中編5
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青い顔

どこからか聞こえる小気味の良い音で目を覚ました。

カーテンを開くと爽やかな光が寝室いっぱいに差し込む。

洗面を済まし、ダイニングルームに入ると、先程から聞こえていたリズミカルな音の正体が分かった。妻の梨花が包丁を使っている音だ。

「おはよう」朝の挨拶をかけあい、ダイニングテーブルに置かれた朝刊を拾い上げ、リビングのソファーに座り新聞を広げた。ざっと記事に目を通していると、ふと窓の外が気になった。

窓から見える門扉の影に知った顔が覗いた。

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「あっ!」思わず声を出してしまってから、しまったと気付く。

「なによ急に、どうしたの?」梨花はフライパンに手をやりながら振り向いた。

俺は新聞に目を落とし、「いや、何でもない、──腰が少し痛んだだけだ」

「いやだ、まだ痛いの?」焼けるウインナーに顔を戻し梨花は背中で話す。

「いや、もうほとんど大丈夫だよ、ただたまに少し痛むだけ」──腰が痛いのは本当のことだ。

先週の土曜日のこと。妻の梨花が急に家庭菜園を始めたいなどと言い出した。庭の土を耕して欲しいと頼まれ、安請け合いしたのはいいが、ずっと使っていない土だから、なるべく深く掘ってと注文をつけられ、結局、丸1日かかった。おまけに腰を痛め、ようやく痛みもひいてきたところだった。

そんなことより、今のは確かに早苗だった。久しぶりに見た顔だが間違えるはずがない、ただ少し気になったのは何故か顔が酷く青白かった。

どういうつもりだあの女、家にまで押し掛けてきて──。

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早苗とは三年前から愛人関係だった。

発注ミスやらなにやらと早苗の失態が続いた時期があった。何か悩みでもあるのかと飲みに誘った。勿論その時は上司として話を聞こうと思っただけで、やましい気持ちなどこれっぽっちもなかった。

──なかったのだがその日、酔った勢いで男と女の関係になってしまった。

早苗は可愛らしい顔をしているのだが、根が暗く人付き合いも下手で、友人という友人もいなかった。俺が会いたいと思った時にいつでも会える。俺にとって都合の良い女だった。

そんな関係をずるずると三年も続けていたある日、早苗が面倒くさいことを言い出した。

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「奥さんと別れて一緒になって欲しい」

俺にとって早苗とは遊びで、彼女もそれを理解していると思っていた。勿論早苗に彼氏でも出来ればすっぱりと関係を断つつもりでいたし、この関係を終わりにしたいと言えばいつでも身を引くつもりでいた。

「奥さんとの子供もいないのだから、別れるのなんて簡単でしょ」

いつものホテルで髪をとかしながら鏡越しに早苗が言った。俺はその言葉で頭に血がのぼってしまった。

早苗との関係はあったが、俺は妻を思っていたし、子供だって何度も作る努力をしていた。それでも子宝に恵まれないことに、妻は悩み、苦しんでいた。

今まで一回だって妻の話などしたことがない早苗がそんなことを言い出したことで、俺達夫婦の領域に土足で足を踏み入れられたような気になり気分が悪くなった。

俺はその場で早苗にもうふたりで会うことはやめようと告げ、さっさと服を着た。ドアを開け部屋を出ていこうとする俺の背後で早苗が何か叫ぶように喋っていたが、その声は俺の耳には入ってはこなかった。

それからは、着信拒否。職場で顔を合わせても必要以上のことは何も話さないという姿勢をとり、7月の人事移動で俺の部署も代わり、早苗とは顔を合わすこともほとんどなくなった。

新しい部署の仕事に慣れ始めたころ、早苗が会社を辞めたと風のうわさで聞いた。これで完全に俺と早苗の縁は切れたのだと俺はひとり納得していた。──それなのに。

パジャマ姿のまま玄関を出て、家の周りを少し歩いてみたが、早苗らしき人物は見当たらなかった。

焼けたトーストのいい匂いがする家に戻り、ダイニングテーブルの椅子に腰をおろした。

気のせいだったかなと思い、テーブルのコーヒーに手を伸ばすが、その手が止まる。

リビングの庭へとつづく掃きだし窓。閉じられたレースのカーテンの裏に、──早苗がいた。

さっきと同じ無表情の青い顔。──じっとりとした目でこちらを見ている。

突然のことに言葉を失う。何が起きているのか理解ができなかったが、知った顔のせいか恐怖というよりリアルな夢でもみているような不思議な感じがした。

背中を向け朝食の支度をしている梨花になんとか声をかけようとしたその時、早苗の身体が少しずつ薄くなっていき、やがて、すぅっとその姿を消した。

今になって恐怖が襲ってきた。俺は両手で顔を覆いうつむく。

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死んだのか──早苗。俺のせいで......自殺? 俺を恨んで化けてでたのか......。

嘘だ! 嘘だ、嘘だ......、幻覚、目の錯覚に決まっている。

顔を覆った両手をゆっくりと離す。

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いつの間にかテーブルの向かいに梨花が座っていた。テーブルに置いたマグカップを両手で覆うように添えて、こちらに顔を向けている。

「あのね......」感情の読み取れない顔で梨花が口を開いた。

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「先週の金曜日に、足立さんて方が家に訪ねて来たの」足立──早苗の名字だ。

「その人、開口一番あなたと一緒になりたいから別れて欲しいなんて言い出してね、──あなたとは三年も前から男と女の仲だなんてことを言うのよ」

なんてことだ。まさか早苗がそんな行動にでるなんて。

「勿論──、わたしはそんな話信じなかったわよ、あなたが帰ったらちゃんと話しようと思ってた。でもね、あの人バッグから何かを取り出したの」

梨花は俺を見ているのだが、その目は俺の身体を透かし、どこか遠くを眺めているように見えた。

「テーブルの上に、投げ出すように置いたのは──母子手帳だったわ......あなたの子がお腹の中にいると、あの人、勝ち誇ったように言ったのよ──」

なんのことだ、俺はそんな話聞いていない......、いや、俺が聞かなかったんだ。早苗を避けてきた。

「わたし、あの人の勝ち誇った顔を見てたらなんだか目の前が真っ白になっちゃって──気がついたら足立さん......床に転がっていたわ」

「梨花......お前、まさか......」

「でもきっと大丈夫よ、あなたがあれだけ深く掘ってくれたんだもん、絶対大丈夫──」

まさかあれは、畑を作るためじゃなくて......。

目の前が暗くなった。近くにいる妻の声がまるで、遠くから聞こえてくるように感じる。

「あらあなた、どうしたの? そんなに蒼い顔をして──」

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