長編9
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絵。

「兄は絵描きでした......

だから、兄は人を殺したんです。

私のために......

本当、馬鹿な人ですよね......」

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目の前にいる少女は、見ず知らずの俺に向って語り掛けていた。

差し込む月明かりに照らされた肌は骨のように白く、およそ1か月は何も食べていないのではないかと思うほどに痩せ衰えていた。

だが、その小さな口から溶け出た幽かな声は氷のように透明であり、薄汚れた俺の心に冷たく浸みていくかのようだった。

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「私より5歳上の兄は、とても優しい人でした。

近所のやんちゃな盛りな小学生が、田んぼのカエルを投げて遊んでいるのを見かけては、カエルが可哀そうだろって優しく諭すように叱り、代わりに一緒にキャッチボールして遊んであげるような、

お家じゃあ飼えないのに捨て犬を見つけては母に怒られて、でも捨て犬を見捨てることができないからって、必死になって里親を探し回るような…

そんな、優しい兄だったんです。」

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物音一つしない静かな夜、どこまでも冷たく、哀しげな声が響く。

彼女が纏っている制服は、まるでぼろ布のように汚れきっており、ところどころが裂けている。

ぐちゃぐちゃに乱れた髪の隙間からこちらを見据え続る少女の姿は、まさに幽霊そのものだった。

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「父は、私が物心のついた頃にはもう、この世を去っていました....

優しい人だったと、聞かされています。

当時5歳だった兄が父の日に書いた似顔絵を見て、お前は絵の才能がある、画家になったら絶対に有名になれるぞって、快活に笑う人だったと、兄がよく言っていました。

父は、三世続く小さな看板屋を、たった一人、大事に大事に守っていました。

ですが、そんな父が愛した看板屋を、私は知りません。

知る前に、父は死んでしまったのです。

父の死因は、交通事故でした。

出来上がった品を納品に行った帰りに、信号無視の車が横断歩道に突っ込んで、即死。

犯人は捕まっていません。

近くの質屋から宝石を盗んだ泥棒が、大急ぎで逃げて行ったのを近所の人が目撃していたそうです。

本当、理不尽ですよね......」

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心臓を陶器の手で握りつぶされるような冷たさを感じた。

彼女の眼はずっとこちらを見つめ続けている。

その視線に耐えられない俺は目をそらさずにはいられなかった。

震える口元が何か言葉を吐き出そうとしたが、この場所に縛られている彼女に、俺が何を言ってもいけない気がした。

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「それから、母は女手一つで私たち兄妹を育てました。

一所懸命、寝る間も惜しんで。

まだ小学生の兄に幼い私の面倒を任せ、パートに出かけて行きました。

両親の反対を押し切って結婚した母には頼る親戚もありません。

ただ一人の職人を失ったお店も、その存在が最初からなかったかのようにあっけなく潰れてしまいました。

何もかもを奪われた母は、それでも頑張っていました。

しかし、特別な技能を持っているわけでもない母の稼ぎは、決して潤沢なものではありません。

私たち兄弟はひもじい暮らしを強いられました。

それでも、優しい兄や母と共に過ごす生活はとても温かくて、幸せなものでした。

兄は、中学で美術部に所属していました。

看板屋だった父の血を受け継いだのかもしれません。

絵のコンテストで何回も入賞するくらい絵が上手でした。

穏やかな兄が描く油絵は水彩画よりも透明で、いつも優しい光に包まれているようでした。

私はそんな兄の絵が大好きで、だから、兄は高校に上がってもきっと絵を描き続けていくのだろうと思っていました。

ずっと絵を描いて生活ができたら、どれだけ幸せなんだろうなって、笑う兄の顔は心からの笑顔でした。

部の顧問の先生は兄に専門学校を勧めていたそうです。みんな、兄の絵が大好きだったんです。

...でも、兄は中学を卒業してすぐに働きました。

母の稼ぎだけでは金銭的に生活が苦しくなるだけだと、進学という道を諦めたんです。

少しでも母の負担を減らせるようにと、毎日働きに出て行きました。

せめて、妹だけは好きなように進学して、就職して、結婚してほしい。

まるで口癖のようにいつもそう言っていたと後に兄の知人から聞かされました。

優しい兄、自分を犠牲にしてまで私を思いやってくれる兄、そんな兄の行動を無駄にしたくなくて、私は必死に勉強しました。

私が良い学校に進学して、立派な会社に就職すれば兄や母に楽をさせてあげられる、恩返しができると信じて、頑張ったんです。

だけど、一方で兄には絵を描き続けて貰いたいという気持もありました。

兄が本当に幸せそうな顔をしていたのは絵を描いている時だけだったんです。

私は無事高校に入学することができました。

兄は県内で一番偏差値の高い私立の高校を勧めましたが、学費が高いからと公立の高校に進学しました。

確かにレベルは落ちますが、それでも十分国立大学を目指せます。

兄と母にはまだ迷惑を掛けてしまいますが、3人で安定して暮らせるくらい稼ぎたいのならば良い大学を出ないといけないと、私は思っていました。

また一生懸命勉強して、学年トップの成績をなんとか収めることが出来ました。

そして、そんな私が高校3年生になった春のことです。

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...母が、倒れました。

脳出血でした。

父が車に轢かれて死んだ時から、ずっとずっと頑張ってきた母の血管はもうぼろぼろでした。

集中治療室でいくつもの管に繋がれた姿はあまりに無機的で、思いっきり泣きたい筈なのに、その映像のような現実感の無さに体は動きませんでした。

ずっと3人で幸せに暮らせるようにここまで頑張って来たのに、きっと私のせいで母は倒れたんです。

私のせいで……

わかりきったその言葉は、怖くて声に出せませんでした。

呆然としている私の肩を、兄が抱いてくれました。

ぎゅっと、強く、強く、それがとても痛くて、ああ、この理不尽なのが現実なんだなと、そう思ったのを覚えています。

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それから数日後、ただいつもの習慣で通った学校から帰宅すると、兄が家にいました。

いつも私より遅くに帰宅していた、兄がいました。

顔の目元から下は、四角いものに阻まれて玄関からはよく見えません。

兄は何かを凝視しているようでした。

眼光が異常に炎立っています。

近づくと、右腕が別の生き物のように動いているのがわかります。

その腕の先に握られた筆の力強さに、数日前と同じ痛みを肩に感じました。

兄は白いキャンパスに向かって、ひたすらに絵を描いていました。

兄が、私が帰宅したことに気が付きました。

腕の動きが止まり体をこちらに向けると、おかえり、と言いました。

炎立つ眼光のまま笑いかけられて、重力の何十倍もの威圧が体を撫で去ります。

今日は早上がりだったんだ。

聞いてもいないのに兄が言いました。

明日、この絵を野口先生に渡してくるよ。

ほら、僕が中学生だった時の美術部の顧問の先生、憶えているかな。

僕の代わりにコンテストに提出してくれるんだ。

とても優しい声色でした。

いつもの兄の、あの優しい声。

だけど、なぜだかそれがとても恐ろしく感じられました。

それだけを言い終えると、兄はキャンパスに向き直り、再び狂犬病に罹った犬のように腕を動かし始めました。

私は、また、立ち尽くすしかありませんでした......

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次の日、目を覚ますと家中に兄が描いた絵が散らばっていました。

しかし、そのどれもがまるで兄が描いたものではないかのように、暗くおどろおどろしいものばかりでした。

そこに描かれているのは全て、馬や猿といったような動物の絵でした。

いや、それらは全部、人物画のようでした。

よく見れば見るほどに、それが動物の絵なのか人間の絵なのか私にはわかりませんでした。

人間のような動物にも、動物のような人間にも見えました。

もしかしたら、妖怪の絵なのかもしれません。

まったくもって意味不明な絵ばかりが、床の上に10枚も無造作に置かれていました。

ですが、ただ一つだけ、何を描いている絵なの分かるものがありました。

その絵だけは、いつも兄が食事のときに座る椅子の背もたれに立てかけてありました。

そこには、無残に潰されたカエルの絵がありました。

いいえ、無残に潰されたカエルのような“人間”の絵がありました。

一目見てわかりました。

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それは、兄の自画像でした。

私は急いで兄を探しました。

リビング、キッチン、寝室にトイレやお風呂。

どこを探しても兄は見つかりません。

そして、昨日私が帰ってきた時にはあったはずの兄の靴もなくなっていました。

私は絶望しました。

ああ、きっと兄は昨日言っていたように自分が描いた絵を持って行ってしまったんだなと思いました。

一体どこに持って行ったのかはわかりません。

人か、動物か、妖怪か、不安定で不気味な絵を持って行ってしまったんだなと、思いました。

それと同時に、もう兄はこの家に帰って来ないんだと、悟りました。

私はこの日の夕方のニュースで、兄が10人もの人間を無差別に殺した事を知りました。」

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目の前にいる生気のない少女の話に、俺はただ絶句するしかなかった。

動機も不明の大量無差別殺人事件が起きたというニュースは俺もよく覚えている。

都心を恐怖のどん底に陥れた史上最悪のシリアルキラーとして大々的に取り上げられていた青年。

精神病の疑いも無く、薬物反応も無し。

最後の最後まで動機が一切わからなかった為に、ネット上でも様々な議論が今でも飛び交っているという。

彼女の言う殺人鬼の兄が無差別殺人を行う前に描いたという絵にも心当たりがあった。

確かに人なのか獣なのかよくわからない気持ちの悪い絵だったと記憶している。

「兄は私のために何人もの人を殺したんです。

母が入院して、治る見込みもなくて、でも医療費を払うお金なんてない。

だから、シリアルキラーになんかなったんです。

ジョン・ゲイシーというアメリカのシリアルキラーを知っていますか。

33人以上もの子供を殺害した恐怖のピエロです。

彼が監獄で書いたという自画像はあり得ないくらいの高値で取引されるんです。

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だから、兄は人を殺したんです。

優しい兄、自分を犠牲にしてまで私を思いやってくれる兄、私が大学に行けるようにこんな方法でしかお金を用意できなかったんです。

本当に、本当に、馬鹿な人なんです。」

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ぽろぽろと彼女の両目から涙が流れた。

うぅぅ...とうめく声が擦れて響く。

俺はどうして、こんな話を聞かされているのか訳が分からなかった。

こんな夜中にこんな場所で、こんな幽霊少女とゆっくりお喋りだなんて、ぞっとしてしまう。

だが、どういう訳か俺は彼女の話を最後まで聞かなければならないと思っていた。

でも、もうこの場所には居られない。

俺は先ほどまで金縛りに遭ったのように動かせなかった足を引きずるように後ずさった。

しかし、女はそれを見ると震えながら金切り声を上げはじめた。

「ねぇ、どこに行くの?お願い、兄が残した絵画はもっていかないで。

お願い、ねえ?兄が最後に書いた形見なのっ、ねえ!いや!持って行かないで!大切な大切な兄の形見なのっ!!ねえ!!お願いっ、いやっ!持って行かないでっ!!いやっ、いやああああああああああああああ!!!!!!」

ついに少女がヒステリックに叫びだした。

あのボロ雑巾のような体のどこにそんな力があるのかギシギシと近くの柱が軋み出した。

女の足元に粘度のある液体が広がっていて気持ち悪い、耳をつんざくような悲鳴に心臓がバクバク音を立てた。

「いやあああっ!!!行かないでっ!!行かないでっ!!返してよっ!!返してよおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!」

出来るはずもない要求を大声で喚く少女から逃げるように俺は走り出した。

その場から動けもしないくせに返せ返せといつまでも五月蠅いので、もっと早いうちに黙らせておけばよかったと思いながら、中から叫び声が聞こえるボロ家に火をつけた。

事前に灯油は撒いていたが、断末魔にも似た絶叫は暫く続いていた。

全く、抵抗なんかするから幽霊みたいな見た目になるまで蹴り飛ばしてやったのに、さっさと家ごと燃えてしまえばいい。

以前やってしまったように逃げ道で人を撥ねないように気を付けながら車を運転し、助手席に置いてある、お高いらしい自画像とその他数枚の絵に目をやった。

触ることすらやけに拒絶するから、どんなお宝なのかと思ったが、これはマニアに高く売れそうだ。

…ん?

自画像の枠に小さいカードが挟んであるな。

取り出して見てみる、そこに書いてあったのは、おそらくこの自画像の題名らしき言葉だった。

それか、ひょっとしたらこれは死刑が確定した馬鹿兄貴の遺言なのかもしれない。

たった2文字。

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「畜生」

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はは

これだから泥棒はやめられない。

Concrete
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