中編3
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優しい君に

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レイ・ブラッドベリを愛しながら鉄道自殺した十代の少女が地縛霊でいるのにも飽きてきた頃、

彼女は京王線のホームでスタニスワフ・レムを読む野球部の少年を見つけて話し掛け、

それからふたりはヴァージニア・ウルフやタゴールの詩集について語り合うほどにお互いを認め合うようになったのだけれど、

夏の雨の美しさ、冬の陽だまりのせいなのか、

翌年には互いの未来について考えるようになり、生きている人間と死者とがあまり親しくすべきでは無いというとりあえずの結論に至った。

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もし天国というものがあるのなら、

彼女の移住先はやはり雲の上であるべきだと決めて、彼らは様々な調べ物をしたのだけれど、

仏教やキリスト教、カルトや心理学まで試してみても、やっぱり成仏することはできなかった。

じつのところ少年としては、彼女とずっと、この駅で暮らしても良かった。

自分がここで自殺をすればおそらく同じ地縛霊になって、一緒になれるような気がしていた。

母さんや父さんには申し訳ないけれど、愛がもし魂の影絵であるのなら、肉体が燃えても想いは消えないと信じていた。彼には初めての恋だった。

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けれどじつのところ少女は、酷く虚しかった。

彼女は少年の未来を常に想っていた。

自分は歳を取らないけれど、彼は、きっと、変わってしまう。変わる前に死ぬつもりなのも感じていた。

それだけは絶対にさせたくなかった。

いや、ほんとうは、ずっと一緒にいたかった。

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少年がジョージ・オーウェルからヴォネガットへ熱中してサン=テグジュペリへ到達したある秋の、

それはこの世のすべての生き物が祝福されているような爽やかな夜明けに、

少女は、この世のすべての生き物の悲しみや恨み、怒りと殺意を探していた。

駅のホームから空を眺めると、彼女にはありとあらゆるものが見えた。

失恋した誰かの惨めさや、子供を亡くした親の寂しさ、

ただ殴られて喧嘩に負けた男の苦しみ、いつものように不当に罵倒されて帰宅した会社員の、自由主義経済への失望、

何もかもが朝の光に融けていた。

雲と雲の間、夜と朝が混ざる明暗の谷間には、淡い希望が幾つも浮かんでいた。

小説家になりたいフリーター、ボクサーになりたい大学生、アイドルを目指す舞台の役者、なんだか幸せになりたいなあ、というたくさんの人々の漠然とした不安。

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いつものように朝練のために、野球部の少年が改札を通る。

意外なことに、決意は少しも揺るがなかった。

地縛霊の少女はついに、死んでなおもう一度、死ぬことにした。

それはこの世のすべての生き物が祝福されているような爽やかな夜明けだったのだけれど、

彼女はこの世のすべての生き物の悲しみや恨み、怒りと殺意を自分に集め、醜い悪霊になった。

いつものように少年は、駅のホームで、彼女と小説の話をするつもりだった。

でもその朝の彼女は、もう人間の姿を捨てていた。

信じられないほどの汚い言葉、絶望的なほどに醜い姿で、かつて少年が恋をしていたはずの少女は、彼を罵倒し、侮辱して、それから、不意に、消えた。

最低の姿だけを彼の記憶に残して、彼女は地獄へ旅立った。

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生きている人に恋をして彼は、今は、幸せに暮らしている。

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