長編18
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はいる

つい最近のことだ。

俺の上司だったAさんが、旅行から帰ってきたと思ったら、それから一週間も経たないうちに死んでしまった。

Aさんは口数の少ない人で、誰かと仲良さそうにしているところを見たことがなかった。

だからか葬式も思ったほど人は集まってなくて、義理と思って斎場までやってきた俺は、なんだか少し損をした気分だった。

で、参列者が一人ひとりお棺の前で手を合わせるんだけど、誰もお棺の中のAさんを見ようとはしないんだ。

俺も噂で聞いていた。Aさんは死ぬ直前、爪が皮膚に食い込むほどの力で顔をかきむしっていたらしい。

いまどきは死に化粧の技術なんかもずいぶんと良くなってるんだろうけど、それでもひっかき傷でめちゃくちゃになった死人の顔なんて、見たがるやつはそうそういない。

皆が拝むのもそこそこに席へつく中、俺の番が回ってきた。

別にそこまで仲が良かったとか、何かお世話になったわけでもない。ただ、皆が忌避しているものに興味がわいただけだった。

俺は少し大股に踏み込んで、棺の窓を覗き込んだ。

ぎくりとした。

お棺の中のAさんは、両手で顔を覆い隠していた。

しくしくと泣いているかのように、あるいはいないいないバァ、とでもやろうとしているかのように。

なんだこれは。

こういうのは葬儀屋の仕事なのか、それともご家族がそうしたのか。何にしても傷を隠すためとはいえ、ずいぶんと悪趣味な納棺の仕方に見えた。

思わず顔を背けそうになる。見なければよかった。

が、違和感はそれだけではなかった。

何かがおかしい。

その奇妙な感覚にとらわれて、俺は遺体から目が離せなかった。そしてもう一つの違和感に気づいて、今度こそ声をあげそうになった。

手が逆だ。

顔を覆う両手は下から伸びている。

自分で自分の顔をそうするなら、その手の親指は通常外側にあるべきだ。

この手は親指が内側についている。

誰かが下から手を伸ばして、Aさんの顔を覆っている?

もう無理だった。

よろけるように後ずさったその時、急にお棺の窓が音を立てて閉まった。

意味が分からない。自分の些細な好奇心を呪った。

もしかしたら、自分は見てはいけないものを見てしまったのかもしれない。

突然の大きな音に会場がざわつく中、俺はそのまま式を後にした。

気もそぞろの状態でなんとか自宅にたどり着く。

あれはなんだ?

目の前にまだあの光景がちらついて離れない。

あれは確かに他人の手だった。

寒気がして、俺は敷きっぱなしの万年床に着替えもせずにもぐりこんだ。

歯の奥がガタガタと鳴った。もうあれのことを考えるのも嫌だった。

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何か音がした気がして、ふっと意識が戻った。

どうやら気絶するように眠っていたらしい。

時計を見るともう朝の7時だった。汗を吸ったシャツとスラックスが気持ち悪くて、俺は布団を這い出した。今日が土曜でよかった。

服を脱ぎ散らかし、冷蔵庫を開ける。

ひどい気分だった。気のせいか、軽い耳鳴りもする。

食道を冷えた水が下りていくのを感じて少し落ち着くと、次第に思考が戻ってきた。

そして同時に、思い出したくないこともはっきりと思い出された。

顔を覆う誰かの手。

急に閉まった棺の窓。

背中に板氷を押し込まれたような感覚がして、俺はかぶりを振った。

手の向きはきっと気のせいだ。窓も風かなにかにあおられて閉じただけだろう。

葬式という雰囲気に呑まれてしまったに違いない。よく聞く話だが、まさか自分がそんなことになるとは思ってもみなかった。

友人と映画に行く約束があったので、それ以上は考えないようにしながら俺はそそくさと身支度を整えた。

鞄を肩にかけ、玄関にすわり込んで靴を履く。

そして、そういえば今朝目が覚めたとき、何か音がしたのは何だったんだろう、とぼんやり思い返しながら立ち上がった。

目の前のドア、カギのつまみは水平に向いている。

まったく覚えてないが、ふらふらになりながらもちゃんと戸締りはしたらしい。

ドアノブをつかみ、カギをひねろうとした。

つまみはしっとりと濡れていた。

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喫茶店でコーヒーを頼むと、俺は机に突っ伏した。

映画のチケットをまだ予約していなかったのは不幸中の幸いだろう。

こんなテンションでアクションコメディなど楽しめと言われても無理がある。

「大変だったねえ」

Bは中学時代から付き合いがある数少ない友人だ。

事のあらましをすべて話し終えた後も、相変わらずのゆるいテンションである。しかしそのマイペースさが今はありがたかった。

「何か見たの? その……手? 以外には」

「いや……何も」

実際、自分の目で何かを見たのは最初のそれっきりだ。気のせいと言い張ることは不可能ではなかった。

しかし、状況がその主張を強引に押し込めてくる。

家の鍵を何者かに閉められたのだ。

しかも内側から。

今朝耳にしたあれは、サムターンが回る音だったのだ。

「警察には連絡した?」

Bの心配ももっともだ。

こういう話を聞かされたときに真っ先に疑うのは、変質者とかストーカーとか、そういう類のものだろう。

「言ってない。てかこんなの信じるかよ」

「……じゃあ、やっぱりお祓いとか?」

「……」

気まずい沈黙が流れた。

つい昨日までオカルト話とは縁もゆかりもなかった人間がお坊さんだか神主さんだかに泣きつくというのは、なんだかひどくみっともない絵面に思えた。

が、このまま放っておきたくもない。

何とかしてくれる人がいるのなら、藁でもつかみたかった。

「……行くか」

「車貸す?」

「すまん、助かる」

「じゃあ今日はドライブだね」

解決できそうだったら帰りがけに温泉でも行こう、という話になり、俺はBの運転で近場の神社仏閣を回ってみることにした。

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結論から言うと、解決は見込めなさそうだった。

いくつかの神社を回り、色んな人に話を聞いたが、

「儀礼としてお祓いをして差し上げることはできますが、あなたに何かが憑いているのか、憑いていたとしてそれが祓われたのかは、神だけが知ることです」

「私たちは神に仕える身ですが、いわゆる霊能力者ではありませんので」

そういう返答がほとんどだった。

ここは俺みたいな人間が助けを求めるための場所ではないのか、と問い詰めたくもなったが、なんとか思いとどまる。

きっと彼らも、まだそういう体験をしていないのだろう。

霊を信じない俺がこんな目にあっているように、神を信じている彼らが神に会っていなくても無理はない。あるいは信じていなくても、仕事としては務まるのかもしれない。

とりあえずでお祓いだけを何度かしてもらい、俺は具体的な方策を得られないまま帰路についた。

しかし昨日あんなことがあった家に、何の対処もなく帰るのか、と暗鬱な表情でいたのがバレたのだろう。Bが突然切り出した。

「今日、うち泊まる?」

「え、いいのかよ」

「いいよ、どうせ休みだし。内側から鍵閉められた家とか帰りたくないでしょ」

一も二もなく、彼の家に転がり込むことにした。

Bお手製の生姜焼きを食べ、何をするでもなくテレビを眺めながら、月曜の仕事までに自宅のことをどうするか考えていると、またBがとんでもないことを言い出した。

「今日さ、寝るときに玄関開けとかない?」

「……は?」

「いやさ……」

もしその悪いものが俺に直接ついてきているなら、あれは今もそのあたりにいて、今度は今いる自分の家のカギが閉められるかもしれない。

そうではなく、俺の家に入り込んでそこにいたままなら、カギは開いたままだろう。もしそうだったら、さっさと引っ越して二度と近寄らなければそれで済むかもしれない。

Bの言い分はそんな感じだった。

「まあ、一理あるな」

「でしょ? それにもしかしたら、昼間のお祓いでなんとかなってたりするかもしれないし」

普通に泥棒が入ってくるという心配もあったが、Bのマンションは一階にセキュリティ付の自動ドアがついている。

試してみる価値はあった。

その日はわざと玄関のカギを開けたままにし、何かあればすぐ気づけるよう夜更かしするつもりで、俺たちはその晩をテレビゲームなどして過ごした。

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いつのまにか眠ってしまっていたらしい。

フローリングの上でガチガチに固まった体を起こし、上半身をひねると、Bがいないのに気付いた。

ハッとして立ち上がる。玄関へと続くドアが開いている。

靴箱の前で立ち尽くすBの背中を見て、俺は何が起きたのかをすぐに察した。

近寄ってみると、やはり玄関のカギが閉まっている。

「……来たのか」

「みたいだね」

ぐるりと周囲を警戒する。

しかし、ドアのカギが閉められていること以外、何も気づけるような異常はなかった。

Bはつまみをひねったり戻したりしていたが、勝手に閉まるような状態ではないことを確認したにすぎなかった。

急いで荷物をまとめ、俺はBの家を後にした。

これ以上Bに迷惑はかけられない。一人でいるのは恐ろしかったが、それ以上に旧知の友を巻き込むことの方が怖かった。

その日はさらに足をのばして、各地のお祓いしてくれそうなところや、ネットで調べた霊能力者、占い屋のたぐいをあちこち回った。

しかし結果は昨日と変わらず。

誰もかれも知らぬ存ぜぬか、あるいはありきたりな胡散臭いセリフを述べるばかりで、まるで霊に詳しそうな気配がない。

自分だけが異世界に放り込まれてしまったような気分だった。

そうこうしているうちに日も暮れ、結局俺は自宅に戻ってきてしまった。

仕事を放り出して、どこでもいい、別な場所へ逃げよう。そういう考えも最初はあった。

だが人間意外と器用なもので、実のところ今は気味が悪いという以上の実害はない、そう考えるとまだ少し耐えられるんじゃないか、という気もしてきたのだ。

それにこうも「霊はいない」「お前の気のせいだ」とでも言わんばかりの扱いをされ続けると、なんだか無性にむかっ腹が立ってきた。

確たる証拠があれば、彼らも顔色を変えるだろうか。

そんなものを手に入れるアテはなかったが、ともかくもう少し経過を見てやろう、危ないと思ったらそのとき逃げればいい、俺はそんな気持ちになりつつあった。

玄関をおそるおそる開ける。

俺が出て行ったときから何か変わったような気配はない。薄暗い、けれどいつも通りの俺の部屋だ。

押入れ、戸棚、風呂場、ひとしきり探し回ったが、何もいないし、痕跡もない。

「……ビビらせやがって」

見えるところにいないのはいいが、また不安な音を鳴らされては気味が悪い。

玄関のカギがちゃんと閉まっていることを居間から遠目に確認して、俺はさっさと寝ることにした。

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sound:29

「……ぃ…………め…………」

何か聞こえる。

「…………け…………は…………」

声だ。

「……ぁ…………い…………める…………」

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目が覚めた。

まだ春先なのに、Tシャツはじっとりと湿り気を帯びていた。

昨晩の夢はなんだったのか、まとまらない頭で考えつつ、スーツを着て鞄をつかんだ。

畳敷きの寝室を出て、一応部屋に何かおかしなところがないか見回しながら、鞄で居間のドアを押し開く。

玄関もざっと眺めたが、やはりそれらしいものは見当たらなかった。

カギは変わらずかかっている、逆に開いてたりするかも、という俺の予想は見事に外れた。

しかし昨晩の夢が理由か、昨日おとといの疲れが原因か、漠然とした気持ち悪さだけは払拭できない。

一抹の不安を抱えたまま、俺は家を出た。

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昼食から戻ると、隣の席のCが声をかけてきた。

「なんかめっちゃ電話鳴ってましたよ」

「うわマジか、ありがとう」

よほどすごい鬼電だったのか、若干引き気味のCをよそに机の上のスマホをつかむ。

メシ屋で席に着いた瞬間、会社に置いてきてしまったことに気付いたのだが、さすがに面倒だったのでそのままほったらかしていた。

こういうときに限って大事なのがくるんだよな、お得意さんだったらどうしよう、などと思いながら画面を開く。

「……え」

大量の通知は、すべてBのものだった。

あのマイペース男が、10件を超える着信履歴を残すなんて、今まで一度もなかったのに。

「おいおいマジかよ……」

あわてて折り返す。

しかし出ない。コール音だけがむなしく響く。

何回目かの呼び出しを切ったところで、俺はメールが1通届いているのに気が付いた。

開くと、それもBからのものだった。

「あれがいる

たぶんおまえにも

はやくにげろ

はいられる 」

戦慄が走った。

上司に気分が悪いと告げ、受け答えもそこそこに会社を飛び出した。

俺が泊まったから、Bのところに残ったのか? でもあれは俺の家からは出てきた……それに憑りつかれたのは俺が最初なのに、なぜ俺よりも先にBが?

何が起きてる?

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Bのマンションに転げ込むように到着したところで、カードキーがないとそもそもマンションに入れないことに気が付いた。

いくら仲が良かったとはいえ、さすがに合いカギは持っていない。

途方に暮れていると、管理人さんが声をかけてきた。

「もしかして、Bさんのお友達?」

「え? あ、はい」

「あら、じゃ何か知らないかしら」

聞くと、管理人さんは今日の昼前、あわてた様子でマンションを出ていくBを見たという。

いつもは挨拶を欠かさないBが、自分に一瞥もくれずに走り去ったのを見て、何か不穏なものを感じ取ったらしい。

しかし特に詮索できるわけでもなく、悶々としていたところ、よくBと一緒にここへ遊びに来る俺が、これも息せき切って駆け込んできたのを見つけて、これは何か関係あるに違いない、と声をかけてくれたのだそうだ。

「Bは何か言ってませんでしたか?」

「うーん、私もご挨拶しようとは思ったんだけどねえ……」

管理人さんは何か思い出そうと頭をひねっていたが、やがて「そういえば」と口を開いた。

「彼、そこの出口で、何かをすごく怖がってたみたいだったのよ」

指差されて振り向くが、そこにはロック式のドアしかない。

ドア。

……ドアが怖い?

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「はいられる」

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突然、すべてに整合性がついた気がして、俺はめまいがした。

あれは、カギを閉めるだけの霊ではない。

内側へと入ってきていたのだ。

そして俺は一番、背筋が凍るほどの事実に思い当たっていた。

今朝からずっと付きまとっていた、漠然とした気持ち悪さ。

俺は昨日、玄関と居間の間のドアを閉めていない。

気が狂いそうだった。

Bの家は玄関から入って、一つドアを通れば居間兼ベッドルームだ。

あれは昨日の夜、そのドアを通り、そしてBの寝ているすぐそばまでやってきたのだ。

そしてそれと同時に、俺の寝ているすぐ隣の居間にも、あれは来ていた。

あれは一晩にひとつ、ドアを通ってくる。

しかしそう思うと、Bから連絡があったのは本当に安心すべきことだった。

どうやら同じ部屋に入られたからといって、すぐに何かされるわけではないらしい。

現にあいつは生きて、部屋から逃げ出せた。

しかし楽観はできない。

あくまでも「すぐに」何かされるわけではない、というだけだ。

今となっては確信できる。

上司のAさんは、病気や何やらで亡くなったのではない。

あれにやられたのだ。

「……大丈夫?」

心配そうな顔でのぞきこむ管理人さんに礼を言うと、俺はマンションを飛び出した。

なんとかしなければ。

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その日の夜。

考えうる限りの準備をして、俺は自分の寝室の中央に腰を下ろした。

上等な日本酒で杯を満たし、塩を部屋の四隅に盛って、ふすまにはお寺でもらったお札を幾重にも貼り付けた。

素人がネットで調べただけの知識でどれだけ抵抗できるかはわからない。

だが逃げるわけにはいかなかった。

Aさんの棺を覗き込んだのは俺だ。

霊が悪い、という何の解決にもならない泣き言を言わない前提なら、俺があれに襲われるのは当然のことと言える。

だがBは関係ない。

俺が巻き込んでしまっただけだ。

Bを死なせるわけにはいかない。

俺がもし今夜あれを追い返せたなら、そしてもしBがどこかでもう一晩時間を稼げたなら、俺がBに今日のこの状況を教えてやればいい。

Bの家までついてきたあれを、距離で振り切ることはきっとできないだろう。だからこの先も生きていたければ、どこかで戦わなければならないんだ。

半ばやけくそだった。けれど、強い決意が俺にはあった。

ここで食い止める。

血眼になって覚えた般若心経を唱えながら、俺は待った。

時計の針が12時をまわり、1時をまわり、緊張の糸だけが異様に張りつめたまま、ついに時間は深夜2時になろうとしていた。

何も音がしない。

不安が急速にふくらみ始めた。

あれは来ないのか?

Bを追い詰めたから、そっちに集中しているのか?

次第に意識が混濁し始め、視界がぼやけてくる。

口元からこぼれる経文がほそり、とぎれ、自分の舌の動く感覚がわからなくなっていた。

遠くで、何かが焦げるようなにおい? たぶん。

わからない。

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sound:29

「……ぃ…………め…………」

何か聞こえる。

「…………け…………は…………」

声だ。

「……ぁ…………い…………める…………」

どこから?

「……ぁけ…………いる……しめ…………」

……耳元。

「あける はいる しめる あける はいる しめる あける はいる しめる」

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飛び起きた。

部屋には太陽の光が射し込んでいる。

いつの間にか朝を迎えていた。

そして顔を上げた目線の先で。

酒はヘドロのようにねばつき、塩は黒く焼け焦げ、ふすまに貼った札は元型が分からないほど千々に破れ。

ふすまの取っ手は、見目にわかるほどのおびただしい液体で濡れていた。

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新幹線の中で、俺は何度もBに電話をかけた。

しかしその祈るような気持ちに応えるものはなく、留守番サービスの通知音が耳を刺すばかりだった。

実家に着くと、両親は土気色をした俺の顔を見て、すぐに中へあげてくれた。

玄関から一番遠い、祖父の仏壇が飾られた部屋に通されて、俺は深いため息をついた。

ここまで逃げてきたはいいが、この部屋も玄関からは扉を3つしか経由しない。

結局、あれを遠ざけるには不十分に思われた。

両親に遅い結婚記念日祝いだと言い、少し離れたところにある温泉旅館のペアチケットを押し付けると、二人は少しいぶかりながらも、いそいそと準備をして家を出た。

これでいい。

帰ってきたら仏間に息子の変死体があるというのは最悪な気分だろうが、それでも借り物のアパートで孤独死して高額な慰謝料やら修繕費やらを請求されるよりは、よほどマシなはずだ。

それに俺があれに襲われるところに鉢合わせようものなら、今度は両親にも矛先が向きかねない。

あまりに後ろ向きではあるが、これが俺の考えられる最善の選択肢だった。

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そして夜がきた。

俺は包丁を握りしめ、あれが姿を見せたらせめて一撃くれてやろう、と部屋の真ん中で待ち構えていた。

冷静さと狂気とが奇妙に同居していた。

12時を回ったころだろうか。

何かを引きずるような音がしている。

それが家のすぐ外から聞こえる、そう気づいたとき、玄関の引き戸がガラリ、と開けられた。

あれが来た。

玄関が閉められる。

ゆっくりと、しかし確実に、あれは独特の足音のようなものを立てながら、階下を移動していた。

そして、あのぼそぼそとつぶやくような声も聞こえ始めた。

sound:29

「……あける…………はいる…………しめる…………」

全身が総毛だった。

それはひどくしわがれ、それでいて奇妙に高かった。

幾重もの布?の内からこもって聞こえるようで、しかし不気味なほどにはっきりしている。

それは三つの単語をうわごとのように繰り返しながら、廊下の突き当たりの戸を開き、階段を上がり始めた。

「……あける…………はいる…………しめる…………」

こっちから殴りこんでやろうかとも思った。

だが足が震えて動かない。

うわごとの元は廊下を横切り、着実にこちらへと迫っている。

正面のふすま、その左端が暗く翳った。

あれだ。

次第に大きくなるその影、そこから視線が外せない。

それは縦に長く丸い肉塊のようだった。両脇から奇妙に細長い腕が無秩序に生え、ぬちゃ、ぐちゃ、とおぞましい音をたてながら、体の前半分を起こした姿勢で、部屋の前を這いずっている。

「……あける…………はいる…………しめる…………」

声は少女と老婆を重ね合わせたようで、ひどい耳鳴りを伴った。

死の淵から囁くような声だ。

もう抵抗を試みるどころではなかった。

体は微動だにできず、震える両手から包丁がこぼれ落ちた。

目がひりひりと痛む。涙は一滴も出ない。

ついにそれがふすまの正面に立った。

「……あける…………はいる…………しめる…………」

やせ細った影がふすまに手をかけ、引いた。

「……ああああ、あああああああああああ」

自分の声が漏れ出している。止められない。

ピンクにぬめる肉の塊の真ん中、そこに幾重にも重なる割れ目があり、その隙間の奥から赤ん坊のような顔がのぞいていた。

この世の終わりのような絶望が全身を駆け巡り、俺は反射的に目をつぶった。

それを見てはいけない、しかし理解したのはそれを見てしまった後だった。

「……あける…………はいる…………しめる…………」

それは畳を湿らせ、ずるりと音を立てて部屋へ入ってきた。

ふすまが閉められる。

呼吸すらまともにできなかった。

近づいてくる。

逃げ場などないとわかっているのに、俺は後ずさった。

足がもつれ、しりもちをつく。立てない。力が入らない。

それは吐息がかかるほど近くまで来ていた。

「……あける…………はいる…………しめる…………」

いやだ。

いやだ。

いやだ。

それが動く気配がした。

顔に手が這って。

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「あけて」

shake

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絶叫した。

もはや声ですらなかった。

肺がつぶれてもなお、何もないものを吐き出し続けるかのように。

「あけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけて」

shake

それは俺のまぶたに指をかけ、執拗にまさぐった。

俺は狂ったように暴れ、必死にそれを払いのけようとしたが、それは何本もの腕で俺を組み敷いた。

あけられる。

はいられる。

俺の中に。

肉の感触。

力が強まる。

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「あけてよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」

shake

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何かが叩きつけられるような大きな音がして、俺の意識はそこで途絶えた。

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頰を叩かれる感触と、聞き覚えのある大声で、目が覚めた。

「大丈夫!? しっかりして!!」

うっすらと目を開けると、俺を覗き込む両親の顔があった。

「よかった! ああ! よかった! 生きてるわ!」

はっとして、俺はバネのように跳ね起きた。

あれは!? あの化け物はどこへ……?

見回したが、あれがいた形跡はなかった。

畳にもふすまにも傷はなく、濡れたしずくの一滴さえ消えている。

だが、自分の顔に手をやってわかった。

あれは夢などではない。

触れただけでもわかるほど、俺の顔には幾重ものみみず腫れができていた。

顔、声、感触、それらすべてが一瞬のうちにフラッシュバックして、俺は窓に駆け寄ると外に向かって盛大に吐いた。

ようやく少し落ち着いて、俺はもう一度その時のことをゆっくり思い返した。

疑問は山ほどあった。

なぜ俺は生きてる?

それに最後に聞いた、大きな音。あれが出したとは思えない、もっと乾いた音だった。

例えるなら、木の板を思い切り打ち付けたような……

ふと、仏壇に目が止まった。

亡くなった祖父の仏壇。俺の記憶にはほとんどないが、父がいつもこれを大事に掃除していたことは覚えている。

その仏壇の奥、一番奥の小さな扉。

俺は目を見開いた。

閉じたその扉のすきまから、ぬめった液がわずかに流れ出ていた。

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Bとはその後連絡がつかない。

田舎の人伝いに聞いてもみたが、手がかりになりそうな話はつかめなかった。

仕事はしばらく休んだが、何とか同じ職場に復帰できた。

俺の他にAさんの棺を覗き込んだ人はいないそうだ。

一部ではその話が噂になり、俺が休んだのもそのせいだったのではないか、とまことしやかに囁かれている。

まあ、まったくもってその通りなので、特に何か反論するつもりはない。

祖父の仏壇は、今もひっそりと実家の一番奥の部屋にたたずんでいる。

ことの顛末を打ち明けて仏壇を見せると、両親も事態を理解してくれた。

液はすぐに止まったが、念のため仏壇の扉はすべて閉じ、神主さんを呼んでしめ縄をかけてもらった。慣わしに従い封をしたそうだが、正直今までの俺に対する扱いを考えると、あまりアテにできたものではない。

それでも現状、俺の周りに前のような異変はなくなっている。

今は年に二度、盆と暮れに祖父の墓参りを欠かさないようにしている。

仏壇の方は拝めないしその気にもなれないから、お墓があって心底安心した。笑える話だが、こうなるまで俺は祖父のお墓がどこにあるかすら知らなかったのだ。

こんな不孝者でも守ってくれたのだから、きっと生前は人格者だったんだろう。

俺は助かった。

でもあれは、たぶん際限なく増える。

もしも同じ家に行くだけでそれが増えるのなら?

ホテルは? 病院は? 考え始めたらキリがない。

まだこの恐怖が始まったばかりで、そしてこれ以上広がらないことを俺は願っている。

もしも身の回りで、こんな噂話が広まり始めたとしたら……

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sound:29

戸締まりには、気をつけた方がいい。

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