中編7
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さよちゃん

今、私は、窓の外の青い空と白い雲を追いかけるように飛び交う緑の中で揺れている。

新幹線の中よりは、緩やかな流れではあるが、確実に色濃い夏に向かって、その電車は走り続けた。

その景色は、私を郷愁に誘い、そして、小さな痛みを与える。

こんな時にしか、帰郷しない自分の身勝手さと、一人待つ母への申し訳なさと。

一年前は、忙しさを理由に帰郷しなかった。

たぶん、帰郷しようと思えばできたのかもしれない。

母とは、何かとそりが合わなかった。

父が死んでも、実の母親なのに、その関係は変わらなかった。

父が死んで、ますます母親の傍の居心地が悪くて、私は独立したのだ。

つい最近、私は一つの恋にピリオドを打った。

所詮道ならぬ恋だったし、初めから何も答えは無かった。

彼の奥様に、私たちの関係が知れるところとなり、私は人生で初めて、女性からの本気の罵倒の言葉と屈辱を受けた。会社は居づらくなり辞めた。

このことは、母にはまだ内緒である。

もちろん、不倫のことなど、言えるはずもない。

「おかえり。」

その言葉は、たった一言だったのに、私の心の中にじんわりと広がり、泣きそうになるのを堪え笑顔でただいまと答えた。

母は不器用なのかもしれない。

口には何も出さないが、きっと私の弱った心の内を理解してくれているのだと思う。

黙って、好物の里いも煮を出して来た。

「ああ、やっぱり、母さんの里いも煮が一番おいしいなあ。」

そう言い、口にたくさん頬張ると、もっと食べろと大皿に盛ってきた。

「いくらなんでも、こんなに食べられないよー。」

私がそう笑うと、母は幾分か嬉しそうな顔をした。

その夜、ご近所の方の法事の手伝いに行くと言って、母はでかけた。

「ごめんね、せっかくアンタが帰ってきたってのに。」

「仕方ないよ。ご近所付き合いはこういうところでは大切にしなくちゃね。」

「すぐ帰ってくるよ。」

「いってらっしゃい。」

そんなやりとりをしながら、母の背中を見送る。小さくなったなと思った。

しばらくテレビを見て暇をつぶしていると、誰かが玄関のチャイムを押した。

ここには、インターフォンなんて洒落たものはない。

引き戸の外には、誰かの影が映っていた。どうやら女性らしい。

「はーい、どちら様?」

「私です、小夜です。」

さよ?誰だっけ。私は、一生懸命記憶の糸を手繰る。

「ああ、小夜ちゃん?昔いっしょによく遊んだ!」

「うん。」

「待って、すぐ開けるね!」

そこには、相変わらず、幸が薄そうな、色白で大人しそうな女性が立っていた。

「わあ、さよちゃん、久しぶり!上がって、上がって!」

さよちゃんは、遠慮がちに玄関で靴を脱ぐと、きちんと揃えてから部屋に上がった。

「何年振り?いや、何十年ぶりかなあ?」

さよちゃんとは、小さいころよく遊んでいた記憶がある。

さよちゃんは体が弱かったので、ひたすら中遊びだったけど、よく折り紙や、ままごと、お絵かきをして遊んだものだ。さよちゃんは、手先が器用で、私なんかより、うんと上手く折り紙も折れたし、絵も上手だった。

私は、嬉しくなり、彼女が今、どういう生活をしているのか、どこに居るのかなど、質問攻めにしたが、彼女は多くを語らなかった。だが、まだ独身らしいということだけはわかった。

ひとしきり、昔話が弾んだが、彼女はしばらくすると、ソワソワしはじめた。

「そろそろ帰らないと。」

「え、なんで?まだいいじゃん。お母さん、もうすぐ帰ってくるよ?ご飯食べて行けばいいのに。」

「ううん、いいの。あまり食欲ないから。」

「そう。」

きっとさよちゃんは、今も母を怖がっているのだ。

母は、さよちゃんと遊んだというと、とても機嫌が悪くなる。

何故かさよちゃんを毛嫌いしていたのだ。

理由はよくわからない。

やはり、さよちゃんの家の家庭環境があまりよくなかったからだろうか。

さよちゃんのお父さんは、さよちゃんにすぐ暴力をふるう人だった。

うちとは、正反対の環境のさよちゃん。うちは、父と母が仲が良かったので、そんなさよちゃんをいつも可哀そうに思っていた。

たまに、傷だらけになっていても、さよちゃんは必ず自分で転んだと言うのだ。

子供心にも、その嘘はみえみえで、きっとこれは大人によって傷つけられた傷なのだと私は知っていた。家庭環境は、さよちゃんの所為じゃないのに、母はさよちゃんを毛嫌いした。

そういった母の性質を知っているので、私はたぶん、母の傍に居辛かったのかもしれない。

さよちゃんは、そそくさとお邪魔しました、と言って帰って行った。

それと、入れ違うように母が帰ってきた。

「ねえ、おかあさん、そこでさよちゃんと出会わなかった?」

私がそう母に尋ねると、母は渋い顔をした。

「さよちゃん?いるわけないでしょ?そんなの。」

そんなのとは、随分酷い言い方だ。

「え、おかしいなあ。さっきまでここに居たんだよ?」

それを聞いて、母親の顔はますます青ざめてきた。

「さよちゃんは、随分前に死んだんだよ。」

母がポツリと言った。

「えっ、嘘!そんなの聞いてないよ。いつ死んだの?」

「そんなの、覚えていない。」

母は、なんだかさよちゃんの死について、話をしたがらなかった。

「そんな・・・。じゃあ、さっき訪ねて来たのは誰なの?」

「さよちゃんのことは、もう忘れなさい。」

母のその一言に、さすがの私も堪忍袋の緒が切れた。

「ちょっと、お母さん、酷いよ。そんな言い方。さよちゃんがかわいそう。」

私がそう母を責めると、母は泣きそうな顔で私を見つめた。

「カナ、さよちゃんなんて、初めっからいなかったんだよ。」

「お母さん、何言ってるの?お母さんだって、さよちゃんのこと知ってたじゃない。なんで初めから居ないなんて言うの?」

私がそう責めると、母が涙を浮かべた。

「ねえ、カナ。あんた、何かあったの?辛いことがあったんなら、母さんに話して。」

「話をそらさないでよ。私はさよちゃんのことを言ってるんだよ?」

母は、とうとう嗚咽を漏らし始めた。

「だって、さよちゃんは、あんた自身なんだもの。」

え、何?意味がわかんないよ、お母さん。

「あんたが5歳の時、私がうっかり目を離したすきに、あんたは攫われてしまったの。」

母が何のことを話しているのかわからない。

「私は、あんたを探した。目を離してしまった自分を殺したいって思ったよ。でも、一年後、あんたは見つかったの。100㎞も離れた町で。・・・男の部屋で。」

そう言うと母は、肩を震わせて、大粒の涙を流し始めた。

「嘘だよ、なんでそんな酷い嘘つくの?お母さん。」

「ごめんね。ずっと言えなかった。私は、あんたが見つかった時に、お父さんと一緒に泣いて喜んだ。でもね。」

私の頭の中がキリキリ痛む。もうそれ以上、言わないで。

酒臭い。

汗にまみれた不潔な服の男が目の前をよぎった。

嫌だ、誰?

「その男はろくでなしだった。」

違うよ、お母さん、それはさよちゃんのお父さんだよ。

すぐさよちゃんに暴力を振るって、近所の人に聞かれたら、転んだって言えって言うんだよ。

「逮捕されたけど、この手で殺してやりたかったよ。」

お母さんは勘違いしてる。

「あんたが帰ってきて、異変に気付いたのはしばらくしてからだった。あんたが、誰も居ないのに、部屋の隅で誰かが居るかのように、遊び始めて。」

いやだ、いやだよ、お母さん。私は震えていた。

「さよちゃん、さよちゃんって言いながら、ひとり遊びを始めたの。何かといえば、さよちゃんと遊んだ。さよちゃんに教えてもらったって、わけのわからないことを言い出して。」

違う!さよちゃんは本当に居るんだってば。

「きっと、一年間の幽閉生活で怖い思いをしたんだろうね。私は、すぐにあんたを病院に連れていった。解離性障害だって言われたわ。」

さよちゃんが嫌いだから、そんな酷い嘘をつくんだね。お母さんは最低!

「でも、治療の甲斐あって、しばらく病院に通ううちに、あんたの中からさよちゃんは消えていったの。なんで今更・・・。ねえ、カナ、何があったの?」

「おばさん、酷いよ。いくら私が嫌いだからって、カナちゃんに何でそんな酷い嘘をつくの?」

「カナ・・・?」

ほら、お母さん、さよちゃん居るじゃない。お母さんがあまり酷い嘘をつくから、さよちゃん怒っているよ?

「カナ、しっかりして!」

「おばさん、何言ってるの?私、カナじゃなくて、小夜だよ?」

「ああ、カナ・・・。ごめんなさい。ごめん。」

「お母さん、謝るのは、カナにじゃなくてさよちゃんにだよ?」

「カナ、お願い。正気に戻って。お願い。」

「さよなら、お母さん。たぶん、もう二度と帰ってっこないと思う。」

「カナ、かなあああああ!いやあああああ。」

すがる母親を振り切って私は、さよちゃんと手に手をとって実家をあとにした。

さよちゃんは、私がずっと守っていくの。

誰にも傷つけさせないから。

その日から、私は、ずっとさよちゃんと暮らしている。

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