長編11
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母の話=靄の夜=

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受話器を戻すと、それぞれの部屋にいる子供達に向かって声をかける。

「お祖母ちゃんがいなくなっちゃったんだって。

ちょっと探しに行って来るね!」

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時計を見ると、もう午後の9時を回っている。

多分、いつもの徘徊の時の様にここに向かっているか、それともデイサービスの送迎車でいつも通る道で見付かるだろうか…。

携帯電話だけをポケットに入れると、未だ乾かしていない髪の毛をクルクルとねじり上げ、クリップで挟んで頭の天辺で留める。

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父からの電話。

そう。今では家の電話にかけて来るのは父か何かのセールスや世論調査くらいのもの。

子供達も友人達も携帯電話へかけて来るから。

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*********************

その日も朝から実家に行って居た。

デイサービスに母を送り出す為に。

リハビリパンツと尿パッドを併用しているのに、それでもパジャマから防水シーツ、防水機能のある掛布団のカバーまでビッショリ濡らしている母のオムツを替え、電子レンジで温めた蒸しタオルで身体を拭き、父にも温めた蒸しタオルを一枚渡す。

服を着替えさせると、前日に用意しておいた朝食を温めて食べさせる。

そして歯磨きをさせて、デイサービスの準備をしているとお迎えが到着する。

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以前の病気が有ったから、脱水症状を起こすのが何より怖い。

だから、どれだけお漏らしをしたって、水分はしっかり摂って欲しい。

(今日は、洗濯機何度回せば終わるかなぁ…)

母の濡れたパジャマを、外した防水シーツや掛布団カバーで包みながら軽く溜息が漏れる。

前日のデイサービスの入浴後の着替え一式とバスタオルやフェイスタオル。

そして、自立歩行の出来ない車椅子の父のオムツも替え、ついでにパジャマを着替えさせ、それも洗うことにした。

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外はいつ降り出してもおかしくないどんよりと曇った空。

(流石に布団は干せないなぁ…)

仕方ないので、両親の寝室の隣の部屋の窓近くに椅子を並べ、そこに掛布団をかけて少しでも陽の光を浴びさせよう。

結局、枕まで濡れていたので、洗濯機を6度回した。

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その後は掃除をし、冷蔵庫を確認してから買い物に出る。

実家の物と共に、食べ盛りの息子達のいる我が家の買い物もするので、いつも自転車の前籠、後ろ籠もいっぱいになり、フラフラで実家へ戻る。

夕食と明日の朝用に調理をし、ご飯は多めに炊き、夕飯と朝食用を残して一食分ずつラップで包み、冷めてから冷凍室へ。

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そして、通院の時以外はあまり外に出る事の出来なくなった父の愚痴や話しを聞く。

それまで全てを母に任せ切りだった事も有り、各種手続きやらも良く分からず、又、会話も成立しなくなって来た母との暮らしでストレスも溜まり、自力歩行の出来なくなった父の頼み事も理解してくれない母へのイライラで、時には大きな声を出してしまう事も、母が悪い訳ではない事も分かっていたが、鬱積した想いを吐き出す場所もなかった父。

そんな父の想いを、話しを黙って聞き、吐き出し終わり、落ち着いたところで父に母の気持ちを代弁するつもりで話しをする。

「お母さんがなってしまった認知症って言うのは、病気のようなものなんだ。本人が意地悪をして、お父さんが取ってくれって頼んだ物を取って来ない訳じゃないの。お父さんの言う、取ってくれって言う物も今のお母さんは何の事かも分からないの。

本人が一番辛いんだもん。

それをお父さんや私が理解してあげないと、お母さんが可哀想だもんね。

お父さんも辛いだろうし、悲しいだろうけど、今のお母さんを支えてあげられるのは私達だもんね!

お父さん!一緒に頑張ろうね!!」

父は涙を拭きながらウンウンと頷き、私も流れる鼻をかんだ。

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結局、母がデイサービスから帰る時間になり、夕食を食べさせ、飲み物を飲ませ、パジャマに着替えさせ、綺麗なオムツに替えてベッドに寝かし付けて、それから帰った。

家に帰れば、今度は子供達の食事の用意。

毎日の繰り返し。

ちょっと疲れてしまった私は、その日は帰宅途中のコンビニでお弁当を買って帰った。

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時間が時間なので、今日は掃除機がかけられない。

掃除機や洗濯機。

音に敏感な人もいる集合住宅では、使える時間も限られている。

今日もタオルがビッショリ濡れるほどかいた汗を、温度を低めにしたシャワーで洗い流し、やっと自分の時間。

とは言え、明日も又、同じ事の繰り返し。

(早く寝なきゃ…)

小さく溜息を吐いた時の、父からの電話だった。

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*********************

外に出ると、纏わりつく湿気が肌にベッタリと張り付いて来る。

シャワーで洗い流した汗が、又、毛穴から噴き出す。

マンションの通路の我が家の玄関横に停めてある自転車に鍵を差し込むと自転車を手で引き、エレベーターに乗ると1階まで降りた。

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霧雨なのか、湿度が高いのか、それすら分からない程風のない蒸し暑い夜。街灯に照らされた道は白く靄がかかり、まるで霧で有名な地へ行ってしまったかの様な既視感を覚える。

私の見慣れた景色ではなかった。

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何処か知らない土地に迷い込んだ様な不安な気持ちを胸に、一刻も早く母を見付け出す事に専念する。

ペダルを漕ぎ、実家への道を左右に視線をやりながらゆっくりと進む。

だが、母の姿はない。

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・・・

今度は違うコースから、私の住むマンションへと向かうが、そこにも母の姿はない。

・・・・・

又々、違う道を進み、実家へ向かう。だが何処にも母の姿は見付けられずにいた。

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明るい時間に母はたまに居なくなってしまう事もあり、今より少しだけ認知症も軽かった頃は、私のマンションまでは辿り着く事が出来て居た。

尤も、何階に住んでいるかは覚えて居なかったが、頻繁に徘徊して我が家を目指す母を知る違う階の住人が、私の部屋へ連れて来てくれていた。

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そのうち、マンション近くまでしか来れなくなり、パジャマとスリッパ姿で徘徊し、誰かの通報で駆け付けた警察に保護をされた母は、オムツをびっしょりと濡らし、パジャマのズボンまで濡れたまま、警官に手を引かれて私の部屋へ来た。

たまたま母を知る方が私の部屋を警察に知らせてくれたから良かったものの、あのまま誰も母を知らずにいたら、どうなっていたのだろう。

母はマンションの手前のゴミ集積所の横で1人泣いていたらしい。

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私の家に向かっていないなら、今度はデイサービスの送迎の車でいつも通っている道かもしれない。

白く靄った夜の道を、初めは真っ直ぐに最短距離で母の通うデイサービスへ向かう。

だが、やはり、何処にも母は居ない。

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自力でデイサービスまで母が辿り着けるとは思えないが、万が一の時の為に、夜勤の職員に事情を話し、もし母が来たら私の携帯へ連絡をとお願いをした。

そして、今度は脇の道から実家を目指して走る。

すぐに見付かるとたかを括っていたが、段々と不安が募って来る。

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時計を見ると、もう10時近くになる。

途中、実家の父へ電話を入れたが、未だ母は帰っていないと言う。

「こんな夜遅くにすまないな…。」

父は言うが、自力歩行が出来ず、車椅子の父を連れて認知症を母を探す方が余程大変なので、ちゃんと見付けて帰るからと、父を安心させる言葉を並べ、電話を切った。

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そして、当時は未だ両親の介護を手伝ってくれていなかった姉にも電話を入れる。

こんな時くらいは、流石に姉も手分けして母を探してくれるだろう。

だが、そんな思いも甘かった事に気付かされる。

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「えぇーっ!?こんな遅くに!?

疲れてるのに…。もう…仕方ないよ。

死んだら死んだで!」

一瞬、姉の言葉の意味が分からなかったが、もし母が何処かで事故に巻き込まれて亡くなっても良いって事だと、そう言いたいのだと分かった時点で「分かった。」そう答えてすぐに電話を切った。

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こんな靄の中、何処かで転んで泣いているかもしれない…

この先には大きな通りが有るし、もしその道路に出てしまったら、信号すら分からない母は交通事故に遭ってしまうかもしれない…

轢かれた母を見たくはないし、運悪く母を轢いてしまった人に対しても申し訳ない…

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一刻も早く母を見付けなければ…。

私はもう一度、実家からデイサービスに向かう道を、住宅街の路地の一本一本、隈なく探して回っていた。

しかし、何処にも母の姿はなく、それどころか、いつもなら仕事帰りの人も歩いている筈なのに、人っ子一人誰もいない。無人の住宅街の路地は白い靄に包まれ、音まで無くした様にヒッソリと静まり返っている。

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(お母さん…!)

気持ちは焦るが、母は見付からない。

母の泣いている姿が目に浮かび、涙が流れて来る。

鼻を啜りながら、ゆっくりと路地の一本一本、よそ様の庭の中まで覗き込む様に母の姿を探す。

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そして気が付くと、一段と暗い路地に入り込んでいた。

袋小路になっているのか?近所なのにこんな場所があった事すら知らなかった。

古い佇まいの家が二軒、それぞれが玄関を向かい合わせにするように奥まった場所に建っていた。

その二軒の間を縫う様に、そこから異質な闇が流れ込んでいる。

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自転車を降り、手で押しながら近付いて見ると、そこは袋小路ではなく、建物らしきものが奥の暗闇にひっそりと姿を現した。

無風の靄のかかった闇の中、入口にある柳の木が首を擡げた魔物の様に見える。

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まさか…こんな中に、いくら何でも母が入り込む事は無いだろうと思いつつも、自転車を両手で支えながら、鬱蒼と茂る雑草の中を見渡して眺める。

門なども無く、入口に二軒の家を挟んだその先は、広い庭になっているのか?

手入れのされていない庭はかなりの広さが有る様に見えるが、月明かりが無く、まして街灯すらない中では、どのくらいの広さが有るのか、それさえも分からない。

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(居ないね…。)

そう思い、元来た道へUターンしようと踵を返した時、右眼の端が何か動くものを捉えた。

振り返り、もう一度暗闇へ目を凝らして見る。

入口の柳の木がまるで手招きをする様に長く垂れ下がった枝を伸ばしたその先の、背の高い雑草に覆われた奥に動く人影が見えた。

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よく目を凝らして見るが、街灯もない暗闇。

月明かりさえも僅かに滲んでいる靄の立ち込めた夜。

それが母なのか、人でさえあるかの判別も出来ない。

―もし母だったら…―

そう思ったら、それを確認せずにはいられなかった。

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私は路地の端に自転車を止めると、暗闇に向かって歩き出した。

ゆっくりとした動きで庭を歩く人影。

「お母さん?」

そう小声で言いながら、敷地の中へ足を踏み入れる。

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「お母さんでしょう?」

そう呼びかけるが、人影は振り向きもせず、靄に霞んだ先にある建物に向かってゆっくりと進む足を止めない。

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どう見ても民家には見えないその建物は、近付くにつれ徐々に姿を現わす。

四角いコンクリートで固められた、3階程の高さだろうか?

規則正しく並んだ窓が見えるが、マンションなどではない。

人の住む気配がないところを見ると、何かの施設なのだろうが、どの様な施設なのかは見当もつかない。

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ただ、はっきり分かるのは、既に使われていない施設なんだと言う事。

背の高い雑草で覆われた庭は、人の踏み入った形跡もないから。

……

………

そうなのだ…

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その人影が母ならば少なからず、母の歩いた後には踏まれた雑草が倒れているのではないだろうか?

だが、どの辺りの草も伸び放題で、踏まれた跡などない。

私は自分が通った後を振り返って見た。

すると、確かに私が通った後の草は、横に倒れていたり、踏まれて茎が折れている。

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私はもう一度、その人影に向かって「お母さん…?」呼びかけてみた。

すると、暗闇で足を止める人影。

白い靄に包まれながらも、ゆっくりとこちらに横顔を向ける。

(…おか…あさん…?)

その横顔は、見間違う事なく母だった。

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私は溜息と共に笑顔になり、「お母さん。良かったぁ。」

そう言いながら母の元へ雑草をかき分けて近付いて行った。

その時、ポケットに入れた携帯から着信を知らせるメロディが。

見ると、実家の父から。

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「あ!お父さん?お母さ…

………

………

えっ?…」

『お母さんが見付かったぞ!

今、警察の人が連れて来てくれたから、もう大丈夫だからな!』

私は父からの電話を切ると顔を上げ、母と思しき人影を見詰める。

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いつの間にか、施設の入り口のドアを開け放ち、こちらに向かって手招きをしている。

その顔は、霞んでよく見えはしないが、母の様にも見えたが母ではなかった。

少しだけ俯き加減だが、顔の半分程に大きく口を開け、声も出さずに笑っている。

そして、私に向かい手首から先をヒラヒラと揺らし、『こっちに来い』と言う様に手招きをしていた。

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その人影の通った後は、まるで何事もなかった様に草が茂っている。

・・・

背筋に冷たい物が走るのを感じた私は、携帯を握りしめたまま踵を返し、敷地の外へ走り出た。

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その瞬間、私のすぐ耳元で

『チッ!』と、舌打ちが聞こえた気がしたが、そのまますぐに自転車まで走るとその場を後にした。

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実家に行くと、何事もなかったかの様に母は自分のベッドに腰掛け、私の姿を見るとニッコリ微笑む。

私は母の横に並んで腰掛け、母を思い切り抱き締める。

知らず知らずの内に、涙が頬を伝っていた。

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私の涙を見て、釣られて泣き出す母。

「お母さんてば。

もう…心配しちゃったじゃない。」

泣きながら笑い、母の涙をティッシュで拭き取りながら言うと

「うふふ」と。

可愛い顔をして笑うから、私まで笑顔になってしまう。

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以前、私のマンション前で警察に保護された時に、母はどうやら徘徊老人として警察のリストに入っていた様で、迷子になった時用にと母の服に縫い付けて有った名札から、私の住むマンションでもデイサービスでもなく、真逆の大通りに向かう母をパトロール中に保護してくれて実家へ送り届けてくれた様だ。

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無事に母が帰った事に、父も安心した様だが、母に言い聞かせる。

「こんな夜に出て行っちゃダメじゃないか。

心配して、探してくれてたんだぞ?

勝手に一人で外になんて出るなよ?」

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母に冷たい飲み物を飲ませ、自分も喉がカラカラになっていたので、アイスコーヒーを淹れて飲んだ。

視線が合うとニッコリ笑う母。

何でだろう。

母のその笑顔を見ていると、何でも許せちゃう様な気持ちにさせられてしまう。

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だけど…

……

今の母になるまでの辛さも悲しさも…

全部を理解する事は出来ないだろうが、未だ、時々正気に戻る事が有った頃…あの頃の母の涙を私は今でも覚えている。

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「お母さん、どんどんバカになって行っちゃうの…。

どんどん忘れて、どんどん分からなくなって行っちゃうの…。」

母はそう言い、静かに涙を流していた。

母に返す言葉も見付からなかった。

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ただ、母の手を握り…

「お母さん。大丈夫だよ?

例えお母さんが全部忘れちゃっても、私達は忘れないから。

お母さんが分からなくなっちゃっても、私達が分かるから。

お母さんはお母さんで、私達にとって大切な人だから。

だから、何も心配しなくて良いからね?」

そう言い、自分の胸をトントンと叩いて見せた。

母は嬉しそうに微笑んで頷いていた。

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その数分後には、又何も分からなくなってしまった母に戻ってしまったけれど、一層の事、母の記憶を鮮明にする時間など無くなれば良いと、母が悲しむ時間など、もう訪れなくて良いと、正気に戻る時間が母を苦しめる事のないようにと願ったものだが、その願いはどうやら聞き入れてもらえたよう。

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今でも思い出す…

あの夜…

風のない噎せ返るような重い湿気に覆われたあの夜…

私が見たものは…

母の姿を真似て、私を誘き寄せいたものは…

何だったのか、今でも謎である。

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