長編48
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幻殺

あれを見るようになってからもう何年になるだろうか。 15年… 20年… いや、もっと昔になるだろうか。 最初がいつだったか記憶が曖昧でハッキリとは思い出せない。

確か突然見え始めたわけではない。 気が付いたら見えていたんだと思う。 そのきっかけはなんだっただろう。 誰かが喋っていたような、いや違う、誰かから教えてもらったような気がする。 確か兄だったか、キッカケをつくってくれたのは…

あれは祖父母の家に家族で遊びに行った時だったと思う。 兄と僕は遊び道具のない家の中で暇を持て余し、裏にある雑木林に興味を抱いていた。 大人たちからは行ってはいけないよと言われていたが、家の中で黙っていることに耐えられなかったんだ。

木立の間に細い小径がいくつも口をポッカリと開けていて、そこを二人で夢中で駆けまわった。 樹々のカーテンの隙間からは木漏れ日が降り注ぎ山全体がキラキラと光って美しかったと思う。 一頻り遊びまわった僕たちは疲れ、大きな切り株の上に腰掛けた。

息を整えながら兄がおもむろにこちらを向くと「なあ、隼人」と言って語り始めたんだ。

「頭の中をからっぽにしてたら見えたんだよ、巨大な水の塊が。 まんまるの球体だったよ。 色も付いていた。 水色だったり、薄い緑だったり。 音もハッキリ聞こえたよ」

確か兄はそんなことを言っていた。 その時心の何処かで凄いな、僕も見てみたいって思ったんだ。 それで何度か努力してみた。 でも最初は無理だった。 何度見ようとしても僕の眼前に広がる風景はいつも変わらぬままだった。

兄に報告すると、意地悪そうな顔付きで「隼人にはまだ早いよって」理由もなく答えた。 それが凄く悔しかったんだ。 だから僕は不貞腐れて「そんなもの見えたって別に偉いわけじゃないもん」って精一杯の強がりをしてみせた。 そして心の中では、きっと兄は嘘を付いているって高を括っていたんだ。

でも嘘じゃなかった。 気付いたら見えていたんだ。 なんだ、このことかって理解したのは見えるようになって大分経った頃だった。

自宅の掃き出し窓からぼんやりと外を眺めていた。 外を眺めるのはあの頃は好きだったんだ。 暇な時はいつもお気に入りの青いクッションに座り街の様子を観察していた。

時刻は夕方だったと思う。 西日が家々を照らし、大きな影を幾つもつくっていた。 僕は闇に飲み込まれていく街の情景をぼんやりと眺めていた。

(今日の夕飯は何かな?)とか他愛ないことを考えていたかもしれない。 やることがなくなると決まって外を見る習慣ができていた。

最初は隣の家にポワリと直径一メートルくらいの水色の球が現れた。 何故か不思議には思わなかった。 きっと見慣れていたからだと思う。 またあの水の球かって思い、その辺に転がってる石ころを眺めるように見ていた。 でもその時気が付いたんだ。 兄が言っていたのは、このことかもしれないって。 それで直ぐに兄に報告しに駆け出した。

兄も喜んでた。 隼人もようやく水の球が見えるようになったのかって。 手を取り合ってはしゃいだよ。

でもそれからあの時まで色以外あまり変化はなかった。 見えるだけで触れることはできなかった。

水の球としか言いようがないその謎の物体は、日毎に色鮮やかになっていった。 今では紫色や、黄色、赤にピンクなんかもある。 でも色が違うだけでほとんど差異はない。 いつも大きさは直径一メートルくらいだった。

出現する時もいつも同じ、呆然と考え事などしているときによく現れる。

高低差だけはいつもバラバラで、地上三十センチくらいの時もあるしビルの三階くらいの高さの時もある。

前兆とかはない、気が付いたらその世界に入っている。 厳密にいうと水の球の世界と現実の世界が融合する感じ。 一度に二つの世界を見る感じって言ったらわかりやすいかな。

その水の球は突然空中に現れては真っ直ぐ落下し、地面に触れるとバシャンと音をたてて破裂する。 まるでミルククラウンを見るかのように水の球の周りだけ、時間はゆっくりと流れてるように感じられる。

僕が見えているその現象は僕以外には知覚できないようだった。 本当は見えているのではないかと何度も試したこともあった。 しかし誰一人として気がつかない。 皆素知らぬ顔で水の球のわきを行き交ったり、目の前に落ちても平然としている。 教えてくれた兄でさえ例外ではなかった。 僕の見えてる水の球には兄は全く気が付かなかった。 だから最初は幻覚の一種だと思った。 一時期は兄の戯言で頭がおかしくなってしまったと思ったくらいだった。

でもそれも杞憂におわった。 幻覚じゃないということに気が付く出来事があったからだ。

それはいつものようにぼんやりと掃き出し窓から外を眺めてる時だった。 空からはゆっくりと水の球が舞い降りてきて、彼方此方でバシャンバシャンと破裂し、まるで一つの音楽を奏でているようだった。 そんな中一匹の犬がやってきた。 首輪がついていないので飼い犬ではなさそうだが、愛嬌のある顔貌でおとなしそうだった。 その犬が水の球が落ちてくるのを大きな身体を揺らしてかわしているのだ。 僕はその行動に驚愕した。 犬には向こうの世界が見えているのだとわかった。

小躍りをして喜びたい気分だった。 この能力は幻覚じゃないと確信したんだ。

それから僕はあの水の球を努力して、完璧ではないが、ある程度は出現させることに成功した。 要は何もしないで呆然としていれば、それは現れるのだ。

簡単なようだが意外と難しい。 出そうと思って出せるものではない。 出そうと意識すると失敗する。 肝心なのは『無』でいることだった。 そうするとそれは現れる。 頑張ってその水滴を操ろうと思ったこともあった。 でも意識すればパッと水滴は消えてしまった。 まさに水の泡になって霧散してしまう。

今思えばなんだかわからないその現象を、その程度の遊びで辞めておけばよかったのだ。

自分のやろうとしていたことが今になって誤りだったことに気が付いた。 特別なものを得ようとしてバチでも当たったのかもしれない。

きっと調子に乗っていたんだ。 他人にはない世界があると思い舞い上がってしまったんだ。 僕は大きな過ちを犯した。 過失だとおもいたい。 でもきっと心のどこかで殺意があったのかもしれない。

僕はその能力で友人を一人殺してしまった。 そして、自分の…

ヘッドライトの白い光がコンクリートジャングルに張り巡らされたアスファルトを浮かび上がらせている。 低いエンジン音が車内に広がり、空気中へと溶けていくのを車窓から流れる光の帯を見つめ、僕は黙って聞いていた。

通夜の帰り道、運転席では友人の高橋がハンドルを操りながら何度か僕に視線をおくる。

僕が押し黙っている為、話しかけづらいのだろう。 さっきからしきりにこちらの様子を窺っている。 無視していると痺れを切らしたのか彼はゆっくりと重い口を開いた。

「結局秋山の死因は何だったんだろうな。 あんな所で轢死じゃなかったら何があるんだよ?」

僕は車窓から高橋へと視線を移した。

「そんなのわからないよ。 事故の跡もないし、車と接触したところを見た人もいないんだ。」

秋山は僕が殺したんだよ、とは口が裂けても言えない。 例え言ったところで誰が信用してくれるだろうか? 傍から見たら秋山は突然倒れて全身の骨を砕き絶命したのだ。

警察も色々調べたようだが結局は原因不明のまま事故死として決着をつけたようだった。

「お前秋山に借金があったんだってな?」

高橋は興味深そうに視線をこちらに向けた。

「ああ… 高橋も知ってたのか。 でも僕は殺してないぞ」

「んなことわかってるよ」

「兄貴が難しい病気だったんだ。 薬代だけでもバカ高くて、それで仕方なく借りたんだ。 少しずつでも返す予定だったんだけどな。 残念だよ」

嘘だった。 借金は全部遊ぶ金。 兄に金を使ったことなど一度もない。 でも兄は病気といえば病気だった。 精神が病んでいたようだった。 しかし病院には通ってはいなかったみたいだし、心の病と知ったのは最近だ。 その兄も先月突然死んだ。 縊死だった。 遺書はノートに一行(草を食べてはいけない)と意味不明な文章が書き殴られていた。

警察は何が原因かわからないが精神的に逼迫して自殺、ということで片付けたようだった。

高橋はやおらカーラジオのボリュームを上げた。

「この曲好きだったんだよな」と言うと、曲に合わせて身体を揺すりはじめる。

車内の暗い雰囲気を消そうと思ったのかもしれない。 10年くらい前に流行ったJーPOPが流れている。 曲名は何だったか思い出せないが興味の無いアーティストの曲だった。 どうやら高橋とは音楽の趣味は合わないらしい。

車は交差点に差し掛かり、赤信号で止まった。 信号待ちの主婦がイラついているのか、しきりに足踏みをしている。

「飯でも食おうか?」

高橋が交差点の向こうにあるファミレスを顎をしゃくって示した。 全国区のチェーン店のネオンが煌々と輝いている。

「ああ、そうしようか」と彼の提案に素直に従った。 気分転換がしたかったのかもしれない。 このまま重い空気のまま車の中にいれば息が詰まりそうだった。

店の中は客がまばらだった。 時計を確認すると午後八時。 あまりこの手の店には行かないので、これが混んでるのか、空いてるのかはわからない。

窓際のテーブル席に高橋と向かいあって座り、メニューを開くと、直ぐに給仕が面倒臭そうに注文をとりにきた。 面倒臭いなら辞めてしまえと言いそうになったがそれを呑み込んで視線をメニューに戻した。

腹はすいてはいなかった。 ただなんとなく高橋に合わせて入っただけだ。 適当に給仕に注文するとメニューを閉じ、話しかけられないように見たくもないスマホを弄りはじめた。

高橋はああでもない、こうでもないと細かい注文をしきりに給仕に伝えている。 意外と食べ物にはうるさい性格なのだなと心の中で呟き、思い出したくなかったが事件当日のことを思い返していた。

あれは事故だった、と思っている。 自己暗示をかけるように自分にそう言い聞かせているだけかもしれないが、殺そうと思った訳ではない。 第一あの能力はまだ完全に使いこなせてはいない。

彼に当たるか、そして死亡するかなんてことは僕にもわからなかった。 何処に出現するかもわからない水の球をコントロールなどできるわけがないのだ。

あの日、秋山から借金返済の催促の電話があり、僕は少しなら返せるといって電話をきった。 待ち合わせ場所は僕が住んでいるアパートの近くにあるショッピングモールの駐車場だった。

駐車場には沢山の買物客が行き交い、車も並んでいた。 空には鈍色の厚い雲が垂れ込め、今にも一雨きそうな感じだった。 風も冷たく薄いコートでも羽織ってないと震えがくるくらい寒かった。

秋山は愛車の黒いゲレンデバーゲンに乗って約束の時間に現れた。 僕がゲレンデバーゲンに近付こうとしたら、彼の方から車を降りてきて、小走りに近づいてくると挨拶もなしに、全額返してくれと頭を下げた。

正直驚いた。 秋山は仲間内では金持ちで知られていた。 親は小さな医院を開業しており本人も総合病院で医者をやっている。 金には困ってなさそうだし、借りる時には、返済はいつでもいいと言っていたからだ。 その金を貸してる方の秋山が切羽詰まった顔で頭を下げていた。

どういう事情があるのか知らないし、聞きもしなかった。 ただその時点で借金は百五十万近くあったと思う。 その金をいきなり全額返済は無理な話だった。

取り敢えず用意してきた五万を渡し、いきなり全額は無理だということをそれとなく伝えた。

「なるべく早く返してくれ。 兄貴が亡くなったなら、もう金はかからないはずだろ」

秋山にも高橋についた同じ嘘を理由に金を借りていた。 今さら遊ぶ金が欲しくて借りていたなんて言い出せない。

「ああ… わかったよ。 なるべく早く返すよ。 悪かったな」

口ではああ言った。 あの場ではああ言うしかなかった。 でも頭の中はからっぽだった。 そんな金などないし、身から出た錆と言われれば全くその通りで、どうしていいかわからず途方にくれた。

秋山は「たのんだよ」と一言いって金を受け取ると、踵を返しそのまま自分の車の方へと歩き出した。 僕はそれを呆然と眺めていた。 自失していたといった方がいいかもしれない。 だから殺意など… いや、わからない。

沢山の人が駐車場にはいた。 車の騒音。 人の話し声。 そう言った喧騒もあったはずだ。 でも僕には聞こえなかった。 もう頭の中には何も入ってはこなかった。 そのかわりに、沢山の水の玉が中空に浮いていた。 あっちでもこっちでも落下して、バシャバシャと破裂音をたてている。 落下して破裂するとまた新しい水の球が中空に現れる。 それだけ次から次へと地面に触れれば水浸しになるはずだが、一向に濡れた様子はない。

(あれが人の上に落ちたらどうなるんだろう?)

不意にそんなことを思った。 別に何か考えがあったわけじゃない。 ただなんとなくそう思った。 その刹那、秋山の頭上に直径三メートルくらいの巨大な水の球が現れ、それが勢いよく落下した。 あんなスピードで落下したのは、はじめてだった。 次の瞬間、耳を劈くような破裂音が響き、それで僕はハッと我に返った。

気が付くと秋山が地面にうつ伏せに倒れていて血の海ができていた。 直ぐ近くにいた客が悲鳴があげ、その場は騒然となった。 あとはよく覚えていない。 多分その場から逃げたんだと思う。 気が付いたら寒い自室でストーブもつけずに震えていた。

2

「おまちどうさまです」

給仕が注文していた品物を次々と持ってくる。 待ってましたとばかりに高橋は運ばれてきた物に手をつけた。 通夜の帰りだというのにコイツはよくこれだけ食欲があるものだと呆れてしまう。 いや、人のことは言えないのかもしれない。 僕は自分で殺した人間の通夜に素知らぬ顔で弔問しているのだから。

「食わねぇなら、俺がもらうぞ」

考え事をしていると僕が注文したものにまで高橋が手が伸ばしてきた。

「ああ、やるよ」

ぼんやりと呟いた。 食欲は一向に起きない為、別によかった。

「どれが食いたいんだ?」

なにかを咀嚼したまま高橋は指でハンバーグを示す。 メインの物をチョイスするとはなんてふてぶてしい野郎だと思いながら、僕は彼の前にそれを差し出した。

「いいのか? 悪いな」

悪いなんてかけらも思っていないだろう。 高橋の健啖ぶりには心底呆れ、苦笑いし肩を竦めた。 その瞬間、嫌な寒気を感じた。

誰かに見られている。 なんとなくそう思った。

自然を装い首を巡らし辺りを見回した。 誰だろうか? 周囲の席は何処も空いていて、視線を向けてくる人影は見受けられない。 気のせいかとも思ったが、見られてる気配は依然として残っている。

遠くの廊下側の端に一組のカップルが座っていた。 二人は会話に夢中でこちらの存在には全く気が付いてはいない様子だった。

その隣の席にはくたびれた感じの中年のオッサンが一生懸命スマホを弄りながら俯いている。 どうやらコイツも違うようだ。

そして反対側窓際の端にパーカーにジーンズ、キャップを目深に被った年齢不詳の男がこちらに顔を向けて座っていた。

(見ているのはあの男か?)

確証はないが他にこちらに視線をおくってるやつは見当たらない。 一瞬警察か、とも思ったがそれもどうも違う気がした。 第一警察に尾行されるようなことはやってはいない。 厳密には警察につけられるようなやり方では殺してはいない。 だから違うだろう。 そんな気がした。

では奴は何者だろうか? オドオドしていたら余計変な目で見られるかもしれない。 相手が何者だろうと相手にしてはダメだと思った。

僕は高橋が完食するまで平然を装い、相手の動向を窺った。 しかし座ってこちらを見ているだけで特段おかしな行動はしなかった。

食事を済まし支払いをすると、店の外に出た。 すると窓越しにあのキャップの男が立ち上がるのが見える。 やはりこちらの動きを観察していたのだろう。

何者かは知らないが、関わるのはごめんだ。 素早く高橋の車に乗り込むと、リクライニングを倒し身を隠した。 その後キャップの男はどうなったかは知らない。 そのまま帰宅し、沈むようにベッドに潜り込んだ。

これで秋山のことは全て終わったと思った。 借金は残っていたが、口約束だし、借用書も何もない。

高橋も借金のことについては他言はしないと約束してくれた。

確かに殺してしまったことはショックだし、警察の目が気になるといえば気になる。 だが僕が犯人だという証左はでてこないだろう。 心配することは何もない。 秋山には悪いが却って死んでくれた方がなにかとよかったのかもしれない。 これで心配事が一つ減ってくれたのだから。

次の日僕の読みは完全に外れていたことが痛感させる出来事が起こった。 何も終わってはいなかったのだ。 逆にこれから始まりですよといわんばかりに、あのキャップの男が現れた。

それは午前中の仕事を終え、近くの食堂で昼飯をとっているときだった。 向かえの席に突然キャップの男が座ってきた。 服装こそネルシャツにチノパンと昨日とは違うが帽子には見覚えがあった。 二十代後半だろうか。 切れ長の目の精悍な顔立ちをしている。 雰囲気からして間違いなく昨日の男だとわかった。

「こんにちは、柿崎隼人さんですよね」と声をかけてくると男は返事を待たずに一枚の名刺を取り出した。

「忙しいところすみません。 わたくし瀬戸内興信所の相模と申します」と答え、キャップのツバを持ち上げ軽く会釈した。

不味い予感がした。 何か名状しがたい不安に駆られる。

「興信所が何の用ですか」

怪訝な顔でそう答えると相模は給仕が運んできた水を一気に飲み干し、唐揚げ定食を頼んだ。

「実はある事件を調べているのですが、それにあなたのお兄さん、大和さんが関係してましてね。 ちょっと参考までにお話を」

「兄は先月死にましたけども。 それに参考までにしては少し不躾ではありませんか?」

「すみません。 育ちが悪いもので礼節というものを知らなくて」

そういうと相模はニヤリと嫌な笑みを見せる。

「それにその事件にはあなたも関係してるかもしれなくてね。 すみませんけど二、三質問に答えてほしいんですよ」

相模はネルシャツの胸ポケットから小さな手帳とボールペンを取り出した。

「兄の死に関しては何も知りませんよ。 自殺みたいだし精神的にまいってたみたいですからね。 それにしばらく交流はありませんでした。 ですから私は無関係です」

「それは知ってます。 言い方が悪かったですかね。 言い直しましょう、あなたと大和さんの能力について調べてると言っておきましょうか。 それで人殺しもできるんでしょう?」

相模はそう言うと白い歯をニッと見せ、侮蔑と非難が入り混じったような眼差しで睨んできた。

胸が高鳴った。 心臓を鷲掴みにされる思いだった。 当惑し、視界が途切れ、店の中が一転して取り調べ室のように感じられた。

何故この男があの能力を知っているのだろうか? あの現象は本人以外には知覚できないはずだ。 いや、正確には人間にはだ。 コイツも犬と同じであの水の球が見えるというのだろうか?

「能力とは何のことでしょう? 何を言っているのか僕にはサッパリわかりませんが」

嫌な汗が額から吹き出してきていた。 相手がどこまで知っているかわからないが、下手なことは言わない方がいいだろう。 取り敢えずしらばっくれる方が得策だと考えた。

相模は店の中を一度見回すと口に手を当て小声で詰め寄った。

「実は秋山さんが亡くなった駐車場に私もいたんですよ。 あなたの目の前で倒れる秋山さんをこの目で見ていたんです。 知ってますよ。 あなたが殺したんでしょう」

「証拠はあるんですか?」

若干声が震えていた。 殺したという言葉が僕の心を抉っていた。 この男はマズイと言いたげに心臓が早鐘を打っている。

「ありませんよ。 でも確証はあります。 でも警察には言いませんよ。 言ったところで信じてもらえないでしょう。 それよりも僕が興味があるのはあなた方の能力の方なんです」

「場所をかえましょう」

咄嗟にそう言った。 ここでこれ以上の話をするには賢明ではないと判断した。 人目が多過ぎるし、今の精神状態では何を口走るかわからない。

僕は自分の名刺の裏に携帯の番号を書きそれを渡すと「夜七時に秋山が死んだショッピングモールの駐車場に来てください」と言って席を立った。

彼はそれ以上何も言わずに深く頷くだけだった。

店を出ると、足が小刻みに震えていた。 きっと知らぬ存ぜぬで逃げ果せる相手ではないだろう。 あいつは全てを知っている。 漠然とそう思った。

それから午後の仕事は散々だった。 全く手に付かずミスの連発。 上司からは手酷く叱られた。 叱責されてる最中でさえ、上の空で何を詰られたのかさえわからない始末だった。

皆の白い視線がまるで犯罪者を見るような視線に感じられ、仕事が終わるまで自分のデスクで小さくなって耐えていた。

3

約束の十五分前にはもうショッピングモールの駐車場に着いていた。 なるべくわかりやすい所がいいだろうと思い、駐車場の一番端に車を停め、相模からもらった名刺に書かれた携帯番号をスマホに登録した。

駐車場は仕事帰りなどの買い物客でかなり混んでいる。 空きがないのかグルグルと同じ所を彷徨ってる車までいるくらいだ。 人混みの嫌いな僕にとっては何か用事がなければ絶対に近づかない、無縁な場所の一つである。

(早く来すぎたか)心の中で呟き、手持ち無沙汰からカーラジオをいれた。 丁度天気予報がやっており今晩から明日未明にかけて大雨の予報だと伝えている。 フロントガラスから空を見上げると星一つ見えない暗闇が広がっていた。 今にも雨と一緒に暗闇まで降ってきそうな雰囲気に思わずブルっと身震いをした。

昔から暗い所は苦手なのだ。 よく兄に押入れに閉じ込められ泣かされた記憶があり、闇恐怖症といっても過言ではない。 一瞬、明るい建物がある方に場所を移動しようかとも思ったが、相手からわからなかったら面倒くさいと思い仕方なく断念した。

恐怖を振り払うかのように「今晩は冷え込むな」と独りごちてヒーターの調節つまみを最大まで一気に回す。

(奴の目的はなんなんだろうか?)

ふと思った。 興信所ということも少し引っかかっていた。

奴が仕事で動いているなら誰かに依頼されているということだ。 そんな依頼をする人間というのは限られてくるだろう。 大抵は事件の被害者の親族や恋人などだ。

(秋山の親族だろうか?)

僕は通夜の席でのことを思い出していた。 そんな素振りを見せる者は誰一人としていなかったと思う。 ということは秋山の親族ではないということか。 そういえば兄のことも確か言っていた。 そうなるとやはり秋山は無関係だ。 ではいったいだれが?

取り敢えずは相手の出方を見るしかない。 今度は冷静に対処しよう。 余計なことを言えば墓穴を掘り兼ねない。

思慮に耽っているとカーラジオの時報が午後七時をしらせた。 約束の時間だ。

そんな折り、けたたましい音量でスマホのベルの音が鳴り響いた。 心臓が喉から突き出そうなくらいビックリして身体が飛び跳ねる。 胸を手で押さえながら苦々しくスマホの画面を見ると、相模の名前がディスプレイに映し出されていた。

「クソッ、心臓に悪い着信音だ」

息を整えながら苛々した手つきで電話に出る。

「どこにいますー?」

妙に間延びした間抜けな声が受話口の向こうから響いてきた。 その声音に肩透かしをくらい、緊張が一気に解けてしまった。 まるで友人にでも電話をしているかのようだ。

ふざけるな、と一括してやりたい気持ちを抑え、平坦な声で「北東の端に黒いSーMXが止まってます。 ナンバーは〇〇―22です。 その中にいますよ」と返した。

「SーMXぅ?」

いちいち癪に触る言い方だと思いながらも「小型のトールワゴンです」と返答した。

「ああ… すみませんね。 車には疎くて」

電話を切ると、ふうっと溜息を一つはいた。 ここからが正念場だ、ヘマはできない。 そう自分に言い聞かせるとコンビニで買ってきたお茶で喉を潤し、深呼吸して改めて自分を鼓舞した。

ほどなくして助手席側ドアが軽くノックされ相模がやってきた。 窓を開け「どうぞ」と助手席へと促す。

「いやいや、夜になると冷え込みますね」

相模がそう言うとベージュのチェスターコートの前を搔き合せて車に乗り込む。 同時に湿気を孕んだ夜気の匂いが鼻を掠めた。

「すみませんね、お忙しいでしょうに」

全く悪びれる様子もなく笑顔でそう言うと、返事を待たずに「いきなりですが、単刀直入にいきましょう。 あなたの能力で秋山さんは死にましたね?」と言ってきた。

乗り込んでくるなり本当に失礼な男だと思い、睨み返そうかと思ったが、うしろめたさが邪魔をして身体が上手く動かず、黙って俯くことしかできなかった。

「ごめんなさい。 質問を変えましょう。 安心してください、あなたが秋山さんを殺したか、どうかなんて私は興味がないんです。 聞きたいのは空中に現れる巨大な水の球のようなものが見えるかどうかが聞きたいんです」

安堵と同時に驚愕の叫びが身体の奥から湧き上がった。

(何故コイツが水の球を知っているのだ)

冷静を装い「水の球とは?」と訊き返す。

「失礼。 端的に言い過ぎましたね。 水の球とは幻覚に近いものです。 人によって見る条件は若干違いますが、基本的に茫然自失してる時に見るそうです。 しかし幻覚ではありません、しっかりと実在する物体なんです。 その水の球は上から降ってきて地面に接触すると破裂します。 それに当たり、怪我をしたり死亡した報告例もあります。 秋山さんの件もその可能性があるもので」

ここまで調べてるとは思わなかった。 しかし…

「何故あなたはそんなに水の球に詳しいんですか? あれは本人にしか知覚できないと思いますが」

危険を顧みず思わず口走っていた。 我知らず上半身を相模の方に向けている。

「やはり能力があるんですね? 実は私も幼い時一度だけ見たことがありましてね。 興味があって色々調べてるんですよ」

僕の動きに呼応するかのように相模も上半身をこちらに向けた。 その表情には薄い笑みが張り付いている。

「能力かどうかはしりませんが、何度も見たことがあります。 でも見えるだけです。 他には何もできません」

「秋山さんのときもですか?」

「ええ… あの時もそうです。 操ろうと思ったわけじゃありません。 本当に見えるだけなんです」

いつのまにか不思議と警戒心は無くなっていた。 まだ緊張は残っているが笑顔までつくっている自分がいる。 共感というのだろうか、兄以外で水の球の話ができたのが純粋に嬉しかっただけかもしれない。

「では話は早い。 最近動画サイトにもちょくちょくあがるのですが、何も無いのにいきなり物が潰れたり。 車が吹っ飛んだり そういう動画はご存知ですか?」

固い表情で相模が見据えてきた。

「ええ… 知ってます。 何度か見たことあります。 でもあれって作り物でしょう?」

鼻で笑い、カーラジオのボリュームをしぼった。

「ほとんどがね。 でも本物もあります。 その中に水の球が原因だと思われる映像もいくつかあります」

「本当ですか?」

感興をそそられる。 動画サイトはその手の映像が好きで色々見てきたが、それは盲点だった。 確かに他にも能力がある者が世界中にいても不思議ではない。 ネットを駆使すればもっと有益な情報も得られるかもしれない。

興奮して喋っていたのか、声が上ずり、鼻の下にうっすらと汗が滲んできていた。 ヒーターを少し下げ、お茶を一口飲んで、再び喉を潤す。

「質問をかえましょう。 あなたは幼い頃貧乏でしたか?」

この質問にどんな真意があるのかわからないが、訝しんで「何の関係が?」と聞き返した。

「実は水の球を見える人というのは雑草などを食べて生活してた方が非常に多いんです。 ちなみに私は貧乏って訳じゃなんですが、幼い頃遊びで雑草を何度か食ったことがありましてね。 それが原因でたまたま見えたのかもしれません」

はあ、と生返事をし、昔の食生活を思い出す。

「そういえば、確かによく母が裏庭で野草を摘んでいました。 その中の何点かは食卓に上がってたと思います。 よく食べたのはクビナと言う草でした。 正式名称はしりませんが山菜の行者ニンニクに形が似てたと思います。 行者ニンニクよりも茎が短くて葉が大きいんですがね 、僕は少し苦味があって苦手でしたが兄が大好物でしたね」

「クビナですか。 聞いたことありませんね」

相模がそう言って小首を傾げた。

「もしかしたら地方で言い方が違うかもしれません。 私が幼い頃住んでたのは道東にある山間の小さな田舎町でした。 他の所では何て名称かはわかりません。 でもそのクビナにそんな効能があるとでも?」

「それはまだハッキリわかりませんが可能性はあります。 野草の中にも様々な効能があるみたいですからね。 昔から薬として用いられたり、逆に毒を持ってるやつもあります。 私は最初、水の球は野草が引き起こす幻覚と考えていました。 ほとんどが私と一緒で水の球を見たことがあるってだけの報告が大多数だったからです。 しかし、先ほども言いましたがあなたや大和さん、他にも数件、事件や事故を起こす症例があるんです」

「兄がですか?」

僕は面食らって訊き返した。

「ご存知ないんですか? 大和さんの周りでは不可解な事故が多発してたんですよ」

「知りませんでした。 どんなことがあったんですか?」

「原因不明の死亡事故7件。 器物損壊が10件。 どれも何かに上から押しつぶされた跡があるというものでした。 大和さんは死ぬ三ヶ月前に仕事を辞めていますね。 きっと仕事どころじゃなくなったんでしょう。 自分の能力を制御できずに苦しんだんだと思います」

相模がそう言うと、鞄から手帳を取りだし、ページを操った。

「近隣の人の話では、ノイローゼのようにブツブツと独りごとを言って昼間あてもなくその辺を徘徊しているのを頻繁に目撃されてます。 他にもですね」と、言って付箋が付いているページを開くと「大和さんの直ぐ前で車が一台潰れたところを近所の主婦が目撃しています。 他にも人が突然倒れたあと、やめてくれと大声で叫び、走り去った大和さんを見た人もいます。 ちなみに大和さんが自殺した後、この手の事件がピタリとなくなりました」

話を聞いて愕然としていた。 兄は自分の能力の暴走を抑えることができず、それで自ら死を選び破壊を止めたんだ。 これでようやく死の原因らしいものがわかった。

だが死ぬことはなかったのではないだろうか? 兄にどんな恐ろしい能力があったかはわからない。 でも病院に入るなり、何か対処方法があったはずだ。

思わず目頭が熱くなり、右手で目の周りを抑えた。

「そうだったんですか。 全然知りませんでした。 ただ精神的に弱って死んだものだと」

と、言って兄の遺書を思い出し、そして絶句した。

『草を食べてはいけない』

「相模さん。 兄の遺書をご存知ですか?」

詰問するように身を乗り出し、相模の顔を凝視した。

「ええ。知ってます。 『草を食べてはいけない』でしょ。 もしかしたらお兄さんは大人になっても野草を好んで食べていたのかもしれませんね。 それで大変な能力を手に入れてしまった」

「多分その野草はクビナだと思います。 兄は野菜嫌いで、食べれる野菜は数えるほどです。 その中でも菜っ葉類は、ほうれん草とクビナだけです。 ほうれん草でそんな恐ろしい能力は得られない」

そう言った途端、突然フロントガラスを激しく叩かれ、軽く上半身が跳ねた。 二人で顔を向けると、大粒の雨がバチバチと音を立てて降り注いでいる。 予報が当たったなと心で呟き、再び相模に顔を向けた。

「今の話は本当ですか? それならクビナの可能性が高いですね。 調べてみましょう」

そう相模が言って手帳になにかを一心に書き始めた。

「ところで、そのクビナが原因だとしたら、あなたはどうします… 更に食べてみたいですか?」

相模は書き続けながら目線を僕に向けた。 その表情は固く厳しく、鬼気迫る感じだ。 しかし、その瞳の奥ではどこか複雑な色をうつしている。

「いえ、食べませんよ。 僕は兄のようにはなりたくない」

「そうですか。 安心しました」

「相模さんはどうなんです? 一度ご自分で試してみたらいかがですか。 不思議な世界に入れるかもしれませんよ」

「いえ、辞めときます。 私も野菜嫌いなんでね。 幼い時、野草を食べて嘔吐したことがあるんですよ。 それから根菜以外の野菜は食べれなくなりました。 それに下手に食べて制御できなくなると恐いですからね」

そう言うと「ハハハ」と感情のない笑い声を上げた。

しばらく二人の間に沈黙が続いた。 車内にはカーラジオに混じって雨音が響いている。

相模は何を考えているのだろうか? クビナの効果を調べていったいどうするつもりなのだろう。 漠然とそう思った時 「そろそろおいとましましょうかね。 これ以上話しても良い情報が得られそうにないみたいですから」と言って相模が手帳を鞄にしまいはじめた。

「最後に聞いていいですか。 これは誰の依頼なんですか?」

「誰の依頼でもないですよ。趣味です。言ったでしょう、興味があって調べてると」

「興信所の名刺をいただいたのでてっきり」

「こうする方が情報を引き出しやすいんですよ。 でも偽物じゃないですよ。 私の本職ですから」

「なるほど。 職権乱用ってところですか。 あなたも悪い人だ」

「へへ、お互い様でしょう」

そう言うと相模はキャップを深くかぶり直し、「じゃあ、私はこれで」と、言って一礼し助手席のドアを勢いよく開けて雨の降りしきる闇の中へと溶けるように消えていった。

フゥーっと深いため息をつく。 一時はどうなるか心配したが、全く杞憂に終わった。 これで危惧する問題が全て消えさった。 それどころか奴は有用な情報をもたらしてくれた。

フフッ——我知らず笑いがこみ上げてくる。 僕は喜びに打ち震えていた。 こんな愉快なことはないだろう。 草を食べるだけで素晴らしい力が手に入るのだ。 これを放っておくのは愚の骨頂ではないか。

明日まで待つのももどかしい、今すぐクビナを取りに車を走らせたい気分だった。 しかし、この闇の中では全く見つけられる自信がない。 次々沸き起こる狂熱を冷ますように首を大きく左右に振った。 何も焦ることはない。時間はタップリとあるはずだ。 明日から僕は人智を超えた存在になるのだ。 邪魔するものは潰せばいい。

漆黒の中でいっそう強くなった雨が激しい音を立ててSーMXをいつまでも打ちつづけていた。

次の日、僕は体調不良を口実に会社を休んだ。 この忙しい時期によくのうのうと休めたもんだなと後から上司に小言を言われるのは目に見えていたが、それよりもクビナの魅力に心と身体は取り憑かれ、我慢出来ずにいた。

興奮し過ぎて碌に昨夜は眠れなかったくらいだ。 まるで遠足前日の小学生のようだ、と一人で苦笑し大きなリュックにカッパや包丁を詰め込んでいく。

こんな準備をするなんていつ以来だったろうか。 昔はよく旅が好きで一人でワクワクしながら用意をしていた。 専ら一人だったが楽しかった。 彼女なんていなかったし、団体行動が苦手だった為、誰かと連れ立って何処かに行くということもほぼなかった。 いつも数人の友人もいたが別にいなくても平気だった。 寂しいと思ったことはない。

「これでよし」

全ての道具を鞄に詰め込むと指差し確認し、SーMXの後部座席に積んで、運転席に乗り込んだ。 目的地をカーナビに登録する。 準備は万端、季節外れの山菜採りに行く気分だった。

目指すは福島県の山間の街、兄が住んでいた場所だ。

一晩考えて導き出した答えがそこだった。 なんぼ野草と言っても近隣では、クビナを目撃したことはなかったし、今から幼い頃暮らしていた北海道に向かうのは現実的ではない。 東京から少し離れた山の中で探そうとも思ったが、見つけられなかったことを考慮すると、やはり頻繁にクビナを採取していたであろう兄が生活していた土地で探すのが最も効率がよいのではないかと思い立ったのである。

フロントガラスには昨夜から続く大粒の雨が激しく音を立てて降り注いでいた。 生憎の雨だがその足取りは軽い。

実家から一分とかからない場所で大量に生えていた雑草だったのだから、山に向かえばどこにでも生えているだろう。 そんな楽観的な考えがあったのである。

ただ一つ気掛かりなのは何処にも生えていなかった時だ。

その時は福島で一泊し無理矢理仕事を休もうという覚悟もあった。 最悪会社など綺麗さっぱり辞めてしまって実家の北海道に戻るのもクビナ採取には妙策かもしれないと思っていた。

それに元々仕事など好きではなかった。 生きていくために仕方なく通ってるようなものだ。 今の会社に入ったのは三年前、小さな管理会社だった。 働き始めはそれなりに友人もでき楽しかった。 だがそれも日毎に仕事が増やされ、サービス残業は当たり前になり、今では定時に帰れるなんてほとんどない。 だから遊ぶ暇なども碌になかった。 所謂ブラック会社なのだ。

去年の夏頃だっただろうか、部署こそ違うが同期だった男が死んだ。 過労の為精神的に追い込まれての自殺だった。

同期だったこともあり、なにかと相談にものっていた。 あの時話をよく聞いてやればよかったと今更ながら後悔している。 だが僕自身も激務の為、そんな余裕などなかった。

その後会社はこのことを公にせず、あやふやにもみ消した。 そんな会社なのだから、なんの未練もない。 なんだったら今すぐにでも辞めてしまいたい気分だ。

まあ、いい。 取り敢えずはクビナだ。 仕事のことはそのあとでゆっくり考えても遅くはないだろう。 能力さえ手に入れば、あとはどうにでもなるような気がした。

心は浮かれていた。 余人にはない能力。 なんて素晴らしい響きだろうか。 昔から人より優れてる能力など、何一つ持ったためしがなかった。 いつも劣等感に苛まれていた。 だから余計クビナの能力には心引かれたのかもしれない。

SーMXは雨の中爆音を轟かせながら北へと突き進んだ。

福島県に到着した頃には雨は小雨になっていた。 車内には間歇ワイパーの断続的な音を聾するほどの爆音、DARK TRANQUILLITYのFORWARD MOMENTUMがメランコリックな旋律を奏でている。

まずは兄の住んでいたマンションに向かい、そこを起点に散策を開始する予定だった。

できれば一日で大量に採って帰りたい。 その為に空いた米袋を三つも用意してきた。 多分袋一つ分も採ればいい時間になってしまうだろうが、あとの袋は予備だ。 あまり時間はないかもしれない。 急ごう。 更にアクセルを踏み込み次々と無謀ともいえる追い越しをかけていった。

兄の住んでいたマンションについた時には正午を少し過ぎていた。 住所は知ってはいたがここに実際にくるのは初めてである。 兄とは二十歳まで実家で一緒に暮らしていた。 喧嘩はあまりしない、わりと仲が良かった兄弟だったと思う。 その兄が地元でボイラーの資格を取るとすぐに福島で仕事をみつけ、実家をでていった。 それからは会ってはいない。 お互い忙しく、盆も正月も休みのない兄とはなかなか会う機会がなかった。

(まさか、マンションの周りにはクビナは生えていないだろうな?)

そう思い、取り敢えずマンションの周りを散策しながら、外観を眺めた。 かなり大きなマンションのようだ。 なんとわなしに中を覗くと、オートロックなどはないが、エントランスが広くて吹き抜けになっている。 外観も水色と青、緑の三色で構成されており、なかなか瀟洒で立派なマンションである。

僕の住んでいる外階段の安普請のアパートとは雲泥の差だな、と独白し、結局クビナは見つけれなかったので、車に乗り込み再び出発した。

遠くには会津磐梯山が見えていた。 そちらにハンドルをきり、アクセルを踏んだ。

山に向かえばいいだろう。 ほとんど当てずっぽうだった。 クビナがどんなところに群生してるかなどわからない。 ネットでも調べてみたが、北海道がヒットするだけで、本州での情報は得られなかった。

多分こちらでは呼び方が違うのだろう。 ありそうな所を手当たり次第探すしかない。 兄が食べていたのなら、そう遠くない所にあるはずだと見当をつけていた。

三十分くらい走っただろうか。 なだらかな丘陵地帯に出た。 一面草原で、緑色の絨毯の中に枯れ草の茶色が散見できる。 窓を開けると細雨と一緒に冷たい風が入ってきて、思わず顔をしかめた。

周りには家や建物もなく、交通量もなさそうだ。 ここならいいだろう。 山勘だが、ありそうな気がする。

車を路肩に停めるとかっぱを羽織り、長靴に履き替えリュックから包丁とペットボトルの水を取り出して、車を降りた。

クビナを見つけるのが第一目標だ。 下生えの灌木、雑草を掻き分けて道無き道を突き進み目を凝らした。 一本一本入念に視線を走らせ、クビナの葉を探す。

幼い頃にしか見ていないが、その形は今でもハッキリと脳裏に刻まれている。 もっとも苦くて食べずらい葉っぱということで覚えているのだが、今ではその苦味のお陰でこのように探せるのだなと皮肉に感じていた。

そう簡単には見つからないかと軽く溜息を吐き心を落ち着かせると、ゆっくりと辺りを見回した。すると小川が流れてる向こうに見覚えのある草が彼方此方に散在してるのが目についた。

小川を越え、近づいてみると非常に似ている。

これはもしやと思い、一つ毟って目の前にもってくると、草独特の臭いが鼻を刺激した。 行者ニンニクの嫌な臭いではない。 そもそも季節が違う。 こんな秋の福島県に行者ニンニクなど生えてはいないだろう。 きっとクビナに違いない。 これなら殊の外楽に集めることができそうだ。

そう思い、僕は夢中でクビナをとりはじめた。 袋がいっぱいになると一度、車に戻り新しい袋を手に取り、とって返す。 時間など忘れていた。 気がつくと雨はいつのまにか上がっており、 秋の夕闇が迫ってきていた。 東の空には大きな虹が綺麗に咲いている。

流石に袋三つは無理だなと自嘲し、暗くなるまで取れるだけ取ろうと思い夢中で手を動かした。

袋二つとるので精一杯だった。

辺りはすっかり闇が覆い尽くし、手元まで見えなくなってきている。 危なく何度か自分の手を包丁で切るところだった。 腕時計を見ると午後四時半を示している。 夜目ではこれが限界かもしれない。 身体も疲れたと悲鳴をあげていた。 潮時だろう。

来た道を戻りながら色々料理の方法を考えることにした。

苦手だったが幼い頃はよく御浸しにして食べさせられていた。 鰹節をふりかけ、上から醤油を垂らすだけ。とてもシンプルな料理法だ。 しかしそれだけならやはり苦味があり食べづらかった。

もっと食べやすい方法を模索してみようか。 今は色々調味料もあるし、ネットで調べればいくらでも料理方法も見つかるはずだ。 その中で食べやすい方法を選んで効率的に摂取するのが一番いいだろう。

車に戻るとSーMXの後ろに一台白っぽい車が停まっていた。 反射的に袋を後ろ手に隠すと、中の様子を窺った。 一瞬この土地の所有者かと思ったが、車から降りてきた男を見て僕は当惑した。

キャップを目深に被り、ベージュのチェスターコートを羽織っている。 間違いなく、昨日クビナについて話し合った男、相模だった。

僕は警戒しながら彼に近付いた。

「ごめんなさいね。 もしやと思ってあとをつけさせてもらいました。 そんなに取ってどうするつもりですか?」

開口一番彼がそう言うと、白い歯を見せ不敵な笑みを浮かべた。 闇の中で歯だけが浮き上がって見える。

「あまり一度に口に入れない方が身の為ですよ。 安全かどうかもわからないんだ。 もしかしたら死ぬ恐れもある」

「クビナは昔よく食べさせられてました。 子供の身体でも大丈夫だったのなら、大人では心配ないでしょう」

僕は少し強い口調で言った。 何故かここで負けては行けないような気がして、思わず硬い態度になる。

「そうかもしれませんが。 その量を一人で食べるつもりですか? 多分大変な目にあいますよ。 悪いことは言わない、やめた方がいい」

「大丈夫ですよ。 兄とは違う、僕は制御する自信がある」

なんの根拠もなかった。 口から出た単なるでまかせだ。

「それを渡してください」

相模がジリジリと間合いを詰める。

「渡したら、相模さんはどうするつもりですか?」

「適切に処分します。 私はあなたを止めに来たんです。 簡単に制御できるなら、あんなに事故や事件など起きてませんよ」

成る程。 昨日のあの達観したような目は、僕の行動を読んでいた輝きだったのか。 そう思い袋を掴む手に力が入る。

「ここでこのクビナを渡しても? また奥に行ったら沢山生えてます。 無駄ですよ。 僕を止めることはできない」

「その時は警察に行って洗いざらい話します」

「水の球で殺人をしたなんて、そんな荒唐無稽な話、信じてもらえるとでも?」

「警察もただの馬鹿じゃないでしょう。 クビナを研究機関に調べてもらって、その結果を持っていけば、あなたの殺人を立証できるではずです」

僕は鼻で笑った。 相模の考えは全く馬鹿げてる。

「例え、調べてクビナの効能をわかったところで公にするでしょうか? 僕はしないと思う。どうせ、いいように学者の実験に使われて、クビナは猛毒があるので食べてはいけないと声明をだすのが関の山でしょう」

風が強くなってきた。 相模はキャップを飛ばされそうになり、手でそれをおさえた。

「確かにそうかもしれない。 でもそれでいいと思ってます。 これ以上妹のように死人がでるのは止めたいんだ。 私の妹はあなたのお兄さんに潰されたんですよ」

「嘘だろ。 証拠はあるのか?」

彼の言葉に愕然とし目を白黒させた。 怒りに満ちた眼差しが僕を貫いている。

「嘘じゃない。 証拠はないが確信はあります。 目撃者がいるんです。 妹が潰れた現場から逃げるように走り去る大和さんを見た人がいるんだ」

「……」

言葉を失っていた。 全身から力が抜け、袋を落としそうになり、慌てて両腕に力を込めた。

「妹は今年医科大学に入ったばかりでした。 将来は医療に携わる仕事につきたいと日々頑張っていたんです。 それがあの日突然なにもかもあなたのお兄さんに潰されたんです。 私が病院についた時には、もうグチャグチャに潰れていました。 綺麗な顔は見る影もなく、ひしゃげて、頭蓋が砕かれていたんです。 上半身もメチャクチャにひん曲がっていました。 あんな酷い状態なのに警察は碌に調べもせずに原因不明の事故死として処理したんです。 耐えられませんでした。 それで調べるとことにしたんです」

我知らず視線を相模から外していた。 自分に責任はないが正視に耐えない心境だった。それを知ってか知らずか相模が更にまくし立てる。

「色々調べているうちに福島県内で妹のような事件、事故が多発してることに気がついたんです。 それで近隣で聞き込みました。 半数以上の現場であなたのお兄さんらしき人物を目撃した人がいたんです。 それで大和さんに接触しようとしました。 ですがもう亡くなった後だったんです」

「ではもう気が済んだでしょう」

「ふざけないでください。 妹はもう戻ってこないんです。 気が済む訳がないでしょう」

相模の鬼気迫る表情に思わずたじろいだ。 風が一層強くなり、まるで彼の怒りを表してるように感じられる。

「僕を止めてもいつか誰かがクビナの効能に気が付いて、それを操ろうって奴が出てくるはずです。 ここで僕を止めても何の意味もない」

「そうならない為にもクビナの効能を公にしないといけないんです」

「そんなことはさせませんよ」

そう言って僕はやおらクビナを手に取ると、緩慢な動きで口へと入れた。生で食べると独特の苦味がダイレクトに口に広がる。 むせながらも携行していた水で流し込んだ。

「何をバカなことを。 やめなさい」

「近ずくな」

走り寄ってくる相模に向けて包丁を向けた。 ピタリと彼の動きが止まる。

「そんなことしても何にもならんだろう。やめなさい。 毒でもあったらどうするんだ?」

その言葉を無視するように次々とクビナを口へ詰め込んだ。 ひたすら水で流し込む。

「さあ、よこすんだ」と言って相模が両手を広げジリジリとにじり寄ってくる。

苦い。 本当に苦い。 そして不味い。 クビナの生というものは、こんなにも辛いものなのかと改めて思う。 普段なら絶対こんな食べ方はしないだろう。 胃液が上がってきそうな衝動にかられ、吐き気もろともクビナを水で押し流した。

次の瞬間ガクンと身体が震え、意識が飛んだ。 その場にぺたんと座り込み包丁を取り落としてしまう。

その隙を相模は見逃ないとばかりに、一気に間合いを詰めると包丁を拾い遠くへ投げ捨てた。 そしてそのまま僕の身体を抱き起こした。

「大丈夫ですか? クビナを全部吐き出すんだ」

僕の背中を何度も叩き、吐き出させようとする相模の手を僕は身体を捩って払いのけ、ゆっくりと立ち上がった。

(世界はなんて美しんだろう)

僕の眼前に広がる世界は今までとは比べものにならないくらい美しかった。

闇の中、色鮮やかな水の球があっちでもこっちでも音を立てて破裂している。 こんな世界は見たことがない。

幻想的な世界の中、相模が僕のことを見上げ、体をわななかせている。

「ダメですよ。 その力を使ってはダメだ。 まだ大丈夫。 一緒に病院に行きましょう」

相模の言葉はもう何も耳には入らなかった。

「まだ足りない。 もっとだ」

うわ言のように呟き、袋から次々にクビナを取って口に詰め込み水で落とす。 まるで一つの作業のようにそれを繰り返していた。

もう苦味は感じられなかった。 体がクビナに順応したかのように不思議と吐き気も起きない。 代わりに幸福感に満たされ、身体がフワフワと浮いている感覚だ。 もしかしたら脳がやられてしまったのかもしれない。 それもまた一興だと感じた。

この世のものとは思えないくらいの素晴らしい絶景の中に僕は佇んでいた。 何時間でも見ていられる。 僕はしばらくこの世界を堪能したくなった。

しかし、それを邪魔するかのように相模が僕の腕を掴み立ち上がった。

「やめてください。 それ以上やったらあなたもお兄さんと同じになってしまう」

「煩い」

反射的に手を払い後ろに飛び退くと、相模を睨み煩いハエは消えてしまえと心で唱えた。 次の瞬間バーンという轟音と共に僕の世界は跡形もなく砕け散った。

5

暗闇が支配していた。 耳の奥ではキーンと耳鳴りがしている。 時折突風が吹き、米袋をバタつかせる、その音が妙に寒々しく感じた。 どのくらい時間が経過したのだろうか?

一瞬だったような感じがするし、何時間も過ぎてしまったような気もする。 頭がボンヤリとして判然としない。

風が凪ぐと、生物がいなくなってしまったのではないかと錯覚を起こす程、あたりは静寂に包まれていた。 相模は何処に行ったのだろうか? 耳鳴りを振り払うかのように首を左右に巡らす。 たった今まで喚いてた男の姿は何処にも見えなくなっていた。 消えてしまったのだろうか? もしかしたら一人で帰ってしまったのかもしれない。 別に声なんてかけてもらわなくてもいいが、突然いなくなるのは少し感じが悪いだろう。 そう心で悪態をつき、クビナを詰めた袋を抱えるとゆっくりと歩きはじめた。

ふと顔を上げるとSーMXの後ろに白いステーションワゴンタイプの車が停まっている。 間違いない相模の車だ。

ということはまだ帰っていないのか?

振り返りもう一度首を巡らす。 やはり何処にも人影は見えなかった。 きっと小便でもしに何処かに行ってしまったのだろう。 少し待っていようかとも思ったがそんな義理もないと考え直し、採ってきた米袋を後部座席に詰め込むと、運転席に乗り込んだ。

凄まじい疲労感で急に眠気に襲われる。 ここでこのまま眠ってしまいたい衝動に駆られるが明日は仕事が待っていると考えると、急に使命感みたいなものが沸き起こり、頭を覚醒させた。

嗚呼っと思いっきり伸びをして、一度車から降りるとカッパと長靴を脱いで、後部座席に詰め込み、再び運転席に乗り込んだ。

「よし、帰ろう」と気合を入れると、スターターキーを回し、ヘッドライトをつけた。 闇を切り裂くような光が前方を照らし出す。 もう一度振り返りリアウインドウから相模の姿を探すが、漆黒の闇がそこにはあるだけだった。 諦めるように溜息を一つ吐くとアクセルを踏み込み、その場を後にした。

アパートに着いたのは日付がかわった午前一時を過ぎた頃だった。 疲労で何度も眠ってしまいそうになりながらも、辛うじて事故を起こさずに到着した。

クビナを台所に置くと、シャワーを浴びて、ベットに倒れこんだ。 もう動けない。 何だったら体調不良で仕事を休んでしまおうか。 そんな考えが頭をもたげた。

別に無理して行くような仕事でもない。 辞めてしまった方が楽になるかもしれない。 確かに生活はできなくなるが、実家に戻ればいいだけのことだ。 両親は電話でよく、いつでも戻ってこいと言ってくれていた。 僕の勤めてる会社がブラック企業だったのも理由の一つかもしれない。 いっそのこと辞めてしまおうか。 半ば本気で考えていた。

目を瞑ると余計なことを考える暇なく、沈むように眠りに落ちた。 よっぽど疲れていたのだろう。

朝起きると、身体が死ぬほど怠かった。 まるで一年分の怠さが身体にのしかかっている感覚だ。このまま惰眠を貪っていたい気分だったが、時計は朝六時を指している。 起きる時間だ。 仕方なく身体を起こすと、取り敢えず朝飯を食うことにした。 元々は朝飯を食う習慣がないのだが、昨日から碌に食事らしい食事を取っていなかったので、腹が空いていた。

台所に行くと、クビナを一握り掴み水で洗って、お湯に浸した。 手っ取り早いのはやはりお浸しだ。 醤油と鰹節を用意し、サトウのご飯をレンジに入れる。 冷蔵庫から卵を取り出し、鼻歌まじりにクビナを取り上げた。

我ながら栄養バランスの悪い食事だ。 ただの卵かけご飯に、クビナのお浸し。 昨日散々食ったクビナをまた食うには若干抵抗があるが、能力のためだ。 それに飯のおかずとして食ベなければいいのだ。 少々苦味のある薬と考えれば、少しは抵抗も和らぐだろう。 そう自分に言い聞かせ、次々に口に詰め込み上から卵かけご飯を流した。 味は変だが悪い食い合わせではないような気がする。

食い終わると食器を流しに置き、ソファーに横になった。 動くのが億劫だ。 全然怠さが抜けない。

(やはり今日も仕事を休もうか)

どうも気がのらない。 寝不足なうえに昨日の疲れが身体に残っている。 更に頭がぼおっとして、少し目眩もする。 こんなに具合が悪いのはいつ以来だっただろうか? 昔から身体が丈夫で病気らしい病気をした覚えはなかった。 高校の時、風邪で熱を出して寝込んだくらいか。

こんなに具合が悪いのは僕にとってはかなり重症だな。 そうおどけた考えで結論づけるとベッドにフラフラと歩き、身を投げ出した。 八時を過ぎたら会社に電話をかけて、休む旨を誰かに伝えよう。 その時間なら誰か彼かは出社してる筈だ。

寝返りをうち天井を見ると青い球と、ピンクの球が空中に浮かんでいた。

「家の中で見るのは初めてだな」と独りごちてそれをニヤニヤと見つめていた。 確実に能力が上がってきているような気がする。 やはり食べれば食べるだけ能力が上がるのだろう。

何かもっと効率よく摂取することはできないだろうか? そう思い立ち上がると、先程までべっとり張り付いていた怠さが嘘のようになくなっていた。 代わりに好奇心という名の活力が漲っている。 そのままベットの横にある机に座ると、ノートパソコンをたち上げた。

最初にクビナ料理と検索してみるが、ヒットしなかった。 そもそもクビナが食べられているものではなくて、幻覚作用がある毒草として、ネットにはあがっている。 これでは何度検索してみても、ヒットするわけがない。 やはりあの水の球は幻覚として認識されているのだ。

「まいったな」

一人呟き、ほうれん草の料理や水菜の料理など、適当に野菜料理を検索してみる。

(似たらくさいものなら大抵いけるだろう)

ノートパソコンを台所まで持っていきレシピを見ながら、早速料理に取り掛かった。

出来上がったらすぐに口に運び、味見してみる。 どの料理方法もわるくはなかった。

これなら飽きずに食べていけそうだ、と思いながら次々に口に放り込んでいった。 しばらくクビナ料理を満喫する。

気が付いたら八時を少し回っていた。 夢中で食っていたらしい。 慌てて、スマホを取り上げ、会社に電話をかける。

多分ぐちぐちと小言を言われるだろう、と覚悟していた。

何度目かのコール音の後、つながると社長が出た。 今日はついていないらしい。 選りに選って僕にとって一番苦手な男が出てしまったと心で嘆き、体調が優れないので休みたい旨を伝えた。

この社長というのは普段何を考えているのかサッパリ分からない男である。 突然怒り出したり、いきなり優しくなったり、気分屋な性分があり、とても付き合いづらいのだ。 しかもその社長の顔で会社が成り立っているのだから、誰も逆らえなかった。

社長が右を向けと言えば右を向かないといけないし、白のものを黒と言えば黒になってしまうのだ。

しかも食生活も変わっていて、肉や魚を一切食べないベジタリアンなのである。 その為、忘年会や新年会などは悲惨だ。 嫌でも野菜中心のコース料理のある店ばかりになってしまう。 しかも強制参加なのだから、たまらない。 しかし、社員達は不平、不満があっても皆口に出さずにグッと我慢するしかできないのだ。

受話口の向こうではしばらく沈黙が続いた。

「もしもし?」

通話が切れてしまったと思い何度か呼びかける。

すると受話口の向こうから「給料はいらないということだね?」と意味不明の返事が返ってきた。

ブラックだ。 完全に真っ黒だと思った。 二日体調不良で休んだだけで給料カットはおかしいだろう。 例え冗談でも笑えない。 しかもこの男の場合、冗談ではないのだから、余計たちが悪い。

「かまいません、では辞めさせてもらいます。 後ほど荷物を取りに行きます」

僕はこの時箍が外れたような気がした。 クビナの能力の所為か強気な発言が口を突いて出る。

「辞めればいいてもんじゃないだろう」

忌々しい口調の返事が返ってきた。

売り言葉に買い言葉なのかもしれにないが、給料がもらえないというのに、働く奴はいないだろう。 本当にこの男はバカだ。 そう思い黙って通話を切った。 その後何度も会社から着信があったが、一度も電話にはでなかった。

あれで会社の社長というのだから、全くもって終わってる。 このまま会社に在籍してもいいことはなさそうだ。 それどころかどんどん悪くなる一方のような気がする。 僕は土屋のようにはなりたくない。 仕事漬けで一生を終わらしたくない。

そうだ、荷物を取りに行く時少しこの能力で脅かしてやろうか。 そうすればもう引き留められる心配もないだろう。

そう思いまたクビナを料理し始めた。 これから仕事を辞めに行くというのに、心は晴れやかだった。 我知らず鼻歌まで歌っている。

何も心配することはなかった。 もう水の球は何もしなくても薄っすら見え始めている。 少し意識を集中させると、それはスピードをあげて落下した。

この能力を完璧にものにするのもあと少しかもしれないな、と思いながら辞表を書くために便箋を用意しながら何気なくテレビのスイッチを入れた。

すると福島県で奇妙な遺体が発見されたというニュースがやっている。

見覚えのある草原をバックに謎の変死体というテロップがデカデカと映し出されていた。

遺体の身元は相模恭介二十七歳、とキャスターが告げている。

(ああ、相模のやつ死んだんだ)

内心呟き、テレビのボリュームをあげた。 生中継なのか昨日車を停めた場所ではリポーターが事件の概要を伝えていた。

きっと僕が殺してしまったんだろうな、とまるで他人事のように見つめ、何の感情も湧いてこない自分に半ば満足していた。

僕は人智を越える存在になったのだ。 人を殺したくらいで動揺してたらこの力は操れない。 自分なりにそう解釈し、その恐ろしい力に恍惚としていた。

「僕は変わるんだ」

カーテンを開けると昨日と打って変わって清々しい朝の光が射し込んできた。 まるでこれから歩み始める新しい世界の門出を、祝福しているかのように燦々と光輝いている。

僕はその光と水の球が織り成す恍惚境の世界に何時間も浸っていた。

会社に着いたのは午後二時を少し過ぎた時だった。

車内に入ると、もう噂になっているのか僕を顔を見た途端、皆顔をそらし、話しかけてもこない。 かまわず歩き続け、課長の席に向かうと辞表を机の上に叩きつけた。

「お世話になりました」

一応そう言って一礼するとくるりと向きをかえ、自分のデスクへと向かった。

社内は一瞬静寂に包まれた。 皆の奇異な目は僕に注がれる。

すると直ぐに後ろから僕を引き止める課長の怒声が聞こえた。しかし僕は敢えて無視して歩きつづけた。 課長の戯言などに付き合ってる暇はない。 どうせ難癖をつけて会社に留まらせる算段なのは目に見えている。

自分のデスクに行き荷物を整理し始めると、前から気味が悪いほどの笑顔で社長がやってきた。 普段僕の職場には社長は殆ど顔を見せない。 きっと課長が知らせたんだろう。

真っ直ぐ僕の方に近づいてくる。

「柿崎君。 辞めると言う前に一度話でもしないか。 頭を冷やしたまえ。 何か良い解決策があるはずだ」

頭を冷やさないといけないのはどっちだよと内心毒づきながら、視線を向けると、こめかみの辺りがピクピクとヒクついているのがわかった。 きっと笑顔の仮面の下には憤怒の炎が燃えているのだろう。

「今朝は私も言い過ぎた。 あやまるよ。 取り敢えず二人で話でもしないか? きっと良い解決策がでてくるよ」

まるで社交辞令のようにそう言うと、僕を社長室へと促した。

部屋に入ると社長は自分の席に座り、くるりと向きをこちらに向けた。 その視線はどこか高圧的で不遜だ。 やはりこの手の人間はどんな状況になってもへりくだる心を持ち合わせていないように感じる。

「今君に辞めてもらっては、うちの会社は困るのだよ。 少し考えてはくれないか」

顔では困った様子を出しているが、内心は別のことを考えているのだろう。 きっと代わりになる人間を連れてこいと言っているのだ。 そうすれば何も言わずにサヨナラをしてやる。 社長の言葉の端々にそのような色が感じられる。

(ふざけた野郎だ)

会社なんてこんなものかもしれない。 土屋の時もきっとそうだったのだろう。 代わりの人間がいたら彼は自殺などしなかったのかもしれない。 僕は社内で一番仲が良かった所為か色々と彼の相談にはのっていた。

自殺する二日前だっただろうか、土屋は「もう限界だ、会社を辞めたい。 辞めれないのなら死んでやる」と僕に電話で悲痛な思いをこぼしていた。 その時はなんとか宥め、電話を切ったのだが、徒労に終わってしまった。

土屋はそれから会社にこなくなった。 電話をしても通じなくなり。 心配になって様子を見に行ったら自殺していた。 自宅で首を括っていたのだ。

会社内でも一時は過労のために自殺したのではないかと騒がれた。 だがそれもいつのまにか噂で終わってしまっていた。 きっと箝口令がひかれたのだと思う。 土屋のことはあまり喋ってはいけないという内容の話が告達されていた。

昔からこの会社では簡単には辞められないという話はあった。 不文律のように皆知っていたのだと思う。 もっとも噂のようなものだと誰もが思っていたに違いない。 だが実際土屋のケースを見て、噂が本当のものになってしまっていた。

僕の知る限りではここ何年も辞めた者はいない。 厳密に言うと辞めたくても辞められないのだ。

一度噂になってしまった為か募集してもなかなか人は入ってこなかった。 ハローワークなどに募集は出しているが一向に人は集まらない。 辞めたいのなら誰か代わりになる人間を見つけなくてはならない。 だがこんな会社に入ってくる人間などいない。 だから辞めたくても無理なのだ。

「君の活躍は私の耳にも届いている。 もう少し給料の面でも優遇してもいいと思っているのだよ」

戯言にしか聞こえなかった。 何時間残業してると思っているのだ。 少々給料を上げたくらいでは割に合わない。

しかし、この社長がここまでの話をするのは以外だった。 てっきりただ圧力をかけてくるだけだと思っていた。

だが、裏を返せば、僕が辞めてしまったら代わりの人間を探すのがとても面倒くさいのと、あらぬ噂をばら撒かれるのではないかとゆう懸念があるので、辞めてもらったら困るというのが言外に見て取れた。

それに、僕の気持ちはもう決まっていた。 この能力があれば何も恐いものなどない。

「いえ、もう辞めると決めているので、申し訳ありませんが辞めさせていただきます。 勿論有給を使い今月いっぱいまでは席をおかしてもらいます」

「いい加減にしたまえ。 きみは常識というのがないのかね? 今日辞めますと言って今日辞めれると思っているのかね?」

ごちゃごちゃ煩い男だ。

「常識がないのはどっちでしょうか? 何時間も無給で残業させて一人過労死を出しておきながら、経営方針を改めない社長の方が常識がないと思いますが。 なんだったらマスコミに洗いざらい喋りましょうか? 僕は自殺した土屋とは仲が良かったから、彼に何があったか色々知っていますよ」

流石の社長も戸惑っているのかうわずった声で「脅迫かね? それに証拠はあるのか。 もう昔のことだ。 誰も相手にはしてくれないだろう。 それに私は警察関係に顔が効くのでね。 きみが一人叫んだところでどうにもならんのだよ」と言って扇子で顔を扇ぎ始めた。

どこまで腐ってるんだ、と睨みつけながら「とにかく辞めさせてもらいます」と言って踵を返した。

すると「許さん」と社長の怒号が部屋の中に響いた。

途端僕は切れた。 もう我慢ならない。 一度恐いおもいをさせてやろう。 そう思うと一瞬で社長室は水の球に覆われた。

振り向きざま机に視線を向ける。 次の瞬間、弾けるよなバーンという音と共に机は木っ端微塵に吹き飛んだ。 木の破片が四方八方に飛び散り、辺りには埃が舞っている。 その中で社長は唖然と椅子に腰掛けていた。 どうやら放心状態らしい。

僕は「次ふざけたこと言うと死にますよ」と恫喝し、社長室を後にした。

何事かと社員が社長室に集まってきていたが、僕はそれを尻目に自分のデスクへ行くと荷物を片付け始めた。 遠くで社長が何かを喚いていたがもう僕の耳には何も入ってはこない。

実家に戻ろう。 そして何かもっとわりにあった仕事を探そう。 今ならなんでも出来そうな気がする。 何だったら殺し屋というのも悪くない。

そうほくそ笑みながら荷物をまとめ会社を後にした。

外は陰気な社内と違って、秋の暖かな陽光が辺りを照らしていた。 爽やかな風が頬を掠めて心地よく感じる。

良いリスタートができそうだ。 そう思い、未来の設計図をあれこれ組み立てていた。

鼻歌交じりにSーMXの後部座席に荷物を入れ、ドアを閉めた。 途端、頭上から凄まじい轟音が鳴り響いた。 反射的に顔をあげると秋の爽やかな空はそこには見えなかった。

目の前には認識できない何か黒い塊が迫っている。 なんだろうと思った瞬間僕は意識を失った。

気がつくと全身に激痛が走り、身体が思うように動かせなくなっていた。 周りには血の海が広がりその中に僕は横たわっている。

どうなってるか理解できなかったが、助けを求めた。 しかし「う… う…」と掠れたうめき声しか出てこない。 視線を動かすとSーMXの横には隣のビルの巨大な看板がひしゃげた状態で転がっている。 どうやらあれが上から降ってきたらしい。

周りからは救急車呼べだの警察に連絡しろだの叫び声が聞こえる、その声の中に社長の「能力者はきみだけじゃないんだよ。 ただで辞めれると思っているのかね?」という声がハッキリと聞こえた。

Concrete
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