中編5
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終着点のあるバス

─死のう……

そのように決心して、Aは家を出た。

妻には山歩きでも行ってくる、と言い、一週間前、それなりの恰好をして、出かけた。会社には何の連絡も入れていないから、今頃、ちょっとした騒ぎになっているだろう。

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─いや、俺なんかが突然いなくなったとしても、大した騒ぎにもなってないかもな

Aは苦笑した。勤続二十五年。大した出世もしなかった。その間に、今の妻と、見合いで結婚。五年めには愛情も薄れ、会話がなくなった。子供も望んだのだが、恵まれなかった。

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 そして心に、大きな隙間が出来た。

その隙間を埋めるために、会社帰りパチンコ店に立ち寄るのが習慣になり、それが数年続き、いつの間にか、普通の会社員ではとても返せないくらいの借金を作ってしまった。

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 Aは歩いていた。着替えとかが入ったリュックを背負い、山あいの国道をただひたすら、歩いていた。目的は一つ。死ぬ場所を探すためだ。

山を越えたら、海がある。なんとなく、その辺りで死のう、と思った。なぜなら、海は「母」の象徴であり、そこで死ぬ、ということは、つまり、胎内に戻るということになるから、と、彼は勝手な解釈をしていたからだ。

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しとしとと、冷たい雨が空から落ちてきた。

「ああ、これはまずいなぁ」

Aはどす黒い空を見上げ、パーカーのフードを目深にかぶり直した。ダウンの襟を立てて、両手の平に息を吹きかける。白い息が顔を包んだ。

日はとっくに沈んでいる。

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 ふと見ると、道沿いにバス停があった。

山あいの国道沿いである。

街灯はポツンポツンとしかなく、バス停の時刻表はところどころが赤錆びており、文字が殆ど読めない。停留所のすぐ後ろは崖で、真下には彼方に鬱蒼とした木々が広がっている。道路を挟んで向かいには、切り立つ山肌が迫っている。

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─こりゃあ落ちたら、まず助からないな

Aは停留所後ろのガードレールから下を

恐々のぞき込みながら、考える。それから、

─これから死のうという人間が、

何怖がってんだろう。

と思って、苦笑した。すると、

苦しげなディーゼルエンジンの音が背後から聞こえてきた。さっきまで歩いてきた方角を振り向くと、闇の中にぼんやりと、二つの光が並んで動くのが見える。どうやら、バスが来たようだ。

……

雨は、いよいよ勢いを増していた。

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 バスは白い煙を立ち上らせながら、Aの横に巨大な体躯を、ゆっくりと横たえた。後ろのドアが

歪んだブザー音と共に、大げさに開く。

彼は吸い込まれるように階段を上ると、バスの中に入った。

車内には、すでに何人かの人の姿がある。

皆なぜか、肩を落として沈んでいるようにみえた。

誰一人としてしゃべっている者もいない。どんよりとした重い空気が車内を漂っていた。

彼は一番後ろのソファの左隅に座った。

ドアは再び大げさに閉まり、バスはゆっくり動きだした。

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 Aは腕を組み、左横の窓から外を見ていた。

目前の暗闇を、

街灯が後ろへ後ろへと通り過ぎていく。

はるか遠くの方には、どす黒い山の端が連なり、人家の灯火がポツンポツンと広がっている。

しばらく外を見ていて、何気に前を見ると、前の二人席の隙間から何かが見えた。何だろう?と、意識をそこに動かす。

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─え!?

彼はギョッとした。それは人の顔だった。

隙間の向こうの暗闇に、女の白い顔が浮かんでおり、不安げな目でじっと彼を見ている。Aは慌てて目を瞑り、もう一度見直してみる。だが、すでにそこにはもう何もなかった。それとなく、立ち上がってみる。

前の席には年配の男性が一人、窓際に座り、外を見ている。通路を挟み右側には、農作業姿の老婆が座っている。前の方を見る。あちらこちらに座る人たちの、後頭部が見えるだけだ。

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 彼は再び腕を組み、窓の外に目をやった。昼からの疲れからか、少しうとうとしだしていた。

……

どれくらい経ったころだろうか。彼は何かぞくりとするものを感じて、目を開けた。

─ああ、寝てしまったようだな。

頭を掻きながら首を動かしたとき、

えっ?と思った。

─隣に誰か座っている!

寝ている間に、乗ってきたんだろうか。

……くたびれたスーツ姿の六十過ぎくらいの男性が、Aから少し離れたところに座っていた。髪はボサボサであり、濁った目で、じっと一点を見つめている。

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「あの……あなたも、海の方に向かっているのでしょうか?」

彼は思い切って声をかけた。というのは、隣の男には、なんとなく同じような匂いを感じたからだ。

男は、びっくりしたような様子でAの方を見ると、

微かに微笑み、口を開いた。

「ええ……別にどこでもいいんですけどね。もう、何もかも終わりにしたくて……」

「よければ、お話を聞かせていただけませんか?」

男はまた一瞬微笑むと再び、口を開いた。

「前月、妻が亡くなりました。四十三歳でした。五年前に癌が見つかり、闘病生活を続けた末のことです。私は六十です。二週間前に、二十年お世話になった会社を辞めました。子供もおらず、何の楽しみ、生きがいもありません。それで、会社最後の日。ささやかな送別会をしていただいた後、家には帰らずホテルに泊まり、それから数日間、ホテル暮らしを送った後、フラフラと彷徨うように街を抜けて、山あいを歩いていると、このバスが通りかかったので、なんとなく乗ったのです。」

─俺と似ている。

Aは思った。

「実は、私も……」

彼も、これまでの自分のことを語った。

「似た者同士というやつですね」

そう言って、男はニヤリと笑った。

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 いつの間にか、バスは山を抜けて、平坦な道を走っていた。まだ、外は暗闇に支配されている。

雨は相変わらずだ。

Aは何とはなしに、このバスにいる乗客は皆、同じような目的で、このバスに乗っているのではないか、と思うようになってきた。

人生に疲れた者だけが乗るバス。

そして、終着点は……。

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 すると突然、社内アナウンスが聞こえ始めた。

「ええ、皆様、永らくお待たせいたしました。

当バスはいよいよ、目的地に到着致します。

お客様の中で、もし、まだ、この世に未練のある方などおられましたら、降車ボタンを押して下さい。また、遺書などがございましたら、私の方で責任を持って、懇意にされている方々にお渡ししますので、ご安心下さい。」

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……

だが、誰一人として、立ち上がる者やボタンを押す者はいなかった。

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─そうか、そうだったのか……

Aはなぜだか、清々しい気分になっていた。

……

彼方に水平線が微かに見えてきていた。

Concrete
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