中編5
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おでん

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コン……コン………

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玄関から音が聞こえる。

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まだまだ肌寒い三月の日曜日。

俺は麻美と二人、遅い晩御飯を食べていた。

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市内の古いアパートから、郊外のこの市営団地に越してきて、ちょうど一年が経とうとしていた。

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アパートを引き払った原因は他でもない、

火事だった。

当時隣に住んでいた少し頭のおかしい中年の女性が昼間、ガス自殺を図り、火が引火して爆発を起こしたらしく、木造だった建物は激しく燃え、

夜、仕事から帰ってきたときには、アパートは跡形もなくなっていて、警察の人が住人たちと話をしていた。

焼け跡からは、判別できないくらい真っ黒に焼け焦げた隣の女性の死体が発見されたそうだ。

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shake

コン、………コン、コン………

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誰かがドアをノックしている。

遠慮がちに弱めに叩いているようだ。

前に座るピンクのスエット姿の麻美が、少し不安げに俺の顔を見上げる。

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「今ごろ、誰だろうね?

弘志、ちょっと見てきてよ」

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午後十時五分。

アポなしで訪ねるには、非常識な時間だ。

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俺は立ち上がると廊下を歩き、殺風景な金属のドアに向かって、

「どなたですか?」

と、言った。

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一呼吸おいて、聴き取りにくい女の低い声が聞こえてきた。

「…………あの…………お荷物なんですが…………」

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荷物?宅配業者か?

鍵を開け、チェーンを掛けたまま、細めに開けた隙間から覗く。

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ドアの前には誰もおらず、ただ、小さな箱が一つ、渡り廊下の真ん中にちょこんと置かれている。

チェーンを外しドアを開け、左右を見渡してみた。一瞬だが、右側の薄暗い廊下を真っ直ぐ歩く、女の黒い後ろ姿が見えたので、

「あの……」と声をかけたが、すぐに闇に溶け込んで見えなくなった。

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俺はしょうがないので、床に置かれた箱を持ち、リビングに戻った。

テーブルに座ると、さっそく麻美が尋ねる。

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「何だったの?」

「荷物だよ」

そう言って、テーブルの上に小さな箱を置く。

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「荷物?こんな時間に?」

「うん。誰からだろう?」

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改めて箱を見た。

縦横三十㌢くらいのサイコロみたいな箱だ。

段ボールなのだが、あちこち汚れて傷んでいる。

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だいたいこれは荷物なんだろうか?

というのは、荷札が貼られていないのだ。

でも、さっきの女は間違いなく「お荷物」と言っていた。

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「弘志、これ、荷札も貼ってないじゃない。

何か気味が悪いわね」

麻美が恐々と箱を見ながら呟く。

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俺は好奇心もあり、箱に貼られたガムテープを丁寧に剥がして開いてみた。

微かだが、ツンとする酸い臭いがする。

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中には小洒落た陶器の鍋が一つ、入っていた。

取り出してみる。

ちょっと重い。

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「何なの、これ?」

いつの間にか麻美も隣に座っている。

恐々と蓋を持ち上げてみた。

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「う!……」

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途端に、強烈な腐敗臭が鼻腔を直撃し、

思わず、麻美も俺も鼻と口を抑えた。

俺は耐えきれず、激しく咳き込んだ。

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鍋の半分くらいまで琥珀色の液体が入っており、

何か四角や三角の固形状のものが浸かっている。

液体は寒天のようにゲル化しており、ビッシリと青白いかびが浮かんでいた。

固形物は、どうやら揚げ豆腐やコンニャク、玉子のようなのだが、黒く固くなって浮んでいる。

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「これ、もしかして、おでんじゃないの」

麻美が鼻をつまみながら、言う。

「そのようだな」

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麻美はその鍋を持って急いで台所に行き、

中身を生ゴミ回収ボックスに捨てた。

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「ちょっと、いったい何なの?

もしかして、悪趣味なイタズラ?」

怒りに満ちた麻美の声が聞こえてくる。

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「分からんな」

そう言ってもう一度、箱を見ると、底の方に何か白い紙がある。

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それは、折り畳んだ二枚の便箋だった。

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開いてみると、女性特有の手書きの丸文字がビッシリと並んでいる。

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前略

……

弘志さん、お元気ですか。

あなたがいなくなって、もう一年が経ちました。

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思えば、あれは五年前の粉雪舞う寒い夜のことでした。

当時、道ならぬ恋の迷路を彷徨っていた私は、

あの狭いアパートで一人、仕事にも行かず、食事もまともに摂らず、ただ、部屋の片隅にうずくまっておりました。

あの頃の私は、正に生ける屍みたいでした。

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そんな時でした。

隣に住むあなたが玄関の呼び鈴を鳴らしたのは。

這うようにドアのところまで行き、チェーンを掛けたまま、細めにドアを開くと、

そこには、鍋を持ってニッコリと微笑む優しげなあなたが立っていました。

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「作りすぎたのでよろしかったら、食べてください」

そう言って、そっとあなたは私に鍋を渡しましたね。

その瞬間、私の心には温かい空気が吹き込み、凍り付いた部分が溶けていったのです。

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その日から来る日も来る日も、考えるのは、あなたのことばかり……。

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朝、あなたが仕事に出かけた後は、玄関前を掃いてあげたり、ドアをピカピカに吹いてあげたり、

夜、眠れないときとかは、部屋を真っ暗にして壁に耳をあてて、微かに聞こえてくるあなたの寝息を聞くと、グッスリ安らかに眠れました。

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また、これは本当にいけないこととは思っていたのですが、

あなたのいない昼間の時間に、あなたの部屋にそっと忍び込み、

「もう弘志さん、本当にだらしないんだから」

と、新妻のような気分で苦笑しながら、

散らかっていた部屋をきれいに片付けたりとか、

しておりました。

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内気な私にとって、それくらいしか、あなたにしてあげることがなくて、つい……。

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ごめんなさいね。

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そして忘れもしない、一年前の桜散る四月半ばのこと。

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私は勇気を振り絞って夜、あなたの部屋のドアをノックしました。

愛情を込めて丁寧に作ったおでんを食べてもらおう、と思って。

でもその日からあなたは、アパートには帰ってきませんでした。

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こんなにも思い、尽くしてきたのに、この仕打ち。

あまりに酷すぎます。

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私はあなたを必死に探しました。

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そしてやっと一週間前、あなたの住む団地を見つけたのです。

久しぶりに見たあなたは、あの頃とほとんど変わってなくて、本当に嬉しかった。

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ただ、一つだけ変わったことは、下らないメス豚と一緒にいたことくらいです。

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弘志さんは騙されている!

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私は、そう直感しました。

今日本当は、おでんとともに、あなたへの思いを打ち明けたかったのですが、あの下らないメス豚と一緒のようなので、止めました。

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弘志さん、早く目を覚ましてください。

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そして、本当にあなたに必要な女性が誰なのか、に気づいてください。

いづれまた、今度はちゃんとお訪ねしよう、と思います。

その日まで、お体には十分にお気をつけてお過ごしください。

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それでは、また。

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追伸

……

あのメス豚は、私の方で排除しておきますので、

どうか、ご安心くださるよう願います。

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