中編5
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これは昔のバイト仲間Bから、その当時に聞かされた話です。

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大学中退を機に、その春Bはアパートを変えたのですが、新しい部屋の家賃というのが少し、不気味でないが不思議には思うぐらいに少し、安かったそうです。

1Kのその部屋は、玄関を上がってすぐにキッチンがあり、横手にユニットバス、奥に引き戸で仕切られた八畳ほどの居間があるという、割とよくあるような間取りだったと記憶しています。

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引っ越して一か月ほどは何事もなく、あるいは気づくことなくBは過ごしていたのですが、ある晩のこと。

ひとりの夕食を終え、キッチンの流しで洗い物をしていたとき、視界の端で何かが動いた気がして、Bはほとんど無意識にそちらへ目を遣りました。

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すると、玄関ドアにひとつ影が投影されていて、それがぶらん、ぶらんと揺れていたのでした。

不審に思って、その輪郭を視線でなぞってみて、Bは全身を粟立たせました。

それは、どうやらひとのかたちをしているようでした。

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角度から考えて、どうやら開けたままの居間の明かりによって生まれた影のようなのですが、それはつまり、キッチンと居間の間に、ひとのかたちをした何かがある、ということでした。

それが、ぶらぶら宙に揺れている、ということでした。

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もちろんそれはB自身の影ではなく、部屋にはBしかいないはずでした。

思わず振り返ろうとしたのですが、「これは、ろくでもないものを見てしまうやつだ」と直感したBは、すんでのところで自分を制すると、そっと蛇口を閉めて、目を伏せ、そのまま部屋を出ました。

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部屋の鍵も財布も携帯も置いてきてしまいましたが、まだ戻る気には到底なれなかったので、近所の友達の家に転がり込んで、その夜を明かしたそうです。

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翌朝、一度寝て頭が冷えると、あれは見間違いだったんだという気分が強くなっていて、むしろ泥棒に入られていないかの心配のほうが勝っていました。

Bは急いで部屋に戻って、鍵の開いた玄関を開け、果たしてそこには、何もぶら下がってなどいませんでした。

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誰かが上がり込んだ形跡もなく、安堵しながら靴を脱いで、それでも携帯と財布はちゃんと確かめておこうと、居間への敷居をまたぐ瞬間、Bの肩に、何かがぶつかる感触が走りました。

見えない何かがそこにあったらしいのですが、驚いたBが確かめ直してみても、Bの手は空を切るばかりでした。

ただ、ぶつかった瞬間、「あ、女性の身体だ」と、何故か分かったのだとか。

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その後、Bは引っ越すということも、その部屋のいわくを調べてみるということも、特にしていませんでした。

月に一度あるかないかという頻度で、肩に何かがぶつかるだけで実害はないし、何だか、かわいそうな存在、という感覚があったようです。

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そして、ここからはその後日談、というより、ここからが本題というか、私の印象に残っていることなのですが、私とBがバイトしていたバーに、ある晩、ひとりの男性が訪ねてきました。

落ち着かない様子で、とりあえずビール、と社交辞令のように注文をすると、唐突に男性はBの名前を出しました。彼を呼んでほしい、と。

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前述の体験について、Bはバーの常連さんなどに頼まれもしないのに吹聴したりしていて、それをどこかで聞いて訪ねてこられたということでした。

Bを取り次ぐと、男性はBの住所を、部屋番号まで正確に言い当ててみせた上で、

「あなたが部屋に戻った時、本当に、何も、見ませんでしたか?」

かすかに震えた声で、そう訊ねました。

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Bが戸惑いながらも、何も見ていないと返事をすると、男性ははたと冷静を取り戻した様子で、ビールをあおり、代金を置いて席を立とうとされました。

それを、私は単なる好奇心から、Bは恐らく不安から、それぞれに引き留めて、詳しい話を求めました。

男性は、はじめのうちは口を固く結んでおられましたが、やがて訥々と語りはじめたのは、このような話でした。

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おおよそ、その十年ほど前、男性は、いまBが住んでいる部屋に引っ越したばかりでした。

まだ空いていない段ボールのほうが多い部屋で、夕食にデリバリーのピザだかカレーだかを食べて、食後にコーヒーを入れようとキッチンに立った時、彼もBと同じ影を見たそうです。

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そして彼も同じく、振り向けずに部屋を出て、しかし、その街に越してきたばかりだった彼は、頼れる友人が近所にいなかったため、コンビニでひたすら立ち読みして朝を待ちました。

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やがて空が白んできて、男性はようやく部屋へ帰る気になれました。

そして、そこに女性が首を吊っていたのだそうです。

男性は、少しだけ見上げる高さにいまはあるその顔を確かめて、ひたすらやるせない気分で、警察を呼びました。

カーテンの隙間から射す朝日が、昨晩見たのと同じ影を落としていました。

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もちろん、男性は警察に疑われましたが、死亡推定時刻の前後数時間、ずっとコンビニのカメラに写っていたことや、女性が部屋に持ち込んだと思われる、ロープや包丁やのこぎりなど、「あらゆる場面を想定した」かのような道具の一切を、女性がホームセンターで購入していたことなどが判明して、すぐに疑いは晴れました。

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その女性は、男性にずっとつきまとっていた人だったそうで、それから逃れたくて男性も住居を変えたそうなのですが、どうやってか女性は部屋を突き止めて、色々と用意をして、そこを訪ねて、なぜか鍵は開いていて、男性はいなくて、

そして、どういう理由でかは、もはやその女性にしか分かりませんが、彼女はそこで首を吊ることにしたのでした。

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「まだ、あそこにいるのかと思うと、なんか、ね」

そう語り終えると、男性は、溜息というにはひどくか細い息を吐いて、

「彼女の僕への執着が、僕にあの影の幻を見せたのだとしたら、・・・それが僕を救ったというのは、ひどい皮肉だと思いませんか?」

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うつろな目で苦笑いを向けられて、私とBは、ただ「ハァ」と間抜けな返事をするしかありませんでした。

それからすぐにBが部屋を変えたのは、言うまでもないことと存じます。

Concrete
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