あなただけでもにげなさい

中編6
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あなただけでもにげなさい

その感情を認識したのは、たぶん、私が小学3年生のときでした。些細なことで怒り、怒鳴り、母や妹を傷つけ、泣かせ、苦しめるあの男のことが憎い、はっきりとそう思いました。

9歳の私にとって、それは不思議な感覚でした。血の繋がった家族のことを嫌いになることなどあり得ないと、それまで、幼い私は信じ込んでいたのです。

大人になった今だからこそわかることですが、あの男は自分の言動や行動が、どれだけ私達家族に影響を与えるのか理解していなかったのだと思います。

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時は過ぎ、私も大学卒業間近になりました。大学へは親戚の家に下宿させてもらいながら通いましたが、最近は授業がないため、実家へ戻って生活しています。

相変わらずあの男は毎日朝から母を怒鳴り散らして生きていましたが、実家を離れて生活した私には変化がありました。

あの男の言動が一方的で不条理で理不尽で馬鹿馬鹿しいことにやっと気がつけたのです。あの男の怒鳴り声に反論することもしばしばですが、いかんせん、私の気持ちは1ミリも伝わらないのです。

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よくあの男の夢を見ます。声を荒げ、家族への不満を灰皿やリモコンやらと一緒に投げつけてくるあの男の夢です。

家の中は散々な有様になり、母は妹を抱えて、降り注ぐ怒声や凶器に震えています。夢の中の私はその状況に耐えられず、あの男に負けじと大きな声で反論し、糾弾します。

私は普段怒ることがほとんどないのですが、いざそのような場面になると感情が涙と共に溢れてしまい、意見をきちんと伝えられません。

この性質は夢の中の私にも反映されており、あの男に泣きながら訴えることになるのです。しかし、あの男はまるで私の声など聞こえないかのように、言葉の暴力を浴びせ続けるのです。

私を無視するあの男が憎い。

言いたいことをはっきり伝えられない私が悪い。悔しい。どす黒い感情の中で目覚めると、決まって私は涙を流しています。

というのが、これまでの夢の流れでした。

ところが最近、あの男の夢に変化が現れるようになったのです。

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ある日、夢の中の私は、あの男のことを、包丁で刺しました。

いつものように怒鳴り散らすあの男。

何も言い返せずにいる母。

堪らない私はあの男に反論しますが、やはり、伝わりません。

私があの男を非難すると、あの男は一瞬、何かを考えるように静止するのですが、すぐに母を大きな声で責め立てます。

あの男は私の声が聞こえている。それなのに、何も聞こえないふりをする。

また伝わらない。伝えられない。

大人の男の低い声が頭の中にこだまして、胃から喉元にかけて熱が走り、頭蓋を締め付けられるような痛みが私を襲います。

早くこの声から解放されたい。鎮めなければ、あの男を。台所に走り、いつも母が握っている大きな包丁を、両手で握りしめて、あの男の腹めがけて飛び込みました。

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目覚めた私は泣いていましたが、夢の名残はそれだけではありませんでした。

包丁の柄の冷たくて硬い感触、銀色の刃が腹の肉を切り裂く感触、飛び散る赤黒い色。寝起きの私はそれらをリアルに覚えていました。

自身のおぞましい想像に震えながら、サスペンスドラマの見過ぎだと納得しました。

私はあの男を傷つけたい、殺したいとまでは思い至っていません。

第一、あの男を遠ざける方法なんてそれ以外にもたくさんあるのです。

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またあの男の夢を見ました。

性懲りも無く怒りをぶちまけるあの男に、私も応戦しますが、やはり私の言葉は伝わりません。

しびれを切らした私は、玄関にあったゴルフクラブを持ち出しました。そして、居間で母に向かって皿を投げつけようとする太い腕めがけて、硬い鉄の塊を振り下ろします。

あの男は腕を押さえて、床の上に丸くなりました。

普段強気な男のその様子に、手の力が抜けて、ゴルフクラブを落としました。

手が震え、足が震え、座り込みます。

私はあの男を傷つけたいわけではないのです。傷つけたくはないのです。

自己保身の感情が頭の中を駆け巡り、

私の名前を呼びながらすがりついてくるあの男の表情が、

目覚めてからもこびりついて離れませんでした。

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現実の世界での不可能を、私は夢の中で実現しているのではないかと考え始めました。

深層心理において、私はあの男を痛めつけたいと感じているのかもしれない。

しかし、私はあの男を殺したいほど憎んでいるわけではありません。

殺さずともあの男と離れて生きる方法はありますから。

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そして、ある晩のことです。

あの日は祝日で、あの男も母も仕事が休みだったため、朝から2人とも互いにストレスを溜め込みながら過ごしていました。

毎日の些細な喧嘩や鬱憤が積み重なった結果、休日の夕食時に大騒動へと発展することが多いのです。

あの夜も例に漏れず、あの男の一方的な感情の暴露が始まりました。

テレビは止められ、怒鳴り声が近所中に響き渡ります。

私を支配するのは、もはや呆れの感情でした。些細なことでよくもまあこんなに怒る体力があるものだと関心しました。耐えかねた母が、席を立ちました。

その瞬間、耳をつんざくような音がして、私は目を瞑りました。

あの男が投げた灰皿が、母の背後にある食器棚にぶつかり、あらゆる食器が割れて床に落ちる音でした。

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身体が一瞬で冷たくなるのを感じました。

同時に手足が震えます。

青白い顔をした母は恐怖の滲んだ目で男を見ていました。

妹は泣き始め、あの男はうるさい黙れと喚きます。

胃が熱くなり、喉元を苦々しいものがせり上がってくるのを感じました。

頭全体が締め付けられるように痛み、

耳鳴りに苛まれ、

呼吸がうまくできなくなり、

私は、走って台所に向かいました。

あれを見つけないと。黒い柄、銀色の刃。あれであいつを黙らせないと。

台所のどの引き出しをあけても、母がいつも握っている包丁は、ありませんでした。

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それどころか、刃物が1つも見つかりません。

台所から刃物がなくなるなんてことがあるのか。

もしかしてこれは、現実ではないのではないだろうか。

手や足の先からじわじわと、黒いものに染まっていくような感覚がありました。

居間から、母の悲鳴とともにまた何かが割れる音がしました。

妹が私を呼ぶ声も。

私は玄関に向かいました。

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これは夢だ。

いつもの夢だ。

私があいつを、あの男を止めなければ、

母や妹が殺される。

玄関にはゴルフクラブがあるはずです。

あの男が先週ゴルフに行ったばかりなので、倉庫にしまわずにまだ玄関に置いてあるはず。

はやく。はやく。

急いで向かった玄関に、ゴルフクラブは一本もありませんでした。

どうして。

あの夢を見てから無意識的に包丁やゴルフクラブの位置を確認していたのに。

もしや倉庫にあるのか。

探しに行こうか。

居間からは、悲鳴と泣き声と怒鳴り声と、何かが割れる音が続いています。

あの男を包丁で刺す感触や鈍器で殴る感触が蘇ってきました。

外に行けば何か、あいつを止められるものがあるかもしれない。

靴を履きました。

足の裏に何かを踏んだ感触がありました。

靴から足を抜きました。

それは紙でした。

小さく小さく折りたたまれた紙でした。

震える手で拾い上げ、開きました。

瞬間、

目が熱くなり、

視界がぼやけ、

私は外へ出ました。

走りました。

隣の家まで100メートル、

チャイムを押し、

助けてくださいと叫びました。

父が暴れているんです。

母が殺される。妹が。

お隣の家のおじさんと息子さんが、走って我が家に向かいました。

おばさんは私を抱きかかえました。

ポケットに入っていた携帯電話で警察に連絡し、パトカーが来て、数日後、あの男は精神病院に入院しました。

家の中は酷い有様で、母は妹をかばいながらいろいろなものの破片をかぶっていました。

あの男が警察に連れていかれた後、荒れ果てた居間に立ち尽くす私に母は言いました。

あなたが手を汚さなくて、よかった、と。

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