帰路 (元.屋根の上の荷物)

中編7
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帰路 (元.屋根の上の荷物)

 八月の夜、私の車は山道を家路についていた。キャッツアイや急カーブを示す反射板はおろか、道路灯すら十分になかった時分である。あまりにも暗い深夜の空は明るい。だというのに何も照らされず川向こうの山々も、時々それを遮る木々も輪郭がはっきりとするだけのものだった。

 連なる朽ちた地蔵がハイビームの中を流れた。道幅は狭くないのだが、雨季はよく崖と道路が崩れる上、所々で無機質に圧倒してくる巨岩の壁が続く『裏道』は私を含め、普段あまり人が走らない場所だった。久しぶりに通ってみようと閃いた私は道を塞ぐ工事用バリケードが路肩に除けられているのを見て、おっラッキー今日はついているな、などと思っていたがこれがそもそもの間違いだった。

 濡れる黄色い『!』看板が草むらの中にてらつく。以前はよく走る道だった。理由のない帰路は国道を遠回りするようになったのは、その融通の不安定さを嫌ってのこと。しかし、その日は道中に県を一つ挟む実家からの帰り道。自分一人の車中。窓を開け煙草の煙と暑い空気を交換しても、70キロで向かってくる風に対抗しカーステレオをかけても、疲れを忘れることはできなかった。早く家に帰りたかったのだ。

 遥か前方の右、茂る木々の隙間で赤いランプを見た。車だろう、距離は500メートルほどだろうか。いいペースで走れる人なら後ろにつけると楽だなと思ったが、木の葉の向こうをちらつくライトは割合早く近づきそうだ。

 ん?

 私がカーブを抜け、先行する車のテールが見え、それが次のカーブに消えていく一瞬の違和感。今ブレーキランプがえらく点滅していなかったか? 気のせいではない、私が左へ曲がる直前も、カーブミラーに点滅は映った。カーブを抜け二台の差は30メートル、正面にとらえ、正直故障だと思った。

 テールランプは連射するストロボのような速度で点滅した。それが止み、始まりを不規則に繰り返している。多分端子が外れかかって車体の振動をひらっているんだろう。当然だ、とても人間の筋肉に連動しているとは思えなかった。追い抜きざま、なにか合図でもして教えてやろう。固いギアを三速に入れた。

 さらに差が詰まっていきヘッドライトの明かりが濡れたリアウィンドウに当たりだす。

 光軸を変えようと持ち上る左腕が宙で止まった。光を反射する黒いセダン。その上。ベッドシーツのような白い布。それを捲り上げ、くの字に立てられた棒。ヘッドライトの映るガラス。光に浮かぶしゃもじのような瓜形には五本の指が付いていた。

 ………ひとだ……あれは。

 あッッ__________ッ______アはッ_____はッ_______あはッ_________ぁッハハハハハハハハハハハハハ!!ぁああああああああああああああああああああああああぁぁァァァ...

 絶対に風の音ではなかった。点滅するブレーキランプ。不思議と変化しない車間。心臓が再始動するようにドクンと高鳴る。末端まで圧送された血液でハンドルを持つ指がしびれている。時間が止まっていた気がする。二時を指す時計がまかれた左腕でハンドルを掴んだ。

 過度の酸素が回った頭は、もしかすると悪乗りであんなことをしているのではないか?という常識をどうしても捨てきれずにいた。まともになってから考えるとあんな細い四肢の人間、昼間に見ても異常だと思うはずなのに。

 黒いセダンはユラっとセンターラインを越える。スピードは確実に加速していた。さっきからずっとブレーキランプが点滅しているのにだ。緩いカーブを2つ抜けるころには二台の差は10車身以上まで広がっていた。目の前のスピードメーターは85キロ。

 道を知らない?ふざけている?もしくは飲酒?ブレーキそのものが壊れている?ならなぜアクセルを踏む?あくまで現実的に処理しようとする私に現実的な問題が思い起こされた。次はかなりきついエル字カーブだった。

 やばい。何度もパッシングを飛ばす。なんで止まらないんだ、曲がり角には『急カーブ注意』と書かれた看板だってある。

 必死にクラクションを叩いていた。

 遠心力で片方のタイヤが地面から離れていた。カーブに消える瞬間、はためく髪の長い頭が見えた気がした。

 ガシャンガシャン

 すべてのガードレールが激しく振動した。

 全てを察した私の耳元には心臓があり、色々な音が残響していた。ギアを一速まで落としカーブを回っていく。そこに車は無かった。割れたサイドミラー。アスファルトに残った傷跡。どこのものともわからない外装とガラス、ライトの欠片。そしてガードレールはその上をなにかが転がったかのように縦にひしゃげていた。向こうは暗い、崖だった。

 ぱきりぱきり。ゆっくりとタイヤが破片を踏む。その場には私のかけていた場違いなカーステレオしか流れていなかった。

 レバーをニュートラルにいれ、ドアポケットから携帯を抜き出

 ドバンッ! バタンッ! 

 車全体に大きな衝撃。シートの上で私は飛び上がり携帯が助手席のほうへ転がっていった。

 首と背中の筋が悲鳴を上げている。予感があった。

 パタン、ペタン。左右のドア上部、私の目の前で指が車内に入ってきた。第一関節から潰れ肉と骨が絡み合った人差し指も、どう考えても半ばで折れている中指と薬指も爪の浮いた小指も本当に真っ白だった。

 車内でゴトっと音がした。かと思うと景色が動きはじめ、タイヤが小石と車の破片を踏み出した。ギアが一速に入っている。

 嘘だろ

 確かめるようにブレーキを踏みなおす、効かない

 サイドブレーキのレバーを限界まで引く、止まらない

 シートベルトを外そうと赤いボタンを押し込む、反応がない

 ドアの取っ手は手ごたえがなく、一度引くと元に戻ろうともしない

 クラッチを切りギヤを変えようとすると少し動かしただけでスコンと二速に入った

 嘘だろ嘘だろ

 両手をハンドルに乗せ気持ちを落ち着かせようと前を見据えた

 ルームミラーの横に女の顔があった。

 無表情な目。それをを覗き込んだ時、これはやばいと思った。目が、そらせない。速度は徐々に上がっていく。上り坂なのに。そしてさっきのエル字が、上りで最後のカーブだった。

 てっぺんが近づく。表情が動いていった。筆を水に刺すように喜色へ。目じりと口角がどんどん近づく。円へ近づいていく。ステレオにザッピングが混ざり始める。上りが終わり。二つの端がくっついた瞬間、閉じていた口がバカンと開いた。

あああああああああああああああああああああああああああっ!!!ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!

『はーっはっはっはっは。それでは次n』『はーっはっはっはっは。それd』『はーっはっはっはっは。それd』『はーっはっはっはっは』『あーっはっはっはっは!』『あっははははははっハッはははははははは…ひゃはははははははは!!』

 なんなんだよお前!

 私の叫び声はすさまじい音圧によってかき消された。

 メーターの針が早くなっていく。上り勾配では分針程度だったがすでにその倍以上で針は動いている。秒針の速さになるまで時間はかからないだろう。右へ切ったハンドルをすがるように両手で支える。胸中は広がる様々な後悔で一杯だった。一つ目のカーブを曲がった。

 キュゥ、バタンッ、キュゥンと皮膚が車体と擦れる振動が屋根からくる。

 二つ目のカーブ、もはや対向車など気にしている余裕がない。経験したことの無い横荷重がかかり前輪がガードレールへと勝手に吸い寄せられていく。顔を伝う汗が横に流れる。カーブをクリアした私の前に広がる初めて見た反対車線の光景。二つの追い討ちが待っていた。先のカーブが見えない、果てのない暗い直線。そしてルームミラーの中で動くサンルーフから生えた足の指だった。

 足で無理やりサンルーフを開けている。

 ガコンと三速に動くシフトレバー。背中がシートに押される。メーターの針は100を過ぎた。折れそうなほどブレーキを踏んでいた足首から緊張が抜けていくのが分かった。

 ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハっ!!!

120。

『ぎゃはははぁぁあっはっはっはぁぁぁ…ひぃいひひひひひひひ!』

130。

 ガコン。四速。風で頬を伝った汗が唇を湿らせる。

 ………フッ

140。

 暗闇の中にヘッドライトを反射するものが現れた。

 『≫急カーブ≫≫』文字がぼやいでいた。汗だと思ったのは涙だった。

 …………フフッ

 ガコン。

160。

 ……はははっ

170。

 はぁぁ……もぉぅ……………なんでだよぉ…

 岩肌が広がる直前。メーターは180キロを振り切っていた。

 ____唯一骨が折れる音だけが聞いたこともないほど近くでした

 ___胸で何かが壊れ真っ白に視界が爆発する寸前ボンネットがあった

 __何も聞こえず見えない中、顔の肉の奥の形を感じ、それが変形した

 _手と足に何か熱いものが当たった

________________________■

 私はその日家に帰った。自分の車でだ。風呂に入って寝た。

 おかしいことに気が付いたのは翌昼前だった。

 職場で上司と何かを話していた時、思い出した。昨日、自分は死んだ。

 あそこから、帰った?どう?車?そんなはずはない。

 そこからは?帰ってから…それから…風呂に入った?普段ならそうだ。

 今朝は?起きて…何をした?電車には乗った?上司とは普通に話していた。

 絶対におかしい。夢?じゃないんじゃないのか?

 昨日あのカーブから記憶に霞がかかり続けたままだ。

 会社のトイレで吐いた。胃液がでた。何も食べていないらしい。

 口元と指を洗い流して洗面台に両手をついた。

 あの瞬間から依然と今が、水と油のように、変わっている。

 顔を上げた瞬間強い不安を覚えた。なんだこれ。

 鏡のどこを見ていいのか、わからなかった。

 焦点が分からない。えづいた。誰だ?これ。

 あれから何年がたったのか判らないが私は日常を続けている。

 今でも自分が映るものが、自分と同じ動きをする自分が怖い。

 私にとって昨日はここに記したあの日だ。

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