長編7
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智恵抄

その家に引っ越すことに、妻はあまり乗り気ではなかった。

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「なんだか、気味悪いわ」

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理由は、ただこれだけだ。

どこがどう、ということではない。

ただ何となく、ということなのだ。

だから、引っ越しの荷物があらかた運ばれ、

段ボールの箱を開封し、中身を出すときも、

不機嫌そうだった。

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築半世紀の木造二階建て中古住宅。

小さいが庭まで付いて、八百万円。

市街地からは遠い郊外地なのだが、市街地にあるというだけで家賃だけは高かった今までの賃貸マンションに比べると絶対良いと思い、私は即決した。

おかげで貯金はスッカラカンになったが、老後のこととか考えると、これでよかった、と思った。

私は今年で五十歳。妻は四十三歳。

まだまだこれから、稼げばいいのだ。

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引っ越しの片付けがほぼ終わったのは、まだまだ寒い二月の日曜のこと。

夜、私は妻と、とりあえず一階の和室に布団を敷いて寝た。

電気を消すと本当に静かで、たまに聞こえるのは、庭にある柿の木の枝が風で擦れる音くらいだった。

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朝になって居間のテーブルに座り、トーストを食べていると、前に座る妻がいきなり

「チエって誰?」

と、聞く。

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何のことか分からず、キョトンとしてると、

「あなた昨晩、寝言で『チエ、ありがとう』って、何度も言ってたけど」

と、無表情で言う。

「誰だ?それ。初めて聞くけど」

「そう……」

妻はそれきり話を止め、テーブルを片付けだした。

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その日、仕事を終え八時頃に帰宅して、廊下奥にある居間のドアを開くと、テーブルの椅子に座る妻の背中が目に飛び込んできた。

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ただならぬ気配に、

「どうしたんだ?」

と、尋ねるが、無言のままだ。

部屋着に着替え改めて妻の前に座り、声を掛けると、

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「私、ここに住みたくない」

と、ポツリと呟く。

「どうして?」

と聞くと、昼間におかしなことがあったらしい。

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天気も良かったので、庭側のサッシを開け放ち、

和室の畳に掃除機を掛けていたら突然背後から、

「おい」と、男の声がしたそうだ。

びっくりして振り向くと、

紺色の着物を着た白髪頭の爺さんがテーブルの前に座り、妻の方を見ていたらしい。

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「え!?」

思わず声をあげ、唖然としてその場に立ち尽くしていると、

顔の辺りから電波で乱れたテレビ画面のように不気味に崩れだし、最後はスーッと消えたそうだ。

その後、妻は怖くなって家を出て、ファミレスに夜までいたらしい。

幻でも見たんじゃないか?

と言ったが、

間違いなく、テーブルに座っていたそうだ。

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変な寝言の件といい、この件といい、ありふれた日常に、なんだか不気味な不協和音が混じり込んできているみたいだ。

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その夜、和室で寝ていると、体を揺すられるので、目を覚ました。

ふと横を見ると、暗闇の中、妻が怯えた顔をしてじっと見ている。

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どうした?と聞くと、

洗面所の辺りで何か音がするみたい、と言う。

浴室と洗面所は、玄関上がってすぐにある。

耳を澄ましてみる。

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シャーーーー……

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微かに水道の水の流れる音が聞こえてくる。

蛇口を閉め忘れたのかな?

しょうがなく私は立ち上がると、居間を横切り、

暗い廊下を歩き、洗面所を覗く。

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ジャーーーー……

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やはり、蛇口から水が出っぱなしになっていた。

ついでに手を洗い、蛇口をひねり、水を止める。

そして暗闇の中、鏡で何となく顔を見たときだ。

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ピト……ピト……ピト……ピト……

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背後から、何か水滴が落ちているような音が聞こえてくる。

何だろう、と咄嗟に振り向いた途端、背中にゾクリと冷たいものが走った。

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浴室ドアの前に置いてある脱衣かごの横に、

紺色の着物姿の痩せた男が立っている。

目は落ち窪み、頬が痩け、着物の襟元から覗く胸は、肋骨がくっきり浮き出ている。

しかも、口元から下にはベットリと赤黒い血の帯が出来ていて、それは下半身の辺りまで続き、着物の裾から滴り落ちているのだ。

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「……ヒッ……」

思わず、後ろに下がると、

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落ち窪んだ眼底の奥にある血走った二つの目で

「チエ……」

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と、低く濁った声を出して、

暗闇の中に溶け込んでいった。

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布団に戻ったとき、妻から音のことを聞かれたが、

蛇口を閉め忘れていたみたいだ、と言って、

男のことは言わなかった。 

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次の日曜日。

私は朝から居間のソファでテレビを見ていて、

妻はやり残していた台所の掃除をしていた。

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昼前くらいのことだ。

ソファの上でウトウトしていると、

なぜか、傍らに妻が立っている。

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「どうした?」

と聞くと、

「こんなのあったんだけど」

と言って、

濃い緑色のプラスチック製のボトルを見せる。

よく見ると、汚れたラベルに、

「パラコート」と書いてある。

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パラコートというと、かつて自殺や他殺などに使われ、社会問題化した危険薬剤だ。

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妻が言うには、流し台の上に元々あった開きの中を片付けていたら、奥の方にあったらしく、

そしてその横には、ノートの切れ端が一枚あったそうだ。

それには、薄く弱々しい文字で次のように書いてあった。

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パラコート(Paraquat)

非選択型除草剤。

12ml(半数致死)

45ml(確実死)

三月より0・1mlを測り、

朝のトマトジュースに入れること。

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午後から妻と一緒に、近所に引っ越しの挨拶回りに行くことにした。

お菓子を持って数件回り、一番最後に、隣の家に行く。

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呼び鈴を鳴らして妻と二人玄関ポーチで待っていると、ガラガラと扉が開き、真っ赤なガウンに濃い化粧をした水商売風の年増女が現れ、ちょっと度肝を抜かれる。

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型通りの挨拶をし、手土産を渡した後、私は尋ねた。

「僕らの前に隣で暮らしていた人たちは、どんな人だったんですか?」

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女はアゴに手を当ててしばらく考え、話しだした。

「わたしねえ、商売柄、あんまり近所の人に会うことないのよねえ。

ここに越してきて、今年で十五年くらいにはなるんだけど、

お隣さんねえ……。

あんたたちが越してくるまで、ここ数年間は空き家だったんだけど、

その前は……

ええっと、……。

ああ!そういえば、ひょろりと痩せた爺さんが暮らしていたわ。

元大学教授とかで、いつも渋い着物姿でねえ。

それも、結構若い女と二人で」

「若い女?」

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「そう。最初は、お孫さんか何かと一緒に暮らしているのか、と思ったんだけど、何か様子が変なのよ。

というのはね、わたしね、二人が仲良く腕を組んで歩いているところを何度か目撃したことがあったの。

気持ち悪いでしょー。

本当、最近の若い女は何考えてるのか分からりゃしない!

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二、三年の間は、二人で仲良く一緒にいるところをたまに見かけていたわ。

でもね、爺さんが何だか病気になったみたいで、

それからはほとんど見かけなくなったんだけど、

久しぶりに見たときは車椅子に乗っていて、

もう本当、骨と皮みたいになってて、びっくりしたわ。

そして、とうとうある頃から、爺さんも女も姿を見かけなくなったと思っていたら、いつの間にか空き家になったのよ」

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家に帰り、居間のテーブルに座るなり、妻が言いだした。

「この家。絶対に何かいるわよ!

だから、わたし、初めから言ってたじゃない。

ねぇ、ここ、出ましょうよ!」

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「バカ言うな。もう、契約も終わって、金も払ったんだぞ」

そう言って、私は妻の前に座る。

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「もう、わたし、耐えられない!」

妻は苦しそうに頭を抱えた。

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確かに、妻の気持ちも分かる。

私も、同じような気持ちなのだ。

だからといって、今さらこの家を出るわけにはいかない。

いったい、どうしたらいいのだろう?

私は困り果ててしまった。

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夜、妻と二人で夕食を食べ、いつもの和室で寝た。

暗い天井を睨みながら、私は考えていた。

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私たちが住むずっと前、ここには元大学教授の年老いた男性が、若い女と暮らしていたそうだ。

この二人は近親者同士ではなく、恋人同士だったらしい。

そして、台所にあったパラコート。

そんな危険な薬剤がどうして、台所の開きの中とかにあったのだろうか?

しかも一緒にあったノートの切れ端と、

そこに書いていた恐ろしい内容。

あれは、何を意味するのだろう。

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様々な事実の羅列が脳内をぐるぐると回りだし、

いつの間にか、私は深い微睡みの中に入っていった。

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shake

トン……トン……トン……トン……

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shake

トン……トン……トン……トン……

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頭の下の方から聞こえてくる、木をノックするような音で、私は眠りから醒まされた。

妻も同じみたいで、こちらに顔を向けている。

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「ねえ、何か聞こえない?」

暗闇の中、妻が不安げに、私の顔を見る。

「ああ……」

私は思い切って立ち上がると、電気のヒモを引っ張った。

途端に、部屋の中がパッと明るくなる。

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布団を二つ横に片付けて、畳部分を露出させ、

一枚畳を外すと、羽目板が現れた。

板を外し、木枠に囲まれた中を覗き込む。

かび臭い匂いが鼻をつく。

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ん?何だ、あれは?

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五十センチほど下の土の上に、大昔のミイラのようなビニールテープでぐるぐる巻かれた大きなものが転がっていた。

ゆっくりと地面まで降り、近づいて見て、

それが何か分かった途端、私の心臓は早鐘のように打ち始め、猛烈な吐き気を催した。

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それは……

全裸の年老いた男性の変わり果てた姿だった。

その顔は苦しげに大きく口を開けており、

体全体がミイラのように痩せて筋が浮き、赤黒く変色していた。

そして、その傍らには、宛名のない一通の封筒が置いてある。

中を見ると、一枚の便箋が入っており、

小さな丸い字で、次のように書かれていた。

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皆様方には、本当にご迷惑をお掛けいたしました。

特に奥様や息子さん、娘さんの御心労は大変なものだったものとご推察するにつけ、心がとても痛み、生きた心地がしておりませんでした。

ですが、やはり、わたくしの先生への尊敬と愛情の念は募るばかりでございまして、現世でこうなってしまったからにはもう、来世で結ばれるしかない、と確信し、時期は擦れましたが、共に旅立つことに致しました。

わたくしの最後のわがままをお許しください。

……二月某日。

智恵

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智恵の遺体は、二階和室の奥にある古い行李の中で、足を折り曲げた状態で見つかった。

足元には、空っぽの睡眠薬の瓶が転がっていた。

Concrete
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