中編6
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私達結婚しました

 残暑の西日射す夕暮れ、恵子は一人、黙々と文机に向かって、一枚一枚丁寧に葉書にメッセージを書き連ねていた。流れるような、その筆遣いは、しなやかに払い、そして力強く留まりして、まるで紙の上を泳ぐ金魚のようである。

「ただいま。何を書いているんだい?」

 小さな家の玄関からは、まっすぐに窓に向かう机が丸見えだ。隆は、恵子の小さな背中に声をかける。

「あら、隆さん、おかえりなさい。」

「相変わらず、君は達筆だね。」

「そりゃあ、そうよ。こう見えて、書道は有段者なんだから。」

恵子は、小さな体でえっへんと胸を張った。

「今ね、私、友人達に葉書を書いていたの。残暑見舞いには、もう遅いから。引っ越しの挨拶と一緒に、私たち、結婚しましたって。結婚報告。」

「そうなんだ。言ってくれれば、俺がパソコンで印刷したのに。」

「ダメよ。こういうのはね、手紙のほうが、心がこもってていいでしょ?それにね、友人はそれぞれ違う個性を持っているのよ。かける言葉はみな同じではないわ。」

「君らしいね。」

「ありがとう。これもう一枚書いたら、すぐ夕飯にしますね。もうできてますから。」

「いいよ、俺は勝手にやってるから。君は、ゆっくり書いてればいいよ。」

「本当?じゃあお言葉に甘えて。」

 恵子は、こういう細かい作業が好きであった。隆は、自分で冷蔵庫からビールを取り出すと、グラスに注ぎ、テーブルに用意された夕飯のおかずを突きはじめた。

「ああ、その葉書、俺が明日の出勤の時に出してくるから。」

「え?いいの?」

「うん、ちょうどポストの前通るから、出しておくよ。」

「ありがとう、助かるわ、隆さん。私は、優しい旦那様が居て、本当に幸せ者ね。」

恵子は、隆に微笑んだ。恵子は一通り、葉書を書き終えると隆に、それじゃあお願いねと葉書の束を手渡した。

 翌朝、隆は、恵子から受け取った葉書を携えて、家を後にした。隆は、近くのコンビニに立ち寄ると、その葉書の束をしばらく苦しげに見つめ、ビニール袋に詰めると、ゴミ箱へ放り込んだ。

「ねえ、隆さん、今ね、赤ちゃんが私のお腹を蹴ったの。」

恵子は、隆が帰宅すると、嬉しそうに報告した。

「そうかあ。もう6ヶ月だもんなあ。」

「うん、すごく元気だから、私は男の子だと思うの。」

「まだわからないだろう?」

「ううん、きっとそう。」

「そうかなあ。」

「私、男の子だったら、隆行にしようと思ってるの。あなたの名前から一文字取って。」

「いいね。」

「いいでしょ?」

幸せそうにお腹をさすりながら恵子は微笑んだ。

「なあ、安定期に入ったし、どこか旅行に行こうか。ほら、俺たち、結婚式、してないだろ?せめて旅行くらいしないとな。」

「本当?嬉しい!」

「ああ。海外はちょっと厳しいから、沖縄なんてどうだ?」

「大丈夫なの?」

「お金のことなら心配するな。ボーナス少し出たからな。」

「うわあ、楽しみ。」

「うん、ついでに、結婚式も沖縄で挙げよう。」

「えっ、本当?」

「うん、二人だけの結婚式だけど、いいか?」

恵子は涙ぐみながらうなずいた。

「ウエディングドレス、着れるかな。」

恵子はお腹が気になるようだ。

「大丈夫だよ。恵子は元々がスレンダーだからな。たぶんお腹が出てても少し大きいサイズのドレスで行けるよ。」

「夢みたいだわ。先に子供ができて、できちゃった婚だったからウエディングドレスなんて諦めてたの。」

「きっと綺麗だよ。」

「ありがとう、隆さん。」

 一か月後、隆と恵子は沖縄へと旅立った。海辺の教会で結婚式を挙げた。恵子は純白のウエディングドレスを纏い、幸せの絶頂であった。

「隆さん、私、幸せよ。ありがとう。私の旦那様で居てくれて。」

「俺も幸せだよ、恵子。一生大切にする。」

二人は永遠の愛を誓い合った。

 数か月後、恵子は白い花に囲まれていた。桐の箱にこぢんまりと収まった恵子の傍では、皆がすすり泣きや嗚咽を漏らしている。

「この度は、母、恵子のために、お集りいただき、ありがとうございます。」

喪主は隆行である。その隣には、喪服姿の妻、美奈子の姿。

恵子は、安らかな顔で眠っているようであった。

納棺の時は、さすがに気丈に振舞っていた隆行も涙をこらえることができなかった。

「母さん、今までありがとう。」

そう言いながら、隆行は、コンビニのゴミ箱に捨てたはずの葉書を母の棺にそっと忍ばせた。

 葬儀を終えると、妻の美奈子が隆行に寄り添った。

「あなたから、一年間、別居してくれと言われた時には、驚いたわ。」

 隆行の母、恵子は気丈な女であった。隆行が恵子のお腹の中に居る時に、父は不幸な事故に遭って死んだ。隆行は、父親の隆の顔を写真でしか見たことがない。隆行は、若かりし頃の父の姿しか知らないが、大人になった自分は、隆にうり二つだと思うほどに似ていた。

 恵子は女手一つで、隆行を立派に育て上げた。隆行がお腹に宿った時には、まだ恵子は隆と結婚しておらず、結婚を一か月後に控えていた時の悲劇であった。

恵子は隆行のみならず、隆の母親の面倒まで見ており、晩年は体がすっかりと弱って、痴呆も始まり、子育てと介護に追われる日々であった。

その母も亡くなり、隆行も就職が決まりその後結婚、恵子自身の人生がこれからという矢先であった。恵子自身が若年性アルツハイマーを患ったのだ。恵子は、ある日、隆行のことを隆さんと呼び始めたのだ。

「母さんは、きっと糸が切れっちゃったんだな。目まぐるしく生きることに必死すぎて。」

 隆行も最初こそは、自分が隆行であり、隆ではないことを自分の母親である恵子に説明し続けたが、恵子は信じてはくれなかった。これは、母の望だったのではないか。隆行はそう思った。

 甘い新婚の時期もなく、忙しく育児と生活に追われた母は、きっとこんな蜜月を夢に描いていたのであろう。隆行は、自分が恩返しもできなかったことを嘆いていた。せっかくこれから母さんに楽をしてもらって幸せになってほしかったのに。しかも、残酷なことに、恵子は癌も患っており、医師より余命一年と告げられた。

 そこで隆行は決心した。

「美奈子、俺と一年間別居してくれ。」

隆行は美奈子に告げた。美奈子は驚いて、理由をたずねた。

「母さんは、今、俺を死んだ父さんだと信じて止まない。母さんの癌はもう末期で、たぶん助からない。だから、俺は母さんの命が尽きるまで隆で居ようと思うんだ。それが、今、俺にできる精一杯の恩返しだと思うから。」

隆行は、離婚覚悟で美奈子にそう告げたが、意外にも美奈子はそれに賛同した。

「お義母さんが、幸せになれるのなら。」

その日から、隆行は隆に成り切った。親戚から生前の父のしぐさや癖、嗜好などを聞きながら、隆を演じてきたのだ。

「母さん最後まで俺を隆さんって呼んで信じてたから、なんだか騙しているような罪悪感は常にあったな。」

「でも、お義母さん、幸せそうな顔で亡くなったわ。きっと幸せだったと思うわ。」

「俺は、こんなことで恩返しができたのだろうか。」

隆行は、墓の前で手を合わせようと、ポケットの数珠を探った時であった。

「葉書、一枚、入れ忘れたな。」

納棺の時に、入れた「私たち結婚しました」という結婚報告の葉書だった。

どこにも届けられることのなかった母の言葉たち。

宛名を見て、隆行の手は震え始めた。

「工藤 隆行様」

それは、隆行の名前、その物だった。

自分の存在は、母から消えていたはずだと思っていた。

隆行、今まあでありがとう。

あなたのやさしさは、本当にお父さん譲りですね。

そんなあなたを、私は誇りに思います。

お母さんはあなたが生まれてから、いつだって、幸せでした。

「母さん・・・母さんっ!」

隆行は、我慢していた感情が堰を切ったようにあふれ出し、膝から崩れ落ちた。

「忘れられていたんじゃなかったんだ・・・。」

隆行は子供のように号泣した。

「忘れるわけないじゃない。自分がお腹を痛めて産んだ子供だもの。」

美奈子が隆行の背中を優しく撫でる。

夕日に照らされた葉書には、しなやかで強い懐かしい母の金魚のような文字が躍っている。

Concrete
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