中編6
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縁起の良い木

男は、独り身だった。

60歳を過ぎた頃から身体が不自由になり、

70歳を前にして、自力ではほとんど外出することが出来なかった。

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しかし、週に3回は若いホームヘルパーが訪問介護に来るので、

細々とだが、それなりに悠々と暮らせている。

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そんな男だが、もちろん家族はいる。

いや、「いた」と言った方が正しいか…。

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妻は男が50歳の時、45歳の若さで亡くなった。

自殺だった。

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家族を顧みず、

愛人や酒、ギャンブルにうつつを抜かし、

さらには家庭内暴力にまで及んだ男との結婚生活に、

耐えきれなくなっての結末だった。

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一人娘もいたが、

母親の自殺の原因が

父であると悟り、

母の四十九日を過ぎたある日、

突然家を出ていった。

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しかし、家庭崩壊の悲劇も、

男にとっては好都合であり、

より一層、酒と女とギャンブルにのめり込むようになっていった。

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そんな不摂生な日々が祟り、

身体を悪くしてしまい、

今のような生活に陥ることになってしまったのだが…。

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いつものように自宅でテレビを観ながら

ベッドに横たわっていたある日、

不意にインターホンが鳴った。

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不自由な身体を引きずり、玄関へ行くと、

一人の女性が立っていた。

年の頃は40歳を過ぎたあたりだろうか…。

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しかしそこに、かすかな面影を感じた。

娘だった。

20年振りの再会だった。

娘は言った。

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「お母さんを失ったあと、あなたを怨み、

家を出ていった私は、

見ず知らずの街で、懸命に生きてきました。

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どうにか仕事を見つけ、

心の傷が癒えた頃、

運命的な出会いをし、

結婚をしました。

子どもも一人います」

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親の助けを受けず、逞しく生き、

孫まで産んでいた一人娘…。

普通の親なら、

涙を流して再会を喜ぶ場面だ。

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だが男は、再会の喜びを微塵も見せず、

懐疑的な目を向けて言い放った。

「私に怨みでも晴らしに来たのかっ!!」

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娘はそんな反応も想定していたのか、

不機嫌な表情ひとつ見せず、

こう言った。

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「もちろん、あなたを怨み、呪った時期もありました。

しかし、私も成長し、人並みの幸せを手に入れ、

大人になりました。

そんな時の流れとともに

恨みの念は薄れていきました」

娘は優しげな笑みを浮かべている。

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「あるとき、年老いたあなたが、

不自由な身体で老後を過ごしているとの

噂を耳にしました。

ちょうどその時、夫の転勤で

偶然にも、近くに住むことになりました。

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そんなきっかけでもなければ、

このように実家に再び足を踏み入れることも

なかったかもしれませんが…」

そう語る娘の表情には、

家を出ていった頃の娘の面影と、

亡くした妻の面影とが浮かんでいる。

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娘はさらに続けた。

「全てを水に流して、一人の娘として

親孝行をさせてください。

迷惑を承知で、これからは毎日私がお世話をしに来ます」

娘の目からは強い意思が感じられた。

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しかし男は、

娘の好意をすぐに受け入れる気にはなれなかった。

妻を自殺に追いやったばかりか、

娘には虐待同然のことをしていたと

自覚していたからだ。

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相当深く恨まれていることはわかっていたからこそ、

この娘の変わり様に、

なにか裏があるに違いない、と

疑ったからだ。

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しかし、娘はその言葉通り、

毎日毎日家に足を運んでは、

嫌な顔色ひとつせず、

献身的に男の身の回りの世話をこなしていた。

そんな娘の姿に、

いつしか懐疑的な気持ちも薄れていった。

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ホームヘルパーを断ったことで、

金銭的な不安もやわらいだことも、

男をより一層安心させた。

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「家族の絆というものは、

どんな怨みよりも

勝るものなんだなぁ」

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男は、この歳になって初めて、

家族の「ありがたみ」「大切さ」「愛」を

実感したのだった。

男の目には、知らず知らずのうちに

涙が溢れていた。

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そんな男に、さらなる喜びの出来事が待っていた。

ある日、娘が男に

とあるプレゼントを贈ったのだ。

それは、長寿の願いが込められたエンジュの木だった。

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エンジュは本来の漢字とは別に、

その読みに当て字をした「延寿」と表記されることが多い。

読んで字のごとく、寿命が延びる「縁起の良い木」として、

昔から重宝されてきた。

ピカピカに磨き上げられ、仏間の床柱に使われることで知られる。

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エンジュは、ベランダから見える庭の一角に植えられた。

わざわざお金をかけて、

長寿を望んで縁起を担いでくれた娘の優しさに、

男は心の底から感謝したのだった。

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しかし、エンジュが植えられた、その日を境に、

男の幸福な余生が一変することとなった。

あれほど毎日献身的に世話をしてくれた娘が、

全く姿を現さなくなったのだ。

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献身的な介護にすっかり慣れきっていた男は、

気付けば、自力で起き上がることすら困難な

体力低下に陥っていた。

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家の異変を感じた男は、

娘に連絡を取ろうと、

なんとか自力でベッドから這い出した。

そして、電話にたどり着き、受話器を手にした。

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が、何かがおかしい。

よく見ると、電話線が刃物で切断されていた。

さらに、家の中を見渡すと、

いつの間にか電気、ガス、水道の供給も止まっているようだった。

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「どういうことだ?

とにかく、家の外へ出て、

助けを呼ばなければ…」

ベランダから出ようとしたが、

全く開けることができない。

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ロックを解除しようにも、

男の手の届かない高さにあり、

窓を割ろうにも、

強化ガラスと強化プラスチックで出来た窓を破ることは、

今の非力な男の力では到底無理だ。

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娘の助言により、

防犯と断熱効率を考え、

家中の窓は全部、

丈夫な二重サッシと、

頑丈なロックに取り替えていたことを思い出した。

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季節は夏。

ここは一日の寒暖の差が激しい

北海道の内陸の町だ。

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男は、ベッドに這い上がることもできず、

カーペットの上に寝転んだまま、

日に日に弱り果てていった。

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食事も取れず、

日中は熱中症、

夜は凍える寒さと戦った。

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トイレに行くこともできず、

汗と糞尿にまみれた身体には、

四六時中、ハエがまとわりついてくる。

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「孤独死」という言葉が、

頭に浮かんで離れない。

そんな生き地獄のような日々は、

一週間ほど続いた。

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朦朧とする意識の中、

男は、娘が企てた

おぞましく恐ろしい計画の全てを理解した。

たが、不思議と怒りは感じなかった。

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「エンジュの木も、

縁起担ぎの「延」と「寿」ではなく、

私と娘との関係では、

「怨」と「呪」であったのだろう…」

それは、娘からのメッセージだったのだ。

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しかし、男には

娘を恨む感情は、一かけらも存在しなかった。

たとえ、無様な死を強いられようとも、

たった一瞬でも「家族の愛」を感じさせてくれた娘に

心から感謝していたからだ。

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人生最期の涙が一滴、男の頬を濡らした。

その時だった。

・・

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ベランダの窓が、すーっと開いた。

心地よい夏の風が、

男の身体を包み込んだ。

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男は最期の力を振り絞って、

ベランダの方へ目をやった。

・・・

娘が立っていた。

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手には妻の遺影と位牌を抱えている。

娘の表情…

・・・

それは、

複雑な感情を全て圧し殺すため、

心を鬼にしたのであろう…

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まさしく「鬼の形相」のような泣き顔だった。

・・

エンジュに寄り添い、

鬼の形相で涙を浮かべる娘の姿…。

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その光景を見て、

男は思い出した。

「あぁ、

そうだったな、

・・

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本来は一文字で

『槐』

って書くんだったな…」

・・

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男は、穏やかな笑みを浮かべたまま、

娘の目の前で、静かに息を引き取った。

・・・

・・

Concrete
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