中編5
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青霊の海

蟹かごには何匹ものワタリガニが入っていました。

その中の一匹に他とは違う異質なものが混ざっていました。

熱帯魚のように鮮やかな青色をしたワタリガニです。

それだけだったら、まだこんな蟹もいるのかということで済んでいたのですが、特に異彩を放っていたのは甲羅の上に目を閉じた女性の顔が浮き出ていたことでした。

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その日、私は高校の先輩に誘われて彼女の祖母の経営する民宿のある島を訪れていました。

私は全く泳げないため、海に行くのはあまり気が進まなかったのですが、大好物の蟹などの捕れたての海の幸の誘惑に負けてしまいました。

まさか民宿と併設している海の家でかき氷を売る手伝いをさせられるとは思っていませんでしたが……

しかも水着で……

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「何でこの蟹こんな色していると思う?」

蟹かごをあげるのを見ていたおじいさんが不意に声をかけてきました。

私は静かに首を左右に振りました。

「蟹はなあ、食べるものによって色が変わるんだ」

そう言えばそんな話は聞いたことがありました。

「つまり青いものを食べてるってこと?」

おじいさんは頷くとさらに続けます。

「何を食べたと思う?」

意味ありげなおじいさんの質問にその意図をしばらく考えました。

「青く濁った肉と……青く煌めく魂……かな?」

私の答えを聞いておじいさんは少々驚いた表情になりましたが、すぐに納得したように笑みを浮かべました。

「おまえさんはもしかしてこういうことをたびたび経験しているのかな」

こういうこと……が何を指しているのかはすぐにわかりました。

私はいわゆる世間で言うところの霊感の強い人間でした。

普通の人には見えない幽霊とされるものも視ることが出来ました。

夜の海にたゆたう青い人魂の群れも目撃したことがありました。

「海にはな、現代の常識では図れないものが多い、これもその一つだな」

「これは食べられるんですか?」

「もちろん食べられるとも、というかおまえさんはもう感じ取っているんじゃないか?」

そう、初めて見た時からこの蟹には蠱惑的ともいうような食欲がそそられる雰囲気が漂っていました。

「でも、これは食べてもいいんですか?」

私の質問の意味を感じ取ったのか、彼はごまかすように笑いました。

「これ自体は何を食べていようが蟹はカニだよ、そりゃ大昔には行われていたことだが、カニのカニバリズム・カーニバルとはいくまい」

「何ですか、それ」

「あれ、こういうのわからないか、男の魅力はユーモアだよ、おまえさんも男を選ぶときはユーモアで選ぶといい」

もしかしてもういるかなと訝しんできたので、軽くいないよと返しました。

「ただ、持って帰るときは島の奴に見られないようにした方がいい、海の禁忌を捕まえたとか言われたら面倒だしな」

私はその助言に従い、そっと青い蟹だけを別のバケツに入れると、おじいさんにお礼を言いました。

「いいよ、これからもうちの孫の砂緒と仲良くやってくれよ」

おじいさんは好感が持てる笑みを浮かべると防波堤から帰る私に手を振りました。

私は泊っている民宿に戻ると調理場でその蟹を蒸しあげました。

蟹が蒸しあがるとすぐさま殻を割って、吸い付くように食べ始めました。

口の中に広がる濃厚な味わいはまるで青い海の滋養そのもののような豊潤さでした。

その味わいの源は理性では認めたくはありませんでしたが、ぼんやりとわかってしまいました。

身体の中の魂と呼ばれるものが満たされていくような感触すらありました。

煩わしくて細かい殻を割り、滑らかな肉をほじくり出してしゃぶりつくし、気が付くと口のまわりと両手は蟹汁でべとべとでした。

それでももっと食べたい、そんな思いが身体の中をせりあがってきました。

私はふらふらと導かれるようにもう一度灯台のある防波堤に戻りました。

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今度はあなたが食べられる番よ。

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奇怪な呻き声が溢れるように吐き出されていましたが、全く気になりませんでした。

日の沈んだ後の暗い海を見ると海の底に青く煌めく無数の顔が揺らめいていました。

あんなにいっぱいいると嬉しくなった私は海に飛び込んであの青い顔を捕まえようとしました。

「ちょっと、瑞季、何してんのよ!」

海中に身を投げ出そうとした私の身体を後ろから抱えたのは一緒に島に来ていた先輩でした。

「えっ、砂緒先輩?」

私を強引に浜の方に連れ戻そうとする彼女に私は青い蟹を捕まえようとしたことを説明しました。

返答をする私の頬を彼女は力強く張り飛ばしました。

「何言ってるの、うちのじいさん、去年海で死んでるのよ」

衝撃で目の前は暗くなりましたが、意識ははっきりしました。

「……うん、知ってる、でも感じのいいおじいさんだったよ」

「はあ、何ふざけてんのよ?」

「ううん、ごめん、もう、大丈夫」

身体の中からまさしく魂を侵食されたような感覚でした。

今までも死霊に憑りつかれた経験はありましたが、今回のような感触は初めてでした。

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ああ、残念だ、残念だ、おまえさんの肉が食べたかったのに、穴という穴から入り込んでおまえの柔らかい肉と瑞々しい魂を……

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「……冗談が過ぎるよ」

漆黒の海中からにじみ出てくるように頭に響いた無念の声に私は不快感を隠しませんでした。

「やっぱり私はユーモアがある男じゃなくて、何も言わずに私のために蟹を剥いてくれる優しい男を選ぶわ」

私は海中に漂う見覚えのある老人の顔を睨みつけました。

先輩を悲しませるだけかもしれなかったので、あのおじいさんのことはもう何も言うまいと思いました。

あの老人が自分の孫である先輩ではなく、私に狙いを定めた理由はなんとなくわかっていました。

浜まで先輩に連れてこられた私はやはり名残惜しくなって灯台の方を振り返りました。

もはや海の中で私を待っている光は遠くでかすかに見えるだけでしたが、それでもそれはまるで海の中で煌めく灯のように青く幻想的に揺らめいていました。

手の中に残っていた女性の顔が浮き出た青蟹の甲羅の薫りを吸い込むとかすかに神域の霊気のようなかぐわしさを感じました。

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「大昔の霊能者はどんな味わいがしたのかしら」

現代では禁忌となった祭りを青蟹に残された幽香に感じながら……

私は禁じられた思いを巡らせてしまいました。

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@むぅ 様
むぅ様が見た青い蟹があのものを食べたかは分かりませんが、色素のバランスなども関係するようです。
そして、青い蟹はどうも本当においしいようです。

それにしても本当に久しぶりに作品の感想をいただけて嬉しいです。
私自身は女子高生瑞季さんのお話は書いていてとても心地よいのですが……

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