長編8
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人の業

ミルグラム効果という心理学用語をご存知だろうか。

別名アイヒマン実験とも呼ばれている。

人は閉鎖空間で権威者から指示を受けたとき、どこまで凶行に走れるかという実験結果に基づいた考え方。

極端な言い方をすれば、閉鎖空間で命令をされれば人殺しでもできるという恐ろしいものである。

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アイヒマン実験考察。

実験に参加したのは一般のアメリカ市民。

「記憶に関する実験」

と称してイェ-ル大学の心理学者、スタンリー・ミルグラムが公募し20代~50代の40名の人々を集めた。

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公募により集まった参加者から教師役と生徒役を抽選で決める。

この時の抽選は40名全ての参加者が教師役になるように仕組まれている。

生徒役は大学で用意した役者たちであった。

実験は教師役の被験者が生徒に質問をし、その答えが間違った場合、生徒に対して電気ショックを与えるというもの。

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実験に参加する被験者にも45ヴォルトの電気ショックを経験してもらい、それがいかに不快で危険なものかを十分に理解してもらう。

生徒が一問間違えるたびに15ヴォルトずつ電圧を上げ、最終的に生命の危険があるとされる450ヴォルトの最大値の罰までを教師役が与えることができるかということを実験した。

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その結果、26名、つまり62.5%の一般のアメリカ市民が致死に至ることを知っていながら450ヴォルトの電圧を生徒役に加え命令に従った。

教師役の被験者たちは、途中で実験を止めたいと訴えても、そのたびに白衣を着た教授や博士が続行を促した。

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それでもまだ躊躇する被験者に対しては

「責任は全て私がとります。続けて下さい。」と言い聞かせた場合、この残虐な行為を貫徹したという実験結果が明らかにされた。

閉鎖された空間では権威ある者に命令されれば、人は誰しも殺人などの重犯罪を犯してしまう可能性があるということが実証された。

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人間というものは、本物の悪に対処する方法が備わっている。

但し、真実の正義に準ずる方法は心得ていないのだ。

何故ならば人間の中には諸悪が存在し、正義は時に悪になり得はするが、悪は決して正義にはなり得ないからだ。

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朝の通勤ラッシュ。

いつもの光景、見慣れたサラリーマンや学生と共にすし詰めの電車に揺られる。

冬場の車内は暖房が効いていて、外の凍てつく寒さから逃れ強張った身体が緩んで行く。

しかしそれも最初だけ。

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冬場の電車内は窓ガラスが曇り、効きすぎた暖房により乗客の身体はジンワリと汗ばむ。

サラリーマンの汗で濡れ禿げ上がった額を見つめながら、加齢臭に呼吸の自由を奪われる。

OLや女子高生のキツイ香水の匂いにも軽く咳込む。

乗り換えの駅で電車を降りると、外の冷気を有り難く感じる高校生の自分がいた。

小さなため息をついた後、乗り換え予定のホームまでゆっくりと歩く。

屈折した心で行き交う人々を眺める。

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実に滑稽だ。

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皆一様に目的地を目指し足早に歩く。

そんなに急ぐのであれば一本早い電車で行動すれば良いものを、ギリギリの美学に囚われ尚も颯爽と歩く人々を不憫に感じる。

ホームの階段を降り、目的の場所まで人混みの流れに身を任せる。

構内の低い天井と蛍光灯の白い明かり。

外界と隔絶された環境下が、人々をより無機質なものに映し出していた。

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ふと立ち止まり、踵を返す。

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何故だか今日は逆らいたい。

日常の中での誰もが当たり前とする取り決め。

その取り決めを守る事で、得をする人間は誰もいない。

しかしそれを破る事で損をする可能性は高い。

ただ楽だから、皆は例に漏れず右へ習い同じ行動を心掛けていく。

そんな毎日、そしてその日常を忠実に熟す(こなす)自分自身にほとほと嫌気が指していた。

大勢の人間が同じ方向に流れて行く。

私はその流れに逆らい始めた。

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ドンッ!

「チッ!」

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何人かと身体がぶつかる。

誰かの舌打ちと、誰かの奇異の視線を一身に受け止め、真っ直ぐ前を見据えながら歩く。

人の流れと逆方向に歩き始めて間も無く、人垣は何かを避ける様に私の両脇を流れた。

その何かとは、目の前で大量の嘔吐をしている初老の男性だった。

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その男は膝をつき上体を縮こませ、白く半透明な液体を吐き出し続けていた。

周りの人は、まるで汚いものを見るかの様な目で男を避けて通る。

私は男に駆け寄り横から呼び掛ける。

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「大丈夫ですか?身体触りますよ。

側にいるので何でも言って下さいね。

誰か!協力を願えませんかー?」

背中を摩り、男の微かな動向にも対応できる様見守る。

周囲への協力要請が虚しく響き渡る。

その最中も人々は努めて忙しく、殊勝なまでに私達二人から距離を取りすり抜けて行く。

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「うわっ!汚ねえ、うぇー」

心無い言葉を誰かが吐き捨てる。

やがて男は自ら吐き出した吐瀉物に顔面から突っ伏し、うつ伏せに倒れた。

呼び掛けに反応はない。

突如彼の全身が痙攣を始めた。

首、肩、腕、脚、それぞれの部位を滅茶苦茶に動かしていた。

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「ちょっ、、誰かー!駅員呼んできて下さい!」

移動のみに特化した蠢く生き物達へは、私の言葉は通じなかった。

それらの顔を覗き込むが、皆不自然な方向に視線を泳がせる。

目が合った者は、ハズレくじを引いた様な顔をして偽善の言葉を唱える。

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「おい、駅員誰か呼んだのか?何とかしろよー!」

一人で何とか男を仰向けにすると、自らの嘔吐物にまみれた顔は白目を剥き青ざめていた。

鼻をつく胃液の匂い。

浅く弱い呼吸は、彼の命を辛うじて繋ぎ止めている。

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「どうしました?手伝いますよ。

私看護師です。

状況教えて下さい。」

若い女性が駆けつけてきた。

男を見ながら私に尋ねる。

私は男に関わった経緯経過を一通り説明した。

一連の流れを彼女へ説明している最中、急に周囲の人々が足を止め、私達三人を囲む様にして人集りが出来ていた。

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「駅員へ知らせ救急車の要請をして来ます。

ここはお任せして良いですか?」

彼女が頷くのを確認し、私は駅員室に走った。

改札の脇にある駅員室に身体ごとぶつかる様に激しくノックをする。

扉を開けた職員へ矢継ぎ早に状況説明を行う。駅員の一人が救急車の要請を、もう一人が私と現場へ向かう。

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現場に到着した際、看護師の女性は姿を消していた。

男は先程同様仰向けになっており、その周辺半径3メートル程の距離をとり陣形を作る野次馬達。

人垣の先頭に立ち、右手の携帯電話で誰かと話しながら左手は真横に突き出し、如何にもこの場をコントロールしているかの様なスーツ姿の男性に目が行く。

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通話が終了しその五十代程の男性は、私と駅員の元に歩み寄る。

「事情は聞いたよ。

ご苦労様。

これは事件性を疑う状況だから、倒れている男性へは近づかない方が良い。

男は毒物による何らかの感染症状を発症している可能性が高い。

現場の状況からして、組織的な背景を予見させる要因が揃っている。

従ってこの人は感染症及びこれに基づいたテロ行為の被害者、或いはその実行犯である可能性が非常に高い。」

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自らが名乗った、犯罪心理学の権威ある教授の彼は、饒舌に持論を展開する。

私は、俄かには信じ難い荒唐無稽な推論を聞きながら、横たわったままの男の安否を心配していた。

「え、何?犯罪心理学?警察じゃないんでしょ、、、、でもあの人テレビで見た事あるかも。」

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現場を取り囲む人々の間で、根拠の無い憶測が言葉となり漂い始める。

その憶測は徐々に、その男性への期待と羨望の眼差しに変化していく。

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「あー俺知ってる。

確かにあの人の言う通りだよ。

救命って二次災害も考えながら対応しなきゃ逆効果なんだぜ。」

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傍観に評論が混ざり合い、大衆の作り出した混沌が渦巻いていた。

男性の断定的な物言いと、それを支持する取り巻きたちに暫く唖然としていた駅員であったが、我に帰り倒れている初老の男に駆け寄る。

駅員がAEDを片手に救命措置を講じようとする。

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「何をしている!」

集団を味方につけた男性は、さもその駅員を犯罪者の加担者と言わんばかりに怒鳴りつける。

「それはこっちの台詞だ!

あんた救命義務を放棄するのか!?

周りのあなた達もおかしいですよ!

誰か協力して!」

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駅員は毅然とした態度で男性を見据えながら、AEDを置き意識の無い男の側に膝をついた。

私は駅員へ協力しようと近づく。

「おい!やめさせろ!感染が拡大して皆んな死ぬぞ!」

男性は既に論理的破綻に達している考えを尚も主張する。

現場を取り囲む集団の中から、男が一人飛び出して来て駅員を背後から羽交い締めにする。

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「な、何をするんだー!」

駅員の抵抗も虚しく、増援も含めた三人に抑え付けられる。

近付こうとした私も誰かに腕を掴まれ、周囲の人間に蔑んだ目で見られた。

異様な一体感に吐き気をもようす。

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「よし!それで良い。

御協力感謝する。」

私は男性の歪んだ正義感が、その場にいた大勢に感染して行く様を垣間見た。

終わりだ。

皆んな狂ってる。

私は絶望の中縋る(すがる)べき先を見失い、浮遊する意識で狂気の光景を眺める事しか出来なかった。

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「はい、退いてー!

通してください!」

救急隊が三名でストレッチャーを押しながら到着する。

「待て!誰の許可を得てここへ来た?」

もはや集団のリーダーたるその男性は、救急隊員の前に立ちはだかる。

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「許可も何も無いでしょ。

あなたこそ何の権利があって私達の道を塞いでいる。

退いて下さい。」

救急隊員は無表情で、しかし少しの余地も許さない様な口調で目の前で胸を張る男性に話した。

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「私は犯罪心理学者の、、、、」

「退けー!!!」

恫喝に怯んだ男性を突き飛ばし、救急隊員は迅速に倒れている患者の処置を開始した。

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背後からゾロゾロと消防隊、警察官が駆けつける。

情け無く尻餅をついた、今となっては自称教授は、慌てて人混みの中に姿をくらました。

酔狂な群衆もいつの間にか散開し、無害な傍観者達だけが疎らに残っていた。

私もその一人だった。

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数分もしない内に、救急隊員は患者をストレッチャーに乗せその場を去る。

消防隊が去り、警察官はその場にいた人に状況の確認をする。

私も聴取を受け事の顛末をすべて話した。

警察官は私の話に少し顔を蹙めた(しかめた)が、分かりましたとだけ言ってその場を去って行った。

初老の男の安否が気遣われる。

無事であってほしい。

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何も出来なかった。

自分は何をすべきだったのか。

何が最善であったのか。

その様な思考を繰り返しながら、日常に戻った駅構内に一人立ち尽くしていた。

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いつしか通勤時間帯が過ぎ、周囲を歩く人々は大きな流れを作る事はなく、思い思いの行き先へ、それぞれの速度で歩いている。

自分の想う道を自分のペースで歩けば良い。

そう考える事で、私は私なりの目的地に向けて一歩を踏み出した。

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後日、テレビで50代男性が何処かのトイレで、三人の男にリンチされている様子が映っていた。

そのリンチ動画はSNSで拡散しており、ワイドショーが取り沙汰し放送がされていた。

男は意識不明の重体との報道だった。

いくつかのチャンネルは被害者の顔にモザイクがかかっていたが、一つの番組だけはモザイクが無かった。

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見覚えのある顔、その男は大学の教授をしていたらしい。

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閉鎖空間での権威者は、人の業を体現する者であり、その忠義者は生物としての業を体現する者なのかも知れない。

SNS動画の音声には、それを撮影していたと思われる者の笑い声が終始鳴り渡っていた。

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「アヒャヒャヒャヒャヒャ、、、、」

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Concrete
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@はと
コメントをありがとうございます。
はとさんも大衆心理の闇に触れていたのですね。
共感をいただき、有り難く存じます。
人に流される事なく、信念を貫ける強い人になりたいものです。

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@珍味
コメントをありがとうございます。
お褒めの言葉痛み入ります。
ミルグラム効果という題材を選び3週間程記憶を辿っておりました。
苦労した甲斐がありました。
ありがとうございます。

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