中編4
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嫌な音だった。

悲痛な叫びとともに鈍く、決して大きな音ではないが、確実に鼓膜に届くその音。

寧ろその音に耳をそばだて、記憶の中で幾度も反芻し、想像する。

青年の目の前に佇む恐怖の象徴は、視覚に訴えかける凄惨な景色と、紛れもなくそこから発せられる異臭、そして最後に聴こえたあの音。すべてが一体となりそこにあった。

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大学の美術室は西陽が差し込み、集中するには少し眩しすぎる。

青年は何をするでもなく、一つの絵を見つめ続けていた。

キャンバスの中心に赤黒い点が付着しているだけの、凡そ絵とは言い難いその代物から目が離せない。

青年の背後のドアが開き、老婆が美術室へ入って来る。

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「あなた、先ずは自分の絵を仕上げなさい。あと一月もすれば、その絵を一気に完成させる予定なの。それまでにあなたは少しでも美しいものを描きなさい」

「先生、結論として今は難しいです。なぜなら僕は今スランプに陥っています。頭の整理がつかないので、何かヒントがないか思案中なのです」

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素直に返答する青年は、四角い黒縁の眼鏡の位置を直しながら老婆に向き直る。

白髪を短く整えた髪型、控えめな色合いのレンズの眼鏡、背筋が伸び凛とした雰囲気の老婆は、眉をひそめ再び口を開く。

「美しくない。潔さを養いなさい。あなたの論理的なところは素敵だけれども、それは時として行動を妨げるわ。この絵はね、そんなあなたの殻を破るための絵になるかも知れないわよ」

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そう話しながら恍惚とした表情を浮かべる老婆に戸惑いを感じながらも、青年はどこかで絵の完成を待ち侘びていた。

ー2日後

静まり返った美術室で青年は一人佇む。微かに鉄の匂いが鼻をつき、青年の嗅覚が目の前の布が掛かったキャンバスに何かがあると訴えかける。しかし青年にその布を取り去る勇気は無く、時間だけが過ぎて行く。

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3日目、4日目、5日目と経つにつれ、日増しに濃くなる鉄の匂い、日増しにキャンバスに掛かる布に広がる赤黒いシミ。1週間が過ぎる頃には、好奇心よりも恐怖心が上回り美術室への足も遠ざかっていた。

平然と授業を行う老婆へはかえって質問がしづらく、青年は日々を適当にやり過ごす。

「ちょっと。あなた? 」

「えっ!? あ、はい? 」

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午後の講義が終わり、足早に帰ろうとする青年の背後から老婆の声がし、彼は心臓が跳ね上がる思いで上ずった声が出る。

「完成したわ。ハアー…… やっとね。案外早く出来たの。そしてもう幾らも時間は無いのよ。すぐに来て頂戴」

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青年は老婆に言われるがまま美術室へ向かう。

鼻をつくあの臭いと禍々しい空気感が蘇り、青年の足取りは重いが、室内に入ると臭いはまったくせず、キャンバスに掛かる布は真新しい白い布となっていた。

「さあ、見て頂戴」

(あの作品では無いのか? )

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戸惑いを隠せずにいる青年の様子を気に留めることなく、老婆は静かにキャンバスに掛かる布を取り払う。

固唾を呑む暇さえなく青年の視界に映るその絵は、赤と黒とが渦巻く様が描かれた油絵の様なものだった。

目を細め、眉間にしわを寄せ、かろうじてその絵に視点を合わせる青年の姿を、目を輝かせ嗤いながら確認をする老婆は青年に尋ねる。

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「どう? 最初は様々な色で繊細な濃淡が表現されていたんだけど、防腐処理をしていたら段々と鮮やかさが失われて行ったの」

(防腐処理? 何故? 臭いがしない……!? )

青年は掠れた声で何とか一言を絞り出す。

「この絵の画材は一体何ですか? 」

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「まあ、焦らず最期まで聴きなさい。この絵はまだ完成していないの。この絵が完成する時、五感すべてに訴えかける美しい体験をすることができるわ。これ以上の言葉はいらない」

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老婆は嗤い続けながら、自らの右腕の袖を巻き上げ、包帯でグルグル巻きにしてある前腕を青年に見せた。

さらにその血で滲んだ包帯をゆっくりと解いて行くと、老婆の右前腕が露わになり、その腕は手首と肘の付近に一本ずつ赤い線が入っている。丁度その切り傷から切断出来そうな程、手首、肘付近には深い線とそこから止め処なく赤い液体が滴り落ちた。

青年は言葉もなく立ち尽くす。どこかでこの先の展開を想像し、恐怖に打ち震える自らを予感すると、その予感に戦慄を覚え身体が硬直する。

老婆はより一層の嗤い顔により凄まじい形相になりながら、右前腕の肘の辺りの切れ目に人差し指と中指を食い込ませた。

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老婆は奇声を発しながら、自らの前腕の肉を引き千切ろうとしていた。しかし非力な老婆がいくら力を込めようとも、彼女の思惑は現実化しない。

「はあ、はあ、あーダメだわ。喰い千切るしかないな…… 」

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何気なく放った一言は、最早青年の知る老婆のそれでは無かった。

老婆は次に自らの右前腕に噛みつき、狂ったように首を振る。歯の食い込む音、肉の切れる音がして、何かが何かから剥がれる様な音。

左腕で口の中の肉を取り出し、その肉をキャンバスに塗りたくる老婆。

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嫌な音だった。

青年はただそれだけを覚えている。

老婆はその後姿を見せず、噂すら立たない。

青年は自らの作品を完成させる、いや自らを作品として完成させる衝動に駆られることに、いつの間にか心地良さすら覚えていた。

誰もいない美術室にあるキャンバスの中央には、赤黒い点が付着し、微かに鉄の匂いが漂っている。

Concrete
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