長編6
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喜苦同量

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苦しい……。

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猛烈に咳き込みながら目が覚めた。

体中のありとあらゆる器官が水浸しになっているようだ。

水が何度も体の中心を逆流し、

四つん這いで激しく嘔吐を繰り返す。

咽の奥がヤスリで擦られているみたいだ。

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着ている服には冷たい水が染み込んできている。

あちこちに穴の空いた粗末な服だ。

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立ち上がってみる。

水の重みで体がずっしり重い。

体からポタポタと水滴が落ちていく。

意外に浅いようだ。

深さは股下辺りくらいか。

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生暖かい風が濡れた額を掠めていく。

辺りを見回すと、どこまでも濃い青が荒涼と広がっていた。

彼方の方に瞳を向けてみる。

水平線の辺りは霞んでおり、その上方は、

まるで水面に垂らした墨汁のように、雲が空に滲んでいる。

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ゆらゆら揺れる陽炎のような人影が、あちこちで蠢いている。

人がいるようだ。

皆、しっかりとした足取りではなく、ヨロヨロとふらついていていて、危なっかしい。

前のめりに倒れる者もいれば、

四つん這いで進んでいる者もいる。

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目を凝らしてみた。

ある者は顔の半分が腐りかけており、

ある者は両腕がない。

下半身がなく、這い回る者もいる。

不自然に首が伸びた幼い子の手を握りながら、懸命に歩いている者もいる。

若い者もいれば、腰の曲がった老婆もいる。

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だだ、ほとんどの者たちは疲れ切った諦めきった表情で、ひたすら歩いている。

いや、彷徨っている、と言った方が正しいかもしれない。

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ふと、水面に視線を移して、ドキリとする。

そこには頭の半分が歪に凹み、中から白い豆腐のようなものが覘く男の姿が映っていた。

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「こ……これは、私なのか?」

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変わり果てた自らの容姿に、愕然とする。

ときどき頭がズキリズキリと痛む。

その都度、鮮明なあるイメージがパッ、パッと、

脳裏をフラッシュバックしていく。

それはしばらく続くと繋がっていき、

やがて情景は固定化していった。

……

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冷たい風が、顔にあたっている。

とても強くて、立っているのも難しいくらいだ。

正面に目をやる。

遠く彼方の方に、連なる山の稜線が見えている。

その手前には、まるでパノラマのような街の風景が広がっていた。

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足元を見てみる。

並んだ靴のつま先の遙か下の方に微かに、

植え込みや屋根、車のボンネットが見え隠れしている。

どうやら足がすくんでしまいそうなくらいに、高いところに立っているようだ。

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すると突然、足元は支えを失った。

猛スピードで灰色のアスファルトと植え込みが上下に揺れながら近づいてくる。後は……

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後は……

……

……

分からない。

とにかく今は、ここにいる。

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これは夢なんだろうか?

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バシャッ

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横の方から水の弾く音が聞こえたので見ると、

白髪の老人が倒れている。

私は近づき、老人の細い腕を掴むと、肩に回して立ち上がらせた。

老人は苦しげに咳き込んでいる。

白い着物の前をはだけており、骨と皮だけの上半身を露わにしていた。

首筋に青黒い筋がある。

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「大丈夫ですか?」

ゲッソリ頬のこけた横顔に尋ねてみる。

「あんた……あんたは、……いつから、ここにいる?」

振り絞るようにしながら声を出している。

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「私ですか?私はたった今です。

たった今目覚めたら、ここにいたんです。

あなたは、いつからいるんですか?」

「わしか?

わしは……

どうだろう……。

もうかなりの間いると思う」

老人はどこか遠くを見つめながら呟いた。

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「何をされていたんですか?」

「歩いていた。うん、ただ、歩いていた」

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「歩いていた?

いったい何の目的で?」

老人は落ち窪んだ目を精いっぱい大きく開けて、

ひどく驚いた表情をしながら言った。

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「あんた……あんたはまだ、『あれ』を見ていないのか?」

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「『あれ』って?」

私が聞き返すと、老人は私の腕を邪険に振りほどき、逃げるように一人でどんどん歩き始めた。

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しばらく歩いていると、後ろから声が聞こえる。

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「あの、すいません」

振り返ると、女が立っていた。

まだ幼い女の子の手を握っている。

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髪の毛が一本もなく、顔は真っ黒に焦げており、

黒いワンピースを着ているが、腰辺りから焼け焦げて無くなっている。

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女はなぜか宙を仰ぎながら、私に尋ねた。

「この子は、……この子は大丈夫ですか?」

どうやら目が見えないようだ。

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女の子は白いブラウスに紺のスカートを穿いているのだが、左腕がなく、上半身の左半分が黒こげになっている。

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私がどう答えようか、と戸惑っていたときだ。

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shake

ゴゴゴゴ……ゴゴゴゴゴ!

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突如、地響きが起こりだした。

さながら直下型地震のようであり、立っていることさえできず、私は思わず水の中に尻もちをついた。

周りで歩く者たちもしゃがんだり、倒れたりしながら、ただ慌てふためいている。

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やがて、あちこちで水面が一気に盛り上がりだし、真っ黒い小山のような異形の者が現れ始めた。

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背丈は十㍍はあるだろうか。

黒い体毛を生やした体は筋骨隆々としていて、

皆一様に、赤い袈裟を身に纏っていた。

髪は汚らしく伸び放題で、目は細く目蓋は垂れ下がっており、見るからに愚鈍な顔つきをしている。

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そいつらは一斉に近くにいる人間たちを無造作に捕らえると、貪るように喰いだした。

後ろにいた母子も捕まっていた。

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shake

バリッ!……ガリガリ、ジュルッ、ジュルジュル……

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女の子は頭を、母親は腕を、食い千切られている。

辺りの水は、あっという間に血で赤く濁りだした。

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ぎぃやぁああああ!……

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あちらこちらから哀れな悲鳴が聞こえてくる。

その様は、さながら地獄絵だった。 

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前のめりになり、倒れこみながら、

私は必死に逃げた。

幸か不幸か、怪物たちは行動も愚鈍なようで、

自らの周辺にいる人間だけを襲うだけのようだ。

あちらこちらで座り込み、口の周りを真っ赤にしながら、バリバリと人間を無心に食べている。

そして、ある程度満腹になると、また水中に消えていった。

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私は無心に歩き続けていた。

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やがてまた、水辺には穏やかさが戻ってきた。

濃い青が彼方まで広がっている。

空には、灰色の雲がゆっくり動いていた。

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ふと前を見ると、

裸の男が水の中でアグラをかいている。

痩せてはいるがしっかりとした体つきをしていた。聡明な顔つきをしており、

穏やかに目を閉じていた。

額の真ん中にはホクロのような突起がある。

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私は立ち止まり何となく、その男に声をかけた。

「そんなところに座って何をしているのですか?」

男は聞こえているのか、いないのか、静かに微笑んでいる。

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私はさらに尋ねた。

「怖くはないのですか?」

「何が怖いというのだ?」

男は目を閉じたまま、口を開いた。

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「いや、あの怪物たちが」

「別に……」

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「どうしてですか?」

「あの餓鬼どもが私を襲うことはないからだ」

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「なぜ、そう思うのですか?」

「それでは聞くが、なぜ、お前はここにいるのだ?」

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「分かりません。目覚めたら、ここにいたんです」

「分からないことはないであろう。

お前は前の世で、自らの命を自ら絶ったのではないのか?」

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いきなり事実を突きつけられ、私は思わず

「は、……はい」

と、返事をする。

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「ここにおる者たちも皆、お前と同じように、

自らで自らの命を絶った者たちだ」

「……」

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「貧しさに耐えられず、首を吊った老人。

職を失い、希望も失い、電車に飛び込んだ者。

子を道連れにして、焼身自殺をした母親。

そして、お前は失恋の傷心で、ビルの屋上から飛び降りた」

「……」

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「事理はいつも極く単純だ。

一人の人間の生きている間の喜びと苦しみの割合は常に等しい。

これは宇宙の法則だ。

この法則を自らの手で破る者たちは、喜びと苦しみの量が等しくなるまで、この世界で苦しまないといけないのだ」

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「それでは今から私には、苦しみが襲ってくるのでしょうか?」

男は静かに頷いた。

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「それはいつまで続くのですか?」

男は微かに微笑むと、答えた。

「お前が前の世で味わった喜びの量と等しくなるまでだ」

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その途端、男は眩しいくらいに金色に輝きだすと、

みるみるうちに空に吸い込まれていった。

・ 

私の心はなぜか、目の前の水辺のように穏やかになった。

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