長編10
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ゆくりなく

   ひろみ

 団地の駐輪場で通りすがりの若い主婦が、わたしの幼い息子の腕をいきなりつかんだ。

 自転車のスタンドを立てていたほんの一瞬のことだった。

 その主婦はチャイルドシートから降りた裕人が、小さな子がいつでもそうであるように駆け出していくとでも思ったのだろう。

 だが、裕人はまったく動いていなかった。わたしの横で大人しくじっと待っていた。

 とっさに手が出たのだと思う。自分の子供も目の離せない時期なのかもしれない。派手な格好をしているがしっかりした感じのお母さんだ。

 彼女はバツが悪かったのか、裕人の腕を離すとわたしから顔を逸らせて食材の入ったレジ袋をがさがさ鳴らし足早に去っていった。

 あっという間の出来事だったが心に染みが広がった。

 あれは子供を危険から守る彼女の無意識の行為なのだ。そう言い聞かせて自分を納得させようとした。

 だがわたしには、「やっぱりあんたはダメ母ね」と言われているように思えてならなかった。

 わたしは子供から目を離したことはない。いきなり駆け出さないよう裕人に言い聞かせていても、いつもしっかり目の端で捉えていた。今だって。 

 裕人はとても聞き分けがいいので助かっているが、わたしも悪くはないと思う。

 今の場合、もしわたしに悪い部分があったとしたら、それはたとえ思い違いだったとしても、裕人を守ってくれようとした彼女にお礼を言わなかったことだ――

 ああ、また落ち込みそう。気持ちを入れ替えなければ。

 ダメ母と言われたように思うのは、きっとわたしの思い過ごし。

 そう思おうとした。

 そばにいた年配の女性が話しかけてくるまでは。

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   まさえ

 派手な恰好をした若い主婦が幼い男の子の腕をいきなりつかんだ。駆け出そうとした腕白盛りの子供を止めたのだろう。

 もし駆け出していれば、乱雑に置かれた自転車に足をとられて転んでいたかもしれない。駐輪場の外はすぐ車道だ。飛び出していれば、車にはねられていたかもしれない。

 子供をちゃんと見ているお母さんなのね。素晴らしいわと思ったが、自分の子供ではないらしく男の子をそのまま置いてすたすたと去っていってしまった。

 よく見ると男の子のそばで女性が自転車のスタンドを立てていた。彼女が本当の母親なのか。去っていく若い主婦に礼も言わず、後姿をぼうっと見送っていた。

 今は無責任で礼儀知らずな母親が多い。

 さっきの若い主婦より上品で賢そうなのに人は見かけによらないものだ。

「ちょっとお母さん。子供は一瞬でも目を放しちゃだめよ。油断すると事故に巻き込まれて死なせてしまうんだから。今の人がいなかったら危なかったでしょ」

 つい、言葉が出てしまった。

 私にはつらい過去があったからだ。

 歩道で駄々をこねたお兄ちゃんに気を取られたほんの一瞬に、やんちゃだった下の娘が車道に飛び出してしまったのだ。

 あれだけ道路に飛び出してはいけないと言い聞かせていたのに。何度も何度も言い聞かせていたのに。その度にあの子はこくんと頷いて、「わかった」って言っていたのに。

 子供には何度言い聞かせてもだめなのだ。わかったような顔をしていても油断していてはいけない。

 どんっと娘が車に撥ね飛ばされた音が、今も耳の奥で私を責める。

 男の子の母親は戸惑いの表情を浮かべながら私に頷いた後、前かごの荷物を持ち、空いた手で子供と手をつないで立ち去った。

 自分のどこが悪いのかわかっていない感じね。ああいう母親の子供はいつか事故に巻き込まれるのよ。そのときになってはじめて自分の愚かさに気付くんだわ。

 耳の奥でどんっと忌まわしい音が鳴り始めた。この音が頭に響き出すと頭が痛くなる。

 どんっ。

 娘が弧を描きながらスローモーションで飛んでいく。

 どんっ。

 娘がアスファルトに叩きつけられ、淡いピンクのワンピースが血に染まっていく。

 どんっ。

「お前もあの母親と同じだよ」

 血にまみれた娘があらぬ方向に曲がった首をこっちに向けて言う。

 人のこと言えた義理じゃない。わかっているよ。だからずっと謝ってるじゃない。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

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  ゆうこ

 うわっ、また余計なお世話やっちゃったよ。

 どうしてあたしったら、考えるより先に手が出ちゃうんだろ。

 あの男の子の腕、引っ張っちゃった。

 うちの子みたく、やたら走り出そうとしていたわけでもないのに。

 おとなしくて賢そうな顔をした良い子だったなあ。急に腕つかんで、よく泣き出されなかったもんだわ。

 母親に睨まれるのが怖くてあわてて逃げちゃった。

 ついやっちゃうんだよね。自分ちと同じ年頃の子供を見ると。今にも車に向かって飛び出しそうで、怖くて黙って見ていられない。

 うちの子なんてちょっと目を放した隙に走ってっちゃうもんだから、危ないのなんのって。

 まあ、目離すあたしが悪いのわかってんだけど、ついぶん殴っちゃったりして。

 でも、うちの子はこたえてないなあ。あんだけ怒っても叩いてもまた走ってっちゃうもんね。

 ひょっとしてバカ? あたしに似たのか? 

 あーあ、さっきみたいな男の子が息子だったら、ちょっとはあたしも楽になんだけど。

 なんてね。自分が産んだ子だから仕方ないっか。

 昼寝してたから放ってったけど、絶対もう起きてるよな。そんでもって、とんでもないことしてそうだ。

 ママぁ、どこ行ったのぉなんて、泣きながら待ってるようなかわいげなんかないし。

 さて、鍵開けてっと。

 ああ、やっぱり。

 どうしようもなく予想を裏切らないガキだよ。ったく。

「こら、何してんだ、てめえ。あーあ、クレヨンで――

 襖が――畳も――

 もうっっ。今晩ハンバーグ抜きだからなあっっ」

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   ひろみ

 わたしは裕人をしっかり見ている。

 果たして本当にそうなのだろうか。

 自分はきちんと子育てしているつもりでも、他人から見ればまったくできていないのかもしれない。特に子育てのベテランから見れば。

 さっきのおばさんの言葉がその証拠なのでは。

 そんなことを考えながら買ってきたものを冷蔵庫や棚に片付けた。

 裕人は行儀よくテーブルに着いて、買ってきたクッキーを食べている。きつく叱ったことも無いのに、彼はお菓子の粉を撒き散らさない。飲み物もこぼさない。むやみやたらにおもちゃをぶつけたり、スケッチブック以外に落書きしたりもしない。母親としてはとても楽だ。だからといって母としての役目をおろそかにはしていない。

 裕人の好きなキャラクターのマグカップに牛乳を半分ほど注いで彼の前に置く。

「おいしい?」

「うん。おいしいよ」

 満面の笑みで返事が返ってくる。

 こんなに良い子なのは持って生まれたものだ。

 そう。わたしの子育てがいい成果をあげているわけではない。

 それが証拠にお姑さんからは会うたび注意を受ける。何事も起きていないのに、やれ怪我をさせるな、やれ注意して見ていろと。さっきのあのおばさんのように。

 きっとわたしの子育てがまずいからだ。

 そんなことはない、お姑さんの注意は起こってからでは遅いというただの忠告なのだと受け止めようとした。でも、どんなに言い聞かせても、お前はいたらない母親だと言われているように思えて仕方なかった。

 どうやったら立派に務めを果たせるのか、認めてもらえるのかわからなくて、次第にお姑さんと顔を合わせるのが苦痛になってきている。

 わたしはこの子をきちんと見ています。

 そう自信を持って言えたらどんなにいいだろう。

 でも、そう言った途端に裕人に何事か起きたらどうする?

 彼が立派に育つまでわたしは子育てに自信を持ってはいけない。

 もしかして本当にいたらない母親かもしれないから。

 お姑さんが言うように。

 さっきのおばさんが言うように。

 ああ、もうこんな時間。早く夕飯の支度をしなくては夫が帰ってくる。

 少しくらい夕飯が遅れたってあの人は怒らない。失敗してもまずいとは言わない。

 その代わり、どんな料理を並べてもおいしいとは言わない。一生懸命作っても褒めてはくれない。

 それにあの人はわたしをかばってもくれない。

 床に正座させられて、延々と子育てについてお姑さんに説教されていても、知らぬ存ぜぬで新聞を読んでいる。

「こいつはちゃんとやってるよ」って言ってくれたら、たとえお姑さんから開放されなくてもどんなにか救われるだろう。

 うそでもいいから褒めて欲しい。ううん、褒めてくれなくてもいい。「めし」や「風呂」の単語だけじゃなく、ちゃんとした言葉をかけて欲しい。

 でも、あの人が何も言ってくれないのは、やっぱりわたしがダメな嫁で、ダメな母親だからなのか――

「ママ」

 ぼうっと立ちすくんだままのわたしをつぶらな瞳がまっすぐ見ている。

 こんなに良い子なのに、あの人もお姑さんもこの子には無関心だ。

 あの人は新聞と自分の好きなテレビ番組があれば後はどうでもいい。

 そしてお姑さんは息子だけ。その息子を立派に育てあげたという自負がわたしの子育てに口を出す。この子のためなんかではない。大の男を猫なで声で呼びこそすれ、孫の頭を撫でたことなど一度もないのだから。

 わたしたちはどうがんばっても、あの二人からは認められることはない。

 駐輪場でこの子の腕をつかんだ若い主婦、目を離すなと言ったおばさんの顔が浮かぶ。

 あの人たちもきっとわたしを認めてくれないだろう。これからは彼女たちの視線にも気を配らなければならなくなる。いや、団地中のみんながわたしをダメな母親だと見ている。どんなにきちんとやっていても誰も認めてはくれない。

 わたしはつぶらな瞳を見つめ返し微笑んだ。

「ママね、疲れちゃった」

 この子はわたしの子だ。夫やお姑さんに残してはいかない。

 裕人の細い首に手を回す。

 わたしは本当にダメな母親だ。

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   まさえ

 きょうは夕方からずっとあの音に責められていた。いくら謝っても許してはくれない。

 何度もお兄ちゃんに電話して、ようやく安心できた。

 そう、いつものように。

 今はもう結婚して家庭を持っているお兄ちゃん。

 あの子が死んだとき、私は泣きながら真っ先にお兄ちゃんを責めた。「お前がぐずるから」と。

 今は目を離した自分が悪かったのだとわかっている。しかし、あの時は誰かのせいにせずにはいられなかった。

 あれから、元気で活発だったお兄ちゃんは変わった。

 夫も、娘を死なせその罪を長男に着せる私に愛想を尽かし出て行った。

 夫はお兄ちゃんも一緒に連れて行こうとしたが、妹を死なせて逃げるのかと私が責めたのであの子は残った。それでも連れて行こうと夫は頑張ったがお兄ちゃんは私のそばにいてくれ、罪をかぶったままそれを乗り越え成長した。

 私がようやく自分の罪に気が付いたのはお兄ちゃんが高校卒業と同時に家を出た後だった。

 電話で謝ると笑って許してくれたけど、家には二度と戻ってこなかった。きっと苦しい日々を過ごしたところに帰るのは辛いのだろう。

 ほぼ毎日あの音に悩まされ、電話で助けを求める私に、「もうあの子も許してくれてるよ」と優しい言葉をかけてくれる。

 お兄ちゃんも苦しかったことを思い出すに違いないのに、私は電話をせずにはいられない。何度も、何度も。

 それでもお兄ちゃんは優しくなぐさめてくれる。

 けれど、お嫁さんや幼稚園児になっているはずの娘には、私はまだ会わせてもらったことがない。

 きっと、嫁姑問題や小さな女の子を見て私が苦しんだり悲しんだりしないようにというお兄ちゃんの配慮なのだろう。

 気を遣わないでいいのよ。いつでも遊びに来てねと言っても電話の向こうで笑うだけ。そこまで気にしなくても大丈夫なのに、そこから先に進めようとはしない。

 なんて優しいお兄ちゃん。ひどい母親だった私にいつまでも思いやりを持ってくれている。

 私も少しでも自分みたいな母親をなくすようがんばらないと。きょうのような母親を見かけたら、例えうざいおばさんだと思われようと注意してあげなければ。

 私がしないで誰がする? 

 きょう、あの母親に注意できてよかった。本当によかった。

 さあ、夕飯にしよう。一人は寂しいけれど、手の込んだ料理をしなくていいから楽といえば楽ね。

 あら、救急車の音? 好きじゃないわ、この音。だって、思い出すものあの音を――あの忌まわしい――

 やだ、近いわ。この団地に来たのかしら。パトカーのサイレンもする。何かあったの?

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   ゆうこ

「あっ、研ちゃんママ? あたし。おはよー。今電話いい? 夕べはびっくりしたよね。救急車とパトカーが来るなんて。

 ったく、おかげでうちのガキ、興奮しちゃって。乗るなって言ってんのにベランダの柵によじ上りそうになるしさ。ピカピカ光る赤い光に騒いじゃって、もう。

 団地なんだからさあ、周りのこと考えてサイレンなしで来ればいいのに。

 え? そんなわけにはいかないか。ははは。

 うん。そうなのよ。何があったか研ちゃんママに聞こうと思って電話したの。騒ぎの時見に行こうかと思ったんだけど、ちょうどハンバーグの種こねてたからさあ。

 へえ、そっちの棟だったんだ。えっ、心中? 子供とお母さん? ええーっ、どの人? どの人? うーん、知らない。へえ、きちんとした人だったんだ。なんか悩みあったのかな? ほんとだねえ。そんな人ほど、思い詰めたりするんだよねえ。そうそう、うちらみたいなんが、しぶとく生きるって言うか。

 ふうん。子供も大人しくってお利口だったんだ。何で子供まで道連れにねえ。

 わかんないもんだねえ。ほんと、原因はなんなんだろ。

 子供がさ、やんちゃでも、家が貧乏でも、まあ、楽しく暮らせてたらいいかって気になってくるね。うん。死んだらおしまいだもん。そのお母さんもさ、それぐらいの気でいたらよかったんだよ。矢でも鉄砲でも何でも持って来いってくらいにさ。うん、うん。そうそう。ほんと、うちらには考えられないね。

 あ、うん。わかった。後で一緒に買い物に行こ。そのとき、またね。じゃ」

                        

 

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