得ない体験を私は耳にした。

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老人ホームで働いている友人がいる。

彼女は専門学校を卒業後、物心ついた頃より希望していた介護の仕事に就く事ができた。

社会に出て初めての仕事。

何もかもが分からない事だらけであるにも関わらず、彼女は直向きに仕事に取り組む。

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介護の仕事は不規則で体力勝負だ。

早朝や夜遅くの勤務に加え、夜勤だってある。

24時間365日職員同士ローテーションを組み、協力しながら業務に当たる。

更には技術の研鑽や新しい情報を取り入れ、勉強の日々。

しかし彼女はそんな毎日に充実を感じていた。自らに課せられたこの仕事を大切にし、丁寧な仕事を心掛けていた。

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新卒で就業して早1年。

この1年の間に様々なお年寄りとの出会い、別れを経験してきた。

段々と仕事にも慣れ、自分で判断を出来る事も増えてきたある日の夜。

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彼女はその日夜勤の仕事に就いていた。

夜勤といえば、静かで落ち着いているイメージがあるが、老人ホームの場合そうもいかない。

昼と夜が逆転してしまっている人、それにより覚醒し不安で落ち着かず歩き回ったり、部屋にあるコール(ナースコール)で介護士を頻繁に呼ぶ人がいる。

静かな夜がない事もないが、何かしらこの職場の夜勤では起こっていた。

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夜眠らないお年寄りの中には、介護士でも手を焼くMさんという大変な方がいた。

徘徊、放尿、破壊行為、、、、

それを制止しようものなら、大声で暴れ出す。

手のつけようのない事が多い方だった。

女性でお淑やかな出で立ちであったが、夜になると豹変をする。

まったくの別人で顔つきも変わり、本人の中で夜に何か良からぬ事があるのではないかと、感じさせる様な言動があった。

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「がぁー、がぁー、がぁー」

深夜2時。

遠くの居室からMさんの声が聞こえる。

夜勤は1フロアーに2人体制だが、Mさんの居室の方へは職員はいなかった。

職員がMさんに関わった際に、拒否をし暴れ出す時の大声であった。

彼女は不思議に感じながらも、声のする方へ向かう。

居室に到着し引き戸を少し開け中を確認すると、Mさんが暗闇のなかで何かを振り回しているのが見えた。

また破壊行為かなと、小さな溜息を吐きながら引き戸を更に開け、Mさんに声をかける。

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「Mさん、どうかされましたか?少し灯りをつけますね。」

居室入り口のダウンライトをつける。

Mさんが振り回していた物は、本人持ちの人形だった。

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その人形は女の子型で、子供用の話し掛けると声の出るタイプの物だった。

随分前に電池が切れていて、声は出なくなっていたが、認知症で見当識障害のあるMさんが唯一大切にしていた人形だった。

そんな人形を乱暴に振り回すMさんを見て、言い知れない違和感を覚えたが、とにかく大声で叫ぶMさんを落ち着かせないと、他の居室の住人の睡眠を妨げることになる。

彼女は努めて慌てることなく声をかける。

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「少しお散歩でもしませんか?一緒に行きましょう。」

幸い他の入居者は寝静まっていて、自分の身体は空いていたため、Mさんの気を紛らわせるため別のことに意識が向く様に誘導する。

Mさんは彼女の声掛けを聞くと、ピタリと動きを止めた。

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「さあ行きましょう。」

Mさんは彼女の誘導に素直に応じてくれた。

フロアー内を一緒にゆっくりとひと回りして、トイレへ誘導する。

その後再び居室へ戻る際には、既にMさんは落ち着いていた。

ウトウトとしていたので、ベットに横にして人形を枕元に置く。

彼女は胸を撫で下ろし、居室を後にした。

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「あなたとはいかないからね。

私はまだ行きませんよー。」

彼女の背中越しに声が聞こえる。

Mさんは何やら独り言を話していた。

眠りにつくまでには良くある習慣だったので、さほど気にならなかった。

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深夜3時。

定期巡回で一部屋ずつ居室を回る。

異常はなく、彼女は久しぶりに静かな夜だなと感じていた。

しかしMさんの部屋を覗いた時、居室内にMさんの姿がなかった。

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徘徊?施設の外に出た?

彼女は慌てて居室の窓を確認するが、しっかりと施錠がされている。

首を傾げ、居室から出る。

その時、引き戸を開けたままの居室から、彼女の背中越しに声が聞こえた。

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「さみしいよ、、、、」

え!?

思わず暗闇の居室内に向き直る。

確かに声がした。

しかもその声はMさんが大切にしていた、電池が切れる前の人形の声。

とっくに喋ることのなくなった人形の声を、ありえない状況下で耳にし、鳥肌と動悸が一気に襲ってきた。

その場から動けずにいると、更に暗闇の中から声がする。

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shake

「一緒にあぞぼゔよぉ〜」

ひっ!?

彼女がその場から走り去ろうと反転すると、すぐ目の前にMさんの無表情の顔があった。

「わぁ!!」

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彼女はあまりの驚きに、思わず声を漏らす。

片手で口を押さえ、目を丸くしてMさんを見るが、Mさんはまったく動じずに自ら居室へ戻って行く。

彼女は唖然としてその場に立ちすくんでいた。

「遊ぶならあたしと遊びなさい。

あの子は関係ないの。」

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暗闇の部屋から確かにMさんの声でそう聞こえた。

いつもなら、そこまで明瞭できちんとした話し方が出来る方ではない。

彼女はMさんの様子と居室の雰囲気にただならぬものを感じ、フロアーのもう1人の職員のもとへ助けを求める様にしてその場を立ち去った。

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その後夜間は特に変わったこともなく、無事に夜勤明けを迎えた。

退勤をして朝の日差しを浴びると、清々しい気持ちから心の中がリセットされる様だった。

遠くの方で救急車のサイレンが聴こえていた。

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次の日は公休でプライベートを満喫し、夜勤で起こったこともほぼ忘れかけていた。

休み明け、出勤をすると上司からの申し送りで、Mさんが亡くなったことを聞かされた。

彼女が夜勤明けで退勤をしてすぐに、Mさんは脳梗塞を起こし病院へ救急搬送された。

搬送後間も無く息を引き取ったとのこと。

Mさんは直近でその様な所見はみられていなかったが、高齢者の急変は珍しくはない。

見逃していた何かの予兆があったのかも知れない。

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ただ、あの夜の事を思い出すと、今でも身震いが止まらないのだと彼女は語る。

「遊ぶならあたしと遊びなさい。

あの子は関係ないの。」

いつになく毅然としたMさんの声に答える様にして、また別の声が聞こえていた。

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「わーい、これからずっと一緒だね。」

もしかしたらあの時、Mさんは彼女を守ってくれたのかも知れない。

守ってもらえてなかったら、、、、

Concrete
コメント怖い
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@鏡水花
介護のお仕事をされていたのですね。
介護の仕事は大変ですが、楽しそうでもあるんだなと友人の話を聞いて感じました。

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