時の狭間のラプラス① ~with-in-system-Laplace~ 前編

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時の狭間のラプラス① ~with-in-system-Laplace~ 前編

~プロローグ~

「『ラプラスの悪魔』という言葉を聞いたことがあるかい?」

黄金色の瞳が刻まれたその石板の前で。

白衣を着た男性が、隣に立つ女性に向って、問いを投げかけた。

「…はい。確か…えっと…。」

白衣の男性の言葉に、その女性はしばらく思案した。そして言葉を返す。

「…『全ての物質の完全な状態を把握できる存在がいるとすれば、その存在は例え過去でも未来でも、完全な再現が可能』とかいう…有名な思考実験の一つですよね?」

「その通りだ。

ドイツの学者・エミール・デュ・ボワ=レーモンが1812年、確率の解析的理論の一環として学会に提唱した理論、『ラプラスの悪魔』…

『もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、

かつ、もしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、

この知性にとって不確実なことは何もなくなり、

その目には未来も、過去同様に、全て見えているであろう…。』

「…。」

「小夜くん。私はね…。」

「はい。柚神(ゆがみ)先生。」

柚神と呼ばれた男性が、実験室内に鎮座した巨大な石板に眼を向ける。

「私は、この黄金の瞳に、それを見た気がするのだよ。」

その巨大な石板には、いくつもの検査用のコードが絡み付いている。

石板を見上げる柚神に同調するように、傍の小夜と呼ばれた女性も、石板を見上げた。

石板に刻まれた黄金色の瞳が小夜の視界に映る。

見つめられているような…、いや。観察されているようなその感覚に、小夜は身震いする。

その石板は、高さ・およそ8m。幅・5mの長方形をしており、それはいわゆる黄金比(対比1:⒈618)と呼ばれるサイズの長方形をしていた。

そして、石板の中央部には、『眼』があった。

実際に石板に眼球があるわけでは無い。

正確には、眼の形が刻まれているのだ。

その瞳の形をしたレリーフは仄かに金色に光を発している。

黄金色の瞳。

研究室ではそのレリーフをそう呼んでいた。

柚神は言葉を続ける。

「それは、分子原子に留まらず全ての力の流れすらも見通す絶対的な観測により、過去の動きを全て網羅し、さらに未来をも知る存在。

ニュートン力学・古典物理学が席巻した近世科学・近代科学において見えていた世界観、演繹的な究極概念、因果律なる概念の終着点であり量子力学の全身と言われる概念。

つまり、世界に存在する全ての原子の位置と運動量を知ることができるような『知性』が存在すると仮定した時、

その『知性』は、これらの原子の時間発展を計算することができるだろうから、その先の世界がどのようになるかを完全に知ることができるだろう。故に、その存在の目には、未来も過去も全てが見通せるのだ。

それが、『ラプラスの悪魔』。

父が長年に渡り研究してきた、この石板。

微細な電位を帯びているこの物体を、父は、

【陽性型避雷磁気物体(Lightning Arrester plus)】、

…通称【La+(ラプラス)】と名付けた。

父が、この黄金の瞳を刻まれたこの物体を、ラプラスと呼称したことも、偶然では無いだろう。

この石板に秘められた神秘性。機能。機構。父も、それを感じ取ったのだ。

絶対の観察眼を持って、完全な計算の上で、望む『時間』で、その『場』を完璧に再現できるとすれば…、それはつまり…、」

柚神は一旦言葉を止めた。短い静寂の時が流れた。

「…柚神先生?」

小夜が柚神の言葉の先を促す。

柚神は一息の後、告げる。

「近い時期、この場所で実験を行う。その時、科学は、人類は、…時の因果の向こう側にある、新たな時代を迎える事になるかもしれないのだ…。」

「時の、因果の、向こう側…。」

柚神の言葉を繰り返す小夜。

そして、暫しの沈黙の後。

「あの、柚神先生…。」

傍にいた小夜が柚神に声をかける。

「なんだね、小夜くん。」

「お願いがあります。」

「ん?」

「その実験に、どうしても立ち会わせたい人がいるんです!」

小夜は真っ直ぐに柚神を見詰める。その意思は固かった。

「…君の願いなら、出来る限り聞いてあげたいが…。誰を連れて来たいのかな?」

「はい。

紙木城 冬也(かみぎしろ とうや)。

私の、幼馴染です。」

運命とは何か?

一般的に『運命論』というと、過去も現在も未来も事前に全て決まっている、という議論が思い出されるかもしれない。

つまり、原因結果の理法(因果法則)である。

または、過去の確定性・変更不可能性である。

そして、神秘ではなく、数奇である。

しかし、紙木城冬也は信じている。

運命とは、『人の力』で変えられるものであると。

しかし、どれ程に知恵を費やし努力を重ね、人が抱く情熱と信念に裏付けられた行動を繰り返そうと、絶対に人の力では辿り着けない未来も確かに存在してしまっている事も理解している。

人の力をもって時の事象を変えられない限り、人は到底運命の力より逃れる事はできない。

冬也の望むべき未来…目指す『運命の向こう側』に辿り着けないのだ。

『黄金の瞳の箱に宿るのは時の歯車の観測者。

幾億の記憶の欠片の果てに拒まれ弾かれた心の残滓は輪廻に囚われた小さな光と共に在る。』

それは、かつてスカルペラが冬也に残したメッセージ。

まるで意味の解らない言葉に羅列。

だが、並べられたその言葉の中には、時にまつわる何かを感じる。

スカルペラ…。あいつは確かに言った。

「自分は未来から来た」と。

だから、必ず意味がある筈だ。

現に、スカルペラは、人の力と理を超えた超常の能力を持っていた。

スカルペラに会って、直接問いただせば、何かわかるかもしれない。

だが、今は会えない。

会うわけは、いかないのだ。

~第1章~

[2010年9月]

「ふぅ…。」

ため息とともに、冬也は手にしていた厚みのある本を床に放る。

本の名前は、[時間論]

小さなアパートの狭い部屋の中の本棚には、所狭しと並べられた専門書がぎっしりと詰まっている。

[次元と時間の狭間で]

[時間跳躍と科学]

[ゼロのマイナスへ]

どれも、タイムトラベルに関連したものばかりだった。

タイムトラベルの11理論と呼ばれる、時間跳躍に関する理論がある。

しかし、どれも仮説であり、時に科学の発展により存在を否定され、時に荒唐無稽な技術を必要とし、時に互いの仮説により反論され、結果、全ての理論は現時点の人類では実現は不可能だろう…。

まず、中性子理論。

中性子星の周りの表面重力は強すぎる(地球の約1000億倍)ため、何も考えずに近づくとその超重力と潮汐力によってプチっと潰れて、それこそゲル状になって表面にドロリと流れることになるだろう。

次に、ブラックホール理論。

それにはブラックホールまで行けて超重力に潰されない宇宙船が必要だ。

光速理論。

特殊相対性理論にて反論・否定できてしまう。

更に、タキオン理論。

機械の故障が原因の理論であり、精査の結果、虚数粒子・光速ニュートリノの存在は否定された。

又は、ワームホール理論。

例えワームホールが発見されても、すぐに崩壊してしまう。

他には、エキゾチック物質理論。

ワームホールを安定化させる都合の良い物質なんて見つかっていない。

或いは、宇宙ひも理論。

まず、宇宙ひもが現実に存在しているか解らない。

もしくは、量子重力理論。

裸の特異点の存在は未だ未知の事象だ。

他には、セシウムレーザー光理論。

超高速現象で物質は移動できない。

後は、素粒子リングレーザー理論。

レーザーで重力場の形成なんて不可能だ。

それ以外には、ディラック半粒子理論。

現代物理学においてディラックの海の存在は否定されている。

「はぁ…。」

本棚を見詰めながら、冬也は再び溜め息を吐く。

ふと、時計に目をやると、

そろそろ、バイトの時間だ。

冬也は身支度を整え、バイト先に向かった。

冬也のバイト先である、商店街の小さな本屋。

流行りのカジュアルでフランチャイズ系列の本屋と違い、ネット広告すら出していないような店だった。

客足も少なく、…静かでいいのだが、正直、店の先行きは明るくは無いだろう。

閑古な店内のレジの前で、冬也は丸椅子に座りながらぼんやりとこの半年間の事に思いを馳せる。

冬也が一人暮らしを始めて、およそ半年が経過した。

贅沢できるような暮らしはしていない。

高校三年生の頃は大学に進学しようと考えていた。しかしとある事情があって進学は諦めた。

バイトで稼いだ給料は、ほとんど生活費と、部屋に並ぶ資料や書籍代で消えており、余暇に使える時間も金銭も無い。

その生活そのものは苦では無い。

しかし、突然家を飛び出しての一人暮らしであり、両親には悪い事をしたと思ってはいる。

そして…。

小夜。

天城小夜(あまぎ さよ)。

幼い頃からの幼馴染だ。

その小夜とも、半年間会っていない。連絡先も教えていない。携帯電話の番号も変えていた。

今まで小夜とは常に一緒にいた間柄で、どこに行くでも小夜は冬也に付いて来た。行動を、人生を共にしていた。

冬也にとっての小夜は、兄妹のような、家族にような相手だった。

元気にしているだろうか。

会いたい気持ちはある。

だが、今、小夜と会えない。

会うわけにはいかないのだ。

せめて、スカルペラの言っていた『黄金の瞳』の意味が解れば…。

冬也がぼんやりと考え事をしていた、その時である。

「冬也君! 見つけたぞ!」

女性の声がレジ前で惚けていた冬也の目の前で響いた。

「わぁ!」と冬也は驚きの声を挙げる。

我に帰った冬也は、目の前の声の主を仰ぎ見る。

そこにいたのは、冬也の、そして小夜の、中学生の頃からの友人である女性、

菅原 七瀬(すがわら ななせ)だった。

「な、七瀬? どうしてここに?」

小夜と同じく、冬也は七瀬とも顔を合わしていない。

七瀬と小夜は仲が良い。七瀬を通じて小夜に居場所や連絡先が分かる事を恐れて、この店がバイト先である事も七瀬には教えてはいない。

なぜ、ここが分かったのだ?

「早速だが、冬也君。小夜から伝言があるのだよ。」

「え?」

困惑する冬也の前で、七瀬は言う。

「教えて欲しい?」

「あ、ああ。」

小夜の名前を出されて、冬也は思わず頷いてしまう。

「小夜からの冬也への伝言。『黄金の瞳』を見つけたよ、だってさ。」

[2010年10月10日12時45分]

この日から、冬也と小夜の物語が始まる。

いや。

物語のきっかけは、もっと遥か以前にあったのだろう。

だがしかし、この日を境に、確かに二人の運命の歯車は廻り始めたのだ。

その日、紙木城冬也は地元の公園にいた。

周囲を見渡せば、散歩をしている近所の者や子連れの親子の姿が見える。

この公園には幼い頃から何度も来ている。

特に変わったところでは無い。

小さな池と乾いた緑地。数台のベンチと数台の遊具。

ありふれた公園だ。

唯一の特徴があるとすれば、公園の端に生える一本の桜の樹だろうか。公園の目印にもなっている。

なぜ、冬也がこの公園にいるのか。

理由はある。この公園で、今日、この時間、小夜と会う約束をしたのだ。七瀬を通して。

小夜に会うのは、半年以上ぶりになる。

冬也と小夜は以前は兄妹同然に常に一緒にいた間柄。半年以上顔を会わせないなど、今までの生活ではあり得なかった。

今日、小夜との再会が成り立ったのは、先日突然バイト先に訪れた七瀬のおかげだ。

しかし、七瀬の行動には驚いた。

冬也は、その時の七瀬とのやりとりを思い出す。

「原因は解らないけど、後先考えずに衝動的に実家を飛び出して、」

うん。

「行動力はある癖に先の事は考えず、」

はい。

「高卒じゃあ、土地勘のない場所は不安で、」

そうです。

「仕送り無しで金も無し、」

その通りです。

「バイトするとしても騒がしい場所は嫌い、」

はい。

「読書好きな冬也ならきっと本屋関係でバイトを探す、」

まったくです。

「で、近県の街で冬也好みの本屋を探して、」

え? この店はネットにも載ってないぞ?

「電話帳なら載っている、」

あ、なるほど。

「で、後は地道に本屋を周り、この場所に辿り着いた、というところ。」

すげぇな。ズバリだよ。

全くもって、七瀬の推理力…頭の良さには驚嘆する。更に地道な努力も忘れない。

さすが、世間から天才と呼ばれる事だけある。

なんとなく察すると思うが、七瀬は変わり者だ。

だが、こんな変人だが、なんと日本国内トップクラスのチェスプレイヤーでもあるのだ。

この推理力も、その思考のなせる技だろうか。

なんでこんな天才が、凡人である冬也や小夜と仲良くやっているかは、また他の機会で語るとして…

13時まであと数分。

待ち合わせの時刻まで、あと少し。

小夜の性格上、待ち合わせの時刻に遅れることは絶対にない。

ふと、視線を感じた気がした。

冬也は顔を上げ、公園の入り口に目を向ける。

そこには、公園の入り口は、小夜がいた。

その表情は見えない。

小夜は冬也に向かって無言で真っ直ぐ歩みを進める。

…音信を絶っていた俺を、怒っているんだろうか。

歩みを進める小夜の表情が、見えた。

その顔は、

笑っていた。

冬也の面前で、小夜は足を止める。

そして、

「…久しぶり、だね。冬也。」

満面の笑顔を浮かべる小夜。

「…ああ。久しぶりだな。小夜。」

遠慮がちに、苦笑いの表情の冬也。

二人の再開は、成った。

そして物語は動き出す。

「ちゃんと、ご飯食べてる? 少し痩せたんじゃない?」

「洗濯とか掃除とか、しっかりやってる? 一人暮らしななんでしょ?」

「おじさんもおばさんも心配しているよ! たまには連絡しなきゃだめじゃない!」

再会の瞬間の感動は何処へやら、小夜は矢継ぎ早に冬也を責める。

余程、心配をかけたのだろう。

「もうやめてくれよ。心配かけて、悪かったって!」

小夜の怒涛の心配ラッシュに冬也は根を上げる。

むぅとむくれる小夜。

とその時、小夜の後ろから、

「いやいや、冬也君。小夜は心底、君の心配をしてたんだよ。こんな程度じゃまだ足りない程だ。ねーえ、小夜?」

と、七瀬が茶化す。

「うん。そうだよ、冬也! 私は怒ってるんだからね!」

七瀬の言葉に、小夜が同意する。

「…わかったよ。すまなかった。半年間、連絡しなくてごめんな、小夜。心配かけた。」

詫びる冬也に、

「うん。素直でよろしい。」

小夜が応じる。許してくれたようだ。

「あ〜、コホン。」

二人のやりとりを眺めていた七瀬が、小さく咳払いをする。

「二人が再会できたのは、私のおかげだという事を忘れないでね。」

「わ、わかってるよ…。感謝してる。ありがと、七瀬。」

冬也は改めて七瀬に頭を下げる。

「可愛い幼馴染を放っておくなんて許されるもんじゃないぞ。冬也君は、よ〜く反省するんだね。」と満足げの七瀬。

「七瀬。冬也を探してくれて、ありがとね。」

小夜は七瀬に感謝の気持ちを伝えた後、再び冬也に質問をぶつけ始める。再びウンザリ顔の冬也。

二人のやりとりが秋の空に響いた。

七瀬は、そんな二人を眺めながら、ふと、二人には聞こえないように呟く。

「…ま、あたしも、冬也君に会いたかったからさ…。」

その呟きは、誰にも聞こえることなく、冷えた秋の風に吸い込まれていった。

「で、小夜。例の件なんだけどさ…。」

冬也は、今回の再開の理由であり、七瀬を通じて小夜から聞いた、今回の再開の理由でもある件について、小夜の確認する。

「うん。見つけたのかもしれないの。」

「『黄金の…』」

「そう。『黄金の瞳』。」

「どこで見つけたんだ?」

「私の通っている大学の、研究室よ。研究室では、それを、【La+】と呼んでいるわ。」

小夜は冬也に、大学の教授が研究している【陽性型避雷磁気物体(Lightning Arrester plus)】、…通称【La+(ラプラス)】の存在を簡単に説明する。

冬也の求めるもの。それがその【La+】とは限らない。しかし、可能性は捨てきれない。

「スカルペラが言ってたんだよね? 『黄金の瞳』って。」

冬也の顔が曇る。

「…ああ。それが何を意味するものかは解らないけど…。」

「でも、冬也には、それが必要なんでしょ?」

「…ああ。」

スカルペラの名前を、そして『黄金の瞳』の言葉を小夜に話した事を、冬也は少し後悔していた。

小夜とスカルペラ。二人の関係は複雑なものである。

話すべきではなかった。しかし、その小夜のおかげで、『黄金の瞳』の正体が解るかもしれないのだ。

冬也の心情も、複雑だった。

そんな冬也の思いを知ってかしらずか、小夜は、

「その【La+】。実際に見に行く?」と冬也に聞く。

「え? 見れるのか?」驚く冬也。

「うん。教授には許可を取ってあるんだ。ただ、今日これから、【La+】を使った実験があるから、すこし慌ただしいかもしれないけど…。」

「いや、大丈夫だ。是非とも、行ってみたい。」

【La+】が、スカルペラの言う『黄金の瞳』と関係しているかは、今は解らない。

しかし、その物体が、教授の分析が確かなら、尋常のものではあり得ない事は理解できる。

ならば、実際に見てみたい!

「七瀬も、一緒に行こうよ。」

小夜は七瀬にも声をかける。

「え? あたしも? わたし、物理とかは苦手分野だから、ちんぷんかんぷんかもよ。」

「まぁ、いいじゃない。社会勉強だと思ってさ!」

こうして、小夜の誘いで、七瀬も伴いながら、3人は小夜の大学に向かったのだった。

『黄金の瞳の箱に宿るのは時の歯車の観測者。幾億の記憶の欠片の果てに拒まれ弾かれた心の残滓は輪廻に囚われた小さな光と共に在る。』

そのメッセージの意味するところ、『時の観測者』は『黄金の瞳に宿る』。そうスカルペラは言っていたのだ。

時の観測者…。

時…。時間…。

それはつまり…。

紙木城冬也には、叶えたい願いがあった。

その願いの理由…。

冬也と小夜には、二人だけの秘密がある。

それは他人に知られては絶対にならない、秘密だった。

その秘密のせいで、小夜は心身共に傷付き、冬也と共に二人の人生に暗い影を落とし続けてきた。

その問題を解決する為に、冬也は『あるもの』を欲した。

それは、数多のフィクションに登場した夢の装置。

過去に戻れ、未来を変える。それを可能にする機械。

世界中の偉大な開発者が夢見てなお、今だに開発されない、夢の道具。

そう。

冬也が作りたいと夢見るものは…、

『タイムマシン』

である。

【陽性型避雷磁気物体La+(ラプラス)】には黄金色の瞳が刻まれているという。

『黄金の瞳』…。

スカルペラが言った言葉と、その物体の特徴が一致している。

それは、か細いどころか蜘蛛の糸ほどの儚い希望であった。

だがその連想は、冬也の行動を掻き立て、小夜との再会を決断させるには十分なものであったのだ。

[2010年10月10日 14時30分]

「冬也ー、七瀬ー、こっちだよー。」

小夜の案内に導かれ、冬也と七瀬は、小夜の通う大学の門を潜り、実験場へ向かった。

キャンパスを通り抜け、校舎の裏手に入ると、その奥には古びた体育館のような建物があった。

どうやらここが、目的地である実験場のようだ。

小夜は重そうな実験会場の扉に手をかける。

古びた扉がギィと音を立てて開く。

扉の向こう側では、実験の準備作業をしている数人の学生が忙しなく動いていた。

「こんにちはー。遅くなって、すみませーん!」

小夜が挨拶をすると、近くで作業をしていた学生二人が顔を上げる。

「あら、小夜さん。いらっしゃい。待ってたのよ。」

女性の学生が小夜に返事を返した。

「あ、真美さん。す、すいません、待たしてしまいまして…。」

小夜は二人の学生に頭を下げる。

「もう、小夜さんたら。遅れたのにはちゃんと理由があるんだから、謝らなくても大丈夫よ。」

謝る小夜に、真美と呼ばれた女性は優しく言葉を返す。その時、

「そうだぜ、小夜ちゃん。謝ることは全くないぜ。」

と言いながら、宍戸と呼ばれた男性も顔を挙げ、

「君の頼みとなれば、俺はなんだってするぜ!」

と小夜に向かって胸を張る。

「あ、ありがとね、宍戸くん。」

感謝を述べながらも、軽薄そうな男性の言葉に、やや引き気味な小夜。

「もう、宍戸くん。調子に乗っちゃダメでしょ。小夜さん困ってるわよ。」

「へいへい、真美先輩。すみませんね。…ん?」

宍戸が小夜の隣にいる冬也の姿に目を向ける。

「小夜ちゃん。その男は誰だい? まさか、あんた…?」

冬也の姿を見て、宍戸が眉をひそめる。」

「ちょっと、宍戸くん。小夜さんが見学者を連れてくるって、ミーティングで言ってたでしょ。」

「あーはいはい。そうでしたっけねぇ。」

宍戸はあからさまにな嫌悪感を冬也に向ける。

「もう、宍戸くんたら…。小夜さん、ここはいいから、柚神教授のほうを手伝ってもらってもいいかしら?。実験の最終調整で忙しと思うから…。」

真美は宍戸の態度を窘めながら、小夜に先を促す。

「はい! 真美さん、ありがとうございます!」

小夜は真美に礼を告げ、上着を脱ぎ近くの椅子にかけてあった白衣に袖を通す。

そして冬也と七瀬の二人に、

「私、柚神教授の実験の手伝いがあるから、二人は、そこの椅子に座って休んでてね。」

そう言うと、白衣を翻しながら、部屋の奥のモニターに向かっていった。

小夜も実験の準備の手伝いをするのだろう。

実験は15時から開始されるそうだ。

それまで、七瀬と冬也の二人は、することもなく実験会場の端っこの椅子に腰掛け、時を過ごす。

冬也は、椅子に腰掛けながら、何気無く実験会場の中を観察する。

実験会場は、二つの部屋からなっている。

一つは、モニター類や機材を置いたスチール棚が所狭しと設置された、冬也達のいるスペース。

もう一つは、大きな白いシーツに包まれた物体が鎮座するスペース。

その二つは、ガラスで区切られている。

シーツに包まれた物体をよく見ると、その足元からは数多くのコードが伸びている。

どうやら、あの物体が、今日の実験の主役である【陽性型避雷磁気物体(Lightning Arrester plus)】、

…通称【La+(ラプラス)】のようだ。

こちら側の部屋にある無数のモニターで、実験の結果を観測するのだろう。

ふと隣を見ると、見慣れない計器に囲まれているためか、七瀬が目をパチクリしている。

この種の機械群に、七瀬は馴染みがないのだろう。

その時、

「こんにちは。」

落ち着いた感じの男性の声が聞こえ、ぼんやりとしていた冬也と七瀬の二人は、声のした方向に目を向ける。

二人の目の前に白衣を着た男性がいた。歳は40歳ほどだろうか。

男性の隣には小夜がいる。

「柚神教授。紹介します。紙木城冬也君と菅原七瀬さんです。」

「ほう。紙木城君と、菅原さんか。よろしく。」

小夜に教授と呼ばれた男性が、笑顔で二人に手を差し出した。

冬也は、差し出された手を握りながら、

「こちらこそ。大切な実験にお邪魔してしまいまして、申し訳ありません。」

と答える。

教授は、

「いやいや、将来有望な若者に私なんかの実験を見せることができるのだから、ありがたい話だよ。」

と笑顔を崩さずに、握手をした手に力を込める。

…小夜の奴、俺のこと、教授にどう説明してるんだ?

疑問を抱く冬也の視線に、小夜は気不味い顔で横を向き、視線を避けた。

[2010年10月10日15時]

「そろそろ時間だな。」

教授は室内の時計に目をやり、学生に指示を出した。

教授の合図で、物体に掛かっていたシーツが取り払われる。

シーツの取り払われた物体…【陽性型避雷磁気物体(Lightning Arrester plus)La+(ラプラス)】の姿を目にした冬也と七瀬は、息を飲んだ。

その姿形は小夜から既に聞いたいた筈なのに、それでもなお、この物体の異形に、驚きを隠せなかった。

冬也は引き込まれるように【La+(ラプラス)】の造形を凝視し、…観察する。

その物体の中心には巨大な『眼』があった。

次に感じたのは、黄金の光だった。

冬也には、その物体自身から光が発生しているように見えた。

黄金色の瞳。

眩しいのだが、眼を反らせない。

それは巨大な立方体だった。

その立方体の表面は金色に輝いている。

長い年月に曝されたのか、煉瓦のような表面には罅や傷が多数あり、欠けている部分もあった。

だが、その欠けた中身も金色で染まっている。

その黄金の立方体の中心に、『眼』がある。眼の形の紋様が彫られているのだ。

いや、

よく見ると、その眼の形は浮き出ている。

まるで、その物体に眼が生えているかのようだった。

【陽性型避雷磁気物体(Lightning Arrester )La+(ラプラス)】

それはまさしく、一目で異常だとわかる形状の物体だった。

その時、

冬也は、視線を感じた。

誰かが俺を見ている?

強く、暖かく、真っ直ぐな視線だった。

誰だ?

冬也は【La+】を見上げた。

そこにあるのは【La+】の黄金色の瞳。

黄金色の瞳と冬也の視線が絡み合う。

その時、冬也が感じたのは、苛つきだった。

何か。何か俺は、この【La+】に奇妙な感覚を覚えた。

冬也は自分の中に浮かぶその感情を探す。

それは、苛つきであり、怒りだった。

だがふと気付くと、冬也の目からは涙が溢れていた。

自分の頬が濡れていることを感じてから、初めて自分が涙を流していることに気付いた。

…なぜ、涙が流れる?

その瞬間、頭の中に何かが、声のようなものが響いた。

『マ………タ………』

その声はひどく淀んでいた。

ノイズの中から無理やり音を拾っているみたいだった。

なんだこれは? なんの音だ?

冬也は、頭の中の音を拾おうと、精神を集中させる。

『マ…イ……タ…』

だが、頭の中に響く声は依然としてはっきり聞き取れない。

怒りと悲しみ。その二つの感覚を同時に感じる。

内から感じる怒りと誰かの悲しみ。

それは冬也が今まで感じた事ない、奇妙な感覚であった。

「おい、冬也君!」

耳元で声が聞こえる。七瀬の声だ。

頭の中で聞こえる声ではない。耳から聞こえる声だ。

ハッと気づいた冬也は、頬に手を当てる。

濡れていない。

涙を流した跡は、そこにはなかった。

「どうしたんだい? いきなり呆然として。」

「あ、ああ。大丈夫だよ。」

平然とした素振りで返事を返しながらも、冬也は自身の頭の中に正体の解らない熱を感じていた。

「驚いたろう? あのような造形は珍しいからね。」

世間話をするような気さくな態度で教授は、冬也と七瀬に声をかける。

「【陽性型避雷磁気物体(Lightning Arrester plus)La+(ラプラス)】。この謎の物体には、解明されていない謎があってね…。今日の実験では…」

教授が実験の概要の説明を始める。

だが、冬也の耳にその教授の声は入ってこない。

冬也の頭は、脳は、感覚は、今、何かと繋がっている。その感覚が奇妙な発想を導く。

【La+】…。

ラプラス…。

まさか…。

冬也の頭の中にあった熱が思考の形に変わる。

「教授。お聞きしたいことがあります。」

冬也の口が開く。

場違いだと解っていても、聞かねばならなかった。

「なんだね、紙木城君。」

「あの物体は、本当に、古い地層から出土したんですか?」

「ああ。そうだよ。」

「何年前の?」

冬也は、教授に疑問を続ける。

「ちょ、ちょっと冬也。教授は忙しんだから、後にすれば…」

「いや、構わないよ。小夜くん。」

教授は小夜の声を遮り、

「6550年前の地層だと聞いている。」

と、冬也の質問に返事を返す。

…6550年前。白亜紀末期。恐竜の大量絶滅があったとさっる時期…。

「そんな時代に、人類は誕生していない。

けれど、この物体の造形は、自然では作られたものではあり得ない。」

「…ああ。その通りだ。」

教授の表情が変わる。

「紙木城君の言うとおり、これは、『あり得ない』物体なんだよ。」

「つまり、…オーパーツ、ですか?」

冬也からの真剣な眼差しを受けた教授は、冬也から目を逸らす。

「…もしかしたら、戯れに造られた捏造品かもしれないがね。」

「…その可能性、確かにあるかもしれません。けれど、この物体の造形や輝き、そして言葉にはできませんが、この存在感は普通ではありません。」

「君もそう感じるか。そうだ。だからこそ、これを世間に公表できないでいるのだ。

便宜上【La+】と呼んでいるあの物体の解析と運用手段を考える事が、この実験の目的であり、我々のプロジェクトの意義なのだ。」

教授の説明を聞きながら、冬也の中には更なる考えが浮かんでいた。

ラプラスの、悪魔…。

その名が示すものは。

冬也が口を開く。

「『もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不可実なことは何もなくなり、その眼には未来も過去も同様に全て見えてるのであろう』

その知性の名を、人は、『ラプラスの悪魔』と呼ぶ。」

「…冬也?」

それは以前に教授が語っていた、ラプラスの悪魔の理論。

突然、難解な言葉を発する冬也の変化を、小夜が訝しむ。

そんな小夜に構わず、冬也は言葉を続ける。

「初期条件が分かれば全宇宙の方程式は解明可能で全てに説明が付くという思想があった。

ラプラスの魔と呼ばれる考え方だ。

ある時刻の宇宙全ての粒子の位置と速度が分かれば、無限の過去から無限の未来まで、宇宙の歴史を完璧に知ることができる。

もし、無限の計算能力があれば、だが。

この過程において、ある時刻の宇宙全ての粒子の位置と速度を知っていて、無限大の計算能力がある者を『ラプラスの悪魔』と呼んだ。

つまり、ラプラスの悪魔は、全宇宙のすべての歴史を知ることができる存在。』

冬也自身も、自分の口から出る言葉が、自ら発しているものだという事に、自分自身でも信じられなかった。

だが、冬也の思考は止まらない。

この思考の先に、冬也が目指すものがあるかもしれないのだから。

言葉が自然に放たれる。頭の中の熱が冬也を解き放つ。

「ラプラスの悪魔。そんな悪魔が現実に存在しているかどうかは問題では無い。

そういう物理学的な解析概念があるだけだ。

けれど、この物質のもたらす可能性に対して、究極の観察概念である『ラプラスの悪魔』という名を冠した事には、意味があるはず。」

七瀬も小夜も、唖然としながら黙って冬也の話を聞いている。

「『ラプラスの悪魔』。それは全ての物体や状況を構築する粒子…原始分子の姿形を把握する。今目の前にある世界の極小から極大までの全てを見通せる存在。

だが、その存在の最たる特性は、全ての『力の流れ』すら見極め理解する事ができる事にある。

力の流れとは、その物体が、状況が、今ある状態からどう変化するかを見極める事が出来るという事。

それは即ち、今、目の前にある全ての事象を理解し、力の流れを把握する事で、その事象の未来の姿を再現できるという事。

それが『ラプラスの悪魔』の特性。

つまりそれは『未来予測が出来る』という事。

それは逆説的に、『今』から未来を予測できるなら、その逆も可能にするのではないか?

『今から過去』を再現できるのではないか?

さらにもし仮に、『再現された過去』の状態を変化させる事が可能な存在がいるとするのなら…、

それは『今』を変える…つまり『今の先にある未来』すらも変える事が出来る存在だという事になる。

過去の全てを見通せ再現できる究極の観察眼を持つ存在…『ラプラスの悪魔』。

究極の観察眼を持つ『ラプラスの悪魔』とは、未来を予測し過去を改変できる特性を秘めている存在なのではないか?

『ラプラスの悪魔』が時間跳躍と過去改変が遂行できる特性を用いる存在だとするのなら…、

その名を冠するこの【陽性型避雷磁気物体(Lightning Arrester plus)通称【La+(ラプラス)】とは…。」

まさか…。

一見荒唐無稽な冬也の言葉に、

「君は、一体…。」

と、教授は驚きを隠せない。

「…まさか、そんな手段があったとは。…これが、俺の求めていた答えなのか?」

「…。」

「教授。」

「な、なんだね。」

「まさか、この物体…【La+】は…、」

息を飲む教授。

冬也は、言葉を続ける。

願いを込めて。希望を込めて。

「これは、まさか、」

ゴクリ。冬也の喉が鳴る

「数学的見地からなる時間跳躍装置。

タイムマシン…ですか?」

と。

教授は、冬也の推論への返答はしなかった。

迂闊に返事が出来ないのか、それとも冬也を警戒しているのかは、解らない。

だが、代わりに、【La+】の出自について、話を始めた。

「この物体の出自については、他言無用で頼むよ。私の学会での正気を疑われ兼ねないのでね…。」

この物体は、今から100年程前に発掘された。発掘された地層は、およそ6550万年前の地層からだ。

見ての通り、人工的な外観のこの物体だ。考古学の権威でもあった発見者は、『この世界にあり得ない物体』として、この発見を世間から隠蔽した。

なんせ、6550万年前だと恐竜が大隕石の衝突で滅びたとされている年代の頃だからね。

人間どころか、猿のような哺乳類すら誕生していない時代だ。

この存在が認められてしまえば、世界の常識がひっくり返されてしまう。

発見者は、微小な磁気を発生させ続るこの物体を、便宜上【陽性型避雷磁気物体】と名付けた。

世間から隠されながら、さらにこの物体の組成について研究を行うにつれ、さらなる驚愕の事実が解った。

当時最新の年代測定法を用いて、この物体の起源を調べたところ、なんと150億年前から、この物体は存在していたのだ!

150億年前とは、地球どころか、宇宙誕生の時代だ。

この事実に恐怖を覚えた発見者は、この物体から手を引き、研究は頓挫した。

それから数十年後、ある化学者がこの物体を手に入れた。

入手した当時、この物体は、ある宗教団体の本尊として祀らわれていたらしい。

なんせ、この外観だ。宗教団体が物体に神秘性を見出しても不思議ではない。

強引な手段でその宗教団体からこの物体を入手したその化学者は、物体の起源の研究ではなく、磁気の発生特性を活かし、なにかしらのエネルギー源にならないかと考え、研究した。

ある時、この物体に、微小な電流を流した際、僅かな時間だったが、物体に帯びていた磁気の量が跳ね上がった時があった。

その後何度か同様の実験を繰り返したか、同様な結果を得られる事は少なかった。

ところがある日、いつものように電流を流す実験を行った際の事だ。

実験の繰り返しに披露と失意を感じ始めていた化学者は、林檎を齧りながら片手間に実験を行っていた。

そして、食べかけの林檎を物体の近くに置いたまま、電流を流したのだ。

その時は、微小な磁気の発生があったのみだった。だが化学者は驚愕した。

食べかけの林檎が、元の、食べる前の形に戻っていたのだ!

何が作用してこの結果になったのかは不明だった。

同条件での実験を繰り返したが、この状態の再現は二度と出来なかった。

だが化学者は、この物体に、更なる可能性を見出した。

この物体は、過去に干渉できるのではないか。

過去の事象に変化をもたらせるのではないか、と。

その化学者は、過去改変の可能性も視野に入れて、物体の研究に勤しんだ。

だが、成果は出ない。

予算もつき、支援者も匙を投げる中で、その化学者だけが、細々と研究を続けていた。

そして…、その化学者は、行方を眩ました。

研究に疲れ失踪したのか、孤独な研究環境に耐えられず自殺したのかは解らない。

その化学者は、…私の父だ。

だが、幼かった私は父の顔を覚えていない。

父の失踪により私も母も苦労したよ。

たぶん、私は父を憎んでるんだろう。

今の話も、酔いどれだ父が寝ぼけて語っていたこと。真相は不明だ。

だが、偶然か必然か、はたまた運命の悪戯か、私は父の研究を引き継ぐ事となった。

これは、親子二代の研究であり、もしかしたら私なりの父への復讐、なのかもしれない…

「長話になってしまったね。これ以上、私は語る話を持たない…。

さぁ。そろそろ、実験を始めようか。」

[2010年10月10日15時30分]

実験が始められた。

教授の説明によれば、これから【La+】に施設内の高電圧発生機材を用いて高電流を流し、その結果【La+】から発せられた磁気及びその他の微細な変化の観察と、同時に【La+】周囲の変化を、極小レベルまで観察する事が、今回の目的の趣旨らしい。

今までも何度か電流は流していたが、変化はほとんど無く、教授の望む成果は得れなかったそうだ。

だが今回は今までの規模以上の電気的不可をかけて、その結果の解析を行うことが教授の考えのようだ。

「電流の強さを増やせ!」

教授の指示で、【La+】に流されている電荷があげられる。

冬也は、実験の様子を固唾を飲んで静かに見守る。

計器上の変化は微々たるものだった。

何も起こらない…?

いや、違う…。

電荷の強さに比例するかの如く、【La+】が発する黄金の光の量が増えている。

…何か、嫌な予感がする。

「なんだか怖いね。」

白衣を着てモニター内の変化を読み取る小夜の表情も険しい。

不安と期待の中で、ついに【La+】に変化が現れた。

更に輝きを増す【La+】。

同時に、『眼』の部分の周囲も線がゆっくりと赤く染まっていくように見える。まるで眼球の毛細血管が血走っているかのようだ。

…待てよ。

小夜の不安そうな表情を見て、冬也の中に不安が過る。

【La+】の黄金色の輝きは、何処から生じているんだ?

仮にだが、【La+】の金色は、装飾としての金色では無く、【La+】自らの発光して、黄金色に輝いているのだとしたら?

その輝きが増しているという事は、モニター上では観測できないだけで、既に【La+】自身は巨大なエネルギーを帯びている可能性がある。

そこに更に、強度な高電流をかけるということは、仮に余剰となったエネルギーは、どこに放出されるんだ?

不安に駆られる冬也。

そんな冬也の不安とは裏腹に、

「もっと電荷を強くするんだ!」

と、教授が大声で指示をする。

【La+】の黄金色はさらにその光度を増し、『眼』周囲の紅いラインも克明になってきた。

ズキン!

その時再び、急な頭痛と耳鳴りと共に、冬也の頭の中に、先ほどの声が響いた。

『マ…テ…タ……』

なんだって?

なんだと言っているんだ?

【La+】の瞳が冬也を再び凝視する。

【La+】は、何かを俺に告げようとしている?

『マッテ…イ…タ』

…マッテ、イタ…?

一瞬、【La+】が震えた。そう見えた。

その直後、【La+】から発せられた凄まじい衝撃波が、モニター室と【La+】の設置された部屋を隔てていたガラス壁を砕く。

そして、その衝撃波は冬也達のいるモニター室の人間を襲った。

衝撃とともに砕けたガラス片が、教授に、学生に、冬也達に降り注ぐ。

冬也は、咄嗟に小夜の元へ駆け寄り、小夜の身体を抱え込みその身を庇った。

冬也は小夜を抱え込んだまま、後方の壁まで吹き飛ばされる。

勢いよく背中を壁に打ち痛みに耐えながら、冬也は胸元に抱えた小夜を見る。

「…冬也。」

小夜が小さく呟く。

どうやら怪我は無いようだ。

だが、衝撃を食らったモニター室はボロボロになり、機械群が散乱している。

ガラス片で切ったのか、頭から血を流している学生もいた。

「電荷を切れ! 実験は中止だ!」

頭から血を流したままの教授が、興奮した声で指示が飛ばす。

突然、壁際にいた冬也達の近くにあった頑強なスチール棚が崩れ出した。

冬也は、小夜が棚の下敷きならないように突き押す。

続いて冬也も、その場から飛び出そうとする。

だが、床に落ちた機材に邪魔され間に合わず、冬也はスチール棚の下敷きになってしまった。

床に倒れこんだまま、小夜が叫ぶ。

「冬也!」

「く…、」

運良く冬也はスチール棚の下敷きになりながらも、大きな怪我はなく、意識もしっかりしている。

床の機材がクッションになり落下の衝撃を和らげたようだ。

だが、実験室内では、破損した機材から炎が出始めた。

スタッフが火災の消火にあたっているが、このままでは、冬也も危ない。

棚の下から這い出そうとするが、うまく身体が抜けない。

焦っちゃダメだと思うが、やはり慌ててしまう。

「冬也!」

小夜は冬也の名を叫びながら、スチール棚に手をかける。

だが、女性の細腕で動くはずもない。

「小夜! 早く逃げろ! 俺は大丈夫だから…。」

それでも懸命に、小夜は冬也を助けようと、手に力を込め続ける。

「小夜、早く逃げろ! 俺のことはいいから! 早くしないと…」

冬也は叫ぶ。

自分の事はいいから、早く逃げろ、と。

そうしないと、

…『あいつ』がやってくる。

スカルペラが、

やってくる。

事件中に発生した事故に巻き込まれ、スチール棚の下敷きになった冬也の目の前で。

小夜の、雰囲気が、変わった。

小夜の瞳の色が変わる。

小夜の姿勢が、ゆらりと揺れる。

『あいつ』がやってきた。やってきてしまった。

いや。現れた、と言うべきか。

苦痛に歪む小夜の表情はとうに消え、このような修羅場に不釣り合いな程に穏やかな、『あいつ』の表情が現れた。

笑ってるような、泣いているような、感情の読み取りづらい表情だった。

『あいつ』の名は、

『スカルペラ』

普通でない存在。

冬也と小夜の人生に大きな変化をもたらした存在。

小夜と再会するまでの半年間、冬也はスカルペラのその顔を見る事はなかった。会うことは無かった。

理由は、これ以上ないほど、簡単である。

あいつは。

『スカルペラ』と名乗ったあいつは、

小夜の、別人格だからだ。

スカルペラは、冬也に覆い被さっていたスチール棚を軽々と持ち上げ横に投げ飛ばす。

投げ飛ばされたスチール棚は大きな衝撃音を立てながら壁に激突した。

砕け散ったスチール棚の破片が逃げ惑う他の学生に降り注ぐ。

その光景はスカルペラの視界に入っていない。意にも返していない。

スカルペラは床に這い蹲る冬也の腕を掴み上げ、無理矢理に引っ張り起こす。

そしてそのまま、外に連れ出そうとする。

冬也とスカルペラが実験会場の出口の辺りまで来た時、火災によって脆くなった天井の一部分が砕け落ち、その巨片が二人に降り注いできた。

だがスカルペルは慌てることもなく、近くにあった鉄骨を簡単に引き抜き、空から降る雪を傘で切り払うように容易に瓦礫を鉄骨で振り払う。

その腕力も行動も所作も、小夜の時のものとはかけ離れている。

建物から脱出し安全な場所まで来ると、スカルペルは力尽きたかのように、そのまま倒れこんだ。

当然だ。

普段からは有り得ない、尋常じゃ無い筋力を使ったんだから。

実験会場の外で、冬也はドサリと座り込む。

力無く芝生に座り込む冬也の隣には、疲弊し切った顔の小夜が横たわっていた。

[2010年10月10日16時]

研究室での事故発生の後。

大学の敷地内の、ひと気の無い広場で、小夜はベンチに座って呆然としている。

隣に座る冬也が小夜に一頻り話しかける。

「実験は失敗だったな。教授も悔しかっただろうな。」

「冬也…」

「ああ、機材はボロボロになったけど、怪我人はほとんどいなかったらしいぜ。七瀬も軽い火傷程度で、無事みたいだ。」

「冬也…」

「火もすぐに消化できたみたいだし、不幸中の幸い幸いだよな。」

「ねえ、冬也…」

「小夜も怪我が無くて、良かったな!」

「冬也ったら!」

…どうやら話を逸らすのも限界らしい。

「また『あいつ』が、出ちゃったんだね…。」

冬也は小夜から眼を逸らしながら、

「…ああ。だけど、おかげで俺はこの程度の怪我で助かったんだからさ。いいじゃないか。」

と返事を返す。が、

「よくないよ!」

と、小夜は叫ぶ。

「あいつは、容赦がない。一歩間違えれば、他の人がケガをしていたかもしれないんだよ。また私のせいで…。」

冬也は、小夜を見ながら、慎重に言葉を選びながら、答える。

「…確かにあいつには容赦がない。俺の為なら、他の人間がどうなったってかまわないような、なりふり構わない奴だ。小夜自身が傷つく事も厭わない。」

「…。」

言葉無く俯く小夜。

「だけど、おかげで俺は生きているんだ。だから、『あいつ』には感謝してるんだぜ。」

そう言って、俯く小夜に冬也は笑顔を見せる。

だが、小夜の表情は依然として堅いままである。

冬也の笑顔が作り笑いである事を解っているのだろう。

「……。」

無言の小夜。冬也は、

「そろそろ、七瀬のところへ行こうぜ。待ってると思うからさ。」

と、救護室で軽傷の手当てをしている七瀬のもとへ行こうと促す。

「冬也の怪我は、大丈夫なの?」

「ただの擦り傷だ。どうってことはないさ。」

「そう。ありがとう。」

小夜の表情は、暗いままだった。

『あいつ』…。小夜の中にいる別人格『スカルペラ』は消えてはいなかった。

半年間、小夜と顔を合わせなければ、消えるんじゃないかと考えて、冬也は小夜に会うことを避けていた。

それが、冬也が家族同然の存在だった小夜のもとから姿を消した理由だった。

だがそんな程度ではスカルペラはいなくならなかった…。

スカルペラが初めて冬也の目の前に現れたのは、今から10年前だ。

その尋常じゃ無い力は、小夜自身の体も心も傷付け続ける。

それが冬也にとっての最大の問題なのだ。

自分が傷つけた人の前で、小夜が涙を流す事が幾度もあった。

血塗れの手でその身を掻き抱き震える時もあった。

それは、小夜の心を深く傷付けている。

悪いのは小夜じゃないのに。

…あのような人格が何故小夜の中に宿り続けるのか、今持って解らない

だが、スカルペルが初めて現れた時の事は、よく覚えている。

紙木城冬也と天海小夜、そして小夜の内に宿る人格/スカルペラの因縁の始まりは10年前に遡る。

その事件は、冬也と小夜が10歳の頃に起こった。

冬也の両親と、小夜の両親は、古くからの友人だった。

両方の両親はともに古くから付き合いが有り、4人での親交を深めていた。

だが互いの家庭に子供が生まれると、子育てに忙しくなり、なかなか会えないようになった。

しかし電話や手紙でのやりとりは続けており、友人関係は変わることなく続けていた。

そして、お互いの子供も大きくなり暇も生まれ、子供と両親の六人で会おうという話になったのだ。

そして今日。

冬也の家に、まだ九歳の小夜と、その両親が来る事になった。

…事件はそこから始まった

10歳の冬也は、久しぶりの…体感的には初めての、小夜との出逢いに緊張していた。

両親に教えられたのだが、幼い頃、冬也は小夜の姿を一目見て、「お姫様みたいだ」と言ったそうだ。

それを聞いた冬也は、恥ずかしさで顔から火が出る気分になったものだった。

そんなこんなで、冬也は緊張した面持ちで小夜と再会する事となるのだ。

家族同士の再開の日。

小夜の家族が来る直前の時間、冬也の両親は親戚の都合で呼び出され、突然に、家を空ける事になった。

冬也は一人留守番となり、小夜の家族を迎えねばならなかった。

まあ、両親が帰ってくるまでの、ほんの数時間ぐらいの間だけであったが…。

そして、

小夜の家族がやってきた。

小夜の両親は冬也に気を使い、冬也と小夜の2人を二階の部屋にあげ、小夜の両親はリビングで冬也の両親の帰りを待つことになった。

二階、冬也の部屋。

今、この部屋には冬也と小夜しかいない。

沈黙が支配する。

幼い二人は、まだ挨拶すらしていない。

冬也は緊張で汗だくだった。

どうしよう。

そんな時だ。

小夜が、少しだけ、笑った。微笑んだ。

その小夜の顔を見た冬也は、ほんの少しだけ、緊張が解けた。

…そして、取り敢えず、冬也は、

笑う事にした。

必死に、一所懸命に、笑った。小夜に満面の笑顔を見せた。

馬鹿みたいだが、幼い冬也なりに頑張った。

その時。

「ねぇ。」

小夜が冬也に話しかけてきた。

「私、あなたと友達になりたい。」

「え?」

「お父さんとお母さんから、あなたの事をずっと聞いてたの。とってもいい子だって。」

「…。」

「私なんかが、あなたと友達になれるかって、ずっと不安だった。」

「…。」

「すごい緊張してたんだ。」

…なぁんだ。

「でも、あなたの笑ってる顔を見て安心した。」

…俺と、一緒だったんだ。

冬也の緊張が、一気に溶けた。

そして、改めて冬也は小夜の顔を見つめる。

綺麗な子だった。とても、綺麗で、吸い込まれるようだった。

冬也の心の中に、先程とは異なる緊張が生まれた。

小夜が冬也に向かって手を差し出す。にっこりと微笑みながら。

冬也はその差し伸べられた手を、そっと握り返す。

自身の手の震えを悟られないように、一所懸命に取り繕いながら。

一目惚れ。それはそういう感情だった。

そして、惨劇は、始まる。運命が、牙を剥く。

ピンポーン。

玄関のチャイムが鳴る。来客だ。

本来なら、家の者である冬也が来客の対応をすべきであろう。

しかし、「冬也君。私が出るよ」そう小夜の両親は二階にいる冬也に気遣い、家族に代わり玄関に向かう。

小夜の父の声に、冬也も安堵して二階に留まった。

「あの~(^o^)」若い男性の声だった。

「はいはい、何でしょう?」

玄関から、来客者と小夜の両親の声が聞こえた。

冬也は何気無く聴き耳を立てる。

「貴方達は、この家の人ですか?(^o^)」

「いいえ、いや、はい。そんなところの者もですが…。」

「卵を分けて欲しいのですが?(゜∀゜)」先程とは違う若者の声だ。来客者は男性二人らしい。

「卵、ですか…。少しお待ち下さい。」

一旦玄関ドアを閉める音がした。

「おい、どうする?」と小夜の父。

「うーん、きっとお隣さんですよね…。親切にしておいたほうがいいんじゃないかしら?」

と小夜の母。

「そうだな。紙木城さんには、後で事情を説明しよう。卵を取ってきてくれ。」と小夜の父。

「はい、あなた。」と小夜の母。

少しの間。それから。

「はい、卵です。どうぞ。」

「あの~(^o^)」

「はい。」

「二つ下さい(゜∀゜)」

「はい?」

「僕らは二人で来ているんですよ。卵が二つ要るのは当たり前じゃないですか(^o^)」

「…はぁ。」

「もう一つ、持って来て下さい(゜∀゜)」

「…はい。」

暫しの間。それから。

「…はい、どうぞ。もう一つ持って行って下さい。」

「ありがとうござい、あ!(^o^)」

「あ…。」

「卵、落としてしまいました。もう二つ下さい(゜∀゜)」

「はぁ…。」

それから、若者達は、繰り返し卵を持って来させては落とす事を5回繰り返した。

「もう、いい加減にしてくれませんか!」小夜の父の堪忍袋の緒が切れた。

「あ~。、そこにあるゴルフクラブ、立派ですね(^o^)」

若者は先程から小夜の父の苛つきを全く意に返してもいない。それどころか絶妙に人を苛つかせている。

嫌な予感がした。この来客者は、普通ではない。部屋の中にいる小夜も不穏な予感を感じているのか、固まっている。

「試しに振らせてください(^o^)」

「ちょ、ちょっと!」

ゴキン!と鈍い音がした。

「うぐぅわーーーーーー!」

小夜と父の叫び声がした。

「あ~足の骨折ったくらいで叫ばないでよ。叫ぶと奥さんのも一本折っちゃうよ~(^o^)」

「ぐぅぅ…。」

小夜の父が痛みに耐える嗚咽が聞こえた。

「奥さーん、この縄で旦那さん縛っちゃって~。変な事すると、今度は旦那な腕とか、砕いちゃうぞ(゜∀゜)」

「は、はい…。」

小夜の母は若者の声に従い、小夜の父を縛る。

「ちゃんと縛った? どれどれ、ちゃんとしなかったら、頭★砕いちゃうぞ)^o^(」

「さて、リビングに移ろうか(^∀^)」

二人の若者がドカドカと土足で家内に上がり込む音がする。

「さ~て、と(´∀`)」

ガキン!

先程と鈍い音。それは、硬い金属で骨を殴る音。その直後

「ギャーーーー!」小夜の母の叫び声だ。

「これで、逃げられない(^O^)」

先程の父の声と、たった今聞こえた小夜の母の声。冬也の目の前

体を縮めている小夜の顔は蒼白を通り越して青ざめている。

冬也自身も、この非日常的な事態に頭の中が真っ白になっていた。

「そう言えば、貴方達は子供さんはいるのなかな(^O^)?」

「い、いません!」小夜の母が、痛みに耐えながら即答する。

「ほんっと、かな~(^∀^)」

「隠れてるんじゃないのかな~(^O^)」

二人の若者の声に小夜の父は焦り、

「あ、あんた達、何が目的だ なんでこんな酷いことをするんだ!」

と子供から話題を外らす。

「うーむ、なんでだろうな♪( ´θ`)」

「最近、よくきくじゃん♪(´ε` )」

「抑圧された若者の理由なき暴力♪( ´θ`)ノ?」

「そんなやつだよ٩( 'ω' )و」

「理由なんて、無いよね٩( ᐛ )و」

「無いね(*'ω'*)

「偶然、町外れのこの家に目がいっただけかな(´ω`)

「ここなら、いくら悲鳴を挙げられても、目立たない(^O^)

「理由があるなら、その程度( ´Д`)?」

「さーて、話は終わり(≧∇≦)」

「まずは、お父さんから、やっちゃおー( 'ω')」

ガツン! ドサ…

大人が、床に、倒れた音がした。

「キャーーー!あなた!」階下に悲鳴がこだまする。

続けて、再びガツンと音がして、悲鳴が消えた。

それはつまり…、小夜の両親は…

「やめてーー!」

両親の悲鳴を聞いた小夜は、冬也の目前で突然立ち上がり階下に向かって駆け出した。

冬也はそれをただ見ているだけであった。

「お父さんとお母さんに酷いことしないでー!」

「おお、いたいた。二階にいたのか~♪(´ε` )」

小夜が階下に行った事で、奇しくも冬也は若者二人に見つからずに済んだ。

「お嬢ちゃん、可愛いね。大人しくしてたら何もしないからね♪( ´θ`)」

「おか、あ、さん?…」

その声を最後に小夜の声が、消えた。

何があったんだ!

我に返った冬也は、もの音を立てないように階段に身を乗り出し、階下に目を向けた。

そこには、頭から血を流して床に倒れ込む小夜の両親と、呆然とした表情で固まる小夜がいた。

小夜が階下に降りた時、小夜は、血に塗れたの両親の姿を目にしてしまったのだ。

その時の恐怖で、小夜の心はここで一度、壊れたのかもしれない。

人質に使えると思ったのか、男は小夜を縛り上げた。

鳴き声も叫び声も上げずに、縛られたまま虚ろな目で虚空を眺める小夜。

その小夜の姿を見た時。

冬也は叫び出したい衝動に駆られた。

だが、必死で耐えた。

小夜への対応に夢中で、若者達は冬也に気づいていない。

気付かれてはならない。

仮に冬也が今ここで飛び出しても、小夜は救えない。

返り討ちに合う。

だが、絶対に奴らをやっつけてやる。

冬也の中に、残酷で冷静な思考があった。それほどまでに小夜を傷つけた若者達が、許せなかったのだ。

冬也の両親はまだ帰ってこない。

今帰ってきても、男に殺される。

その前に、小夜が殺される。

…小夜の俺の友達になったんだ。友達は、絶対に殺させない!

その時である。

「ちょっと外を見てくる( ^∀^)」そう言って、若者の一人玄関から外の出て行った。

チャンスだ!

これを機と見て、冬也は行動を起こす。

冬也は二階でわざと物音を立てた。

「なんだ(´⊙ω⊙`)?」一人階下に残る若者が音に気付き、階段を登ってきた。

折り返し型の階段は先の確認がし辛い。冬也は階段を登る若者の死角に篭り待ち構える。

そして、若者が階段を登りきる瞬間。

「やーーーーーーーー!」

冬也は影から飛び出し若者を突き落とす!

冬也に力一杯押された若者は階段を勢いよく転げ落ち、階下の床に叩きつけれた。

動かなくなった男の姿を確認し、冬也も一階に降りる。

男はピクリとも動かない。

まさか、死んでいるのか?

その時、横たわる小夜の姿が目に入った。

「さ、小夜!」

冬也は小夜へ駆け寄り、後ろ手で縛られていたロープを解く。

「大丈夫か!小夜! しっかりしろ!!」

小夜の肩を掴みながら、冬也は小夜の名を呼ぶ。

だが、小夜の眼は虚ろのままだ。

冬也の姿も、その言葉も、小夜の意識に入っていない。

冬也は、このまま小夜がどこかに行ってしまうのではないかと、恐怖にかられた。

冬也は小夜を抱きしめ、叫んだ。

「戻って来い! お前は一人じゃない。お前には、俺がついてる! 俺が守ってやる! だから、行くな!」

必死に叫んだ!

…冬也の腕の中で、小夜が小さく身を揺らす。

「まだ…、ダメ、だよね。…ありがとう…」

小夜は冬也を見上げて、微笑んだ。

「小夜…、う、うわ!!」

その時である。

突然、痛みとともに、冬也は中空に持ち上げられた。

「このクソガキ! 何してやがる( *`ω´)!」

もう一人の若者が外から戻ったのだ。

「声が聞こえるから戻ってきてみれば…ふざけるな(゜Д゜)!!」

若者は、冬也の髪を掴み挙げ、小夜から引き離した後、そのまま壁へ蹴り飛ばす。

内臓が砕ける程の強い衝撃をその身に受け、幼い冬也は悶え苦しむ。

「殺してやるよ。」

若者は、本気で冬也を殺す気だった。

再び冬也を抱え上げ、壁に叩きつけながら首を締めあげる。

「グ、エ…。」

息も出来ずに悶える冬也の視界の先に、朧げに小夜が見える。

虚ろな眼はしていない。しかしそれは、恐怖に怯え、身動き一つとれないでいる人間の眼だった。

「逃げ…ろ…、お前だけでも…、助かって、くれ…。」

冬也はなんとか声を絞り出し、小夜に逃げろと告げる。

若者はさらに冬也の首を締め上げる。

「ア…ァ。」

「死ね。クソガキ(`ω´ )!!」

冬也に向けられた殺意。そして、冬也の断末魔。

その時。

空気が変わった気がした。

暗くなる視界の中、若者の後ろで、倒れた小夜がゆっくりと起き上がる姿が見えた。

小夜、逃げるんだ…。

朦朧とする意識の中で、小夜が男に近づく姿が見える。

小夜…、

小夜…?

…いや、あれは小夜じゃない。

それは、恐怖に怯える小夜でも、心を無くしかけた小夜でもなかった。

それは、強い意志と生命力を宿した、小夜とは異なる人物のようだった。

小夜の細い腕が、冬也の首を締める若者の襟首を掴む。そしてそのまま後方へ投げ飛ばした!

幼子と思えない、信じられない腕力だった。

首締めから開放された冬也は咳き込みながら状況を把握する。

「何しやがる(`ω´)!」

起き上がる若者の手にはナイフが握られていた。

若者はそのまま小夜に襲いかかり、ナイフを小夜に突き刺す!

ように見えた。タイミング的にも、若者の動き的にも、ナイフは真っ直ぐに小夜の首に突き刺さる筈だった。

しかし、小夜の顔の手前で、ナイフは動きを止めていた。ナイフを手にする若者の動きも止まっていた。

いや。止まっているのではない。微かに、動いていた。ゆっくりと、ビデオ映像のスローモーションのように。

それはまるで、若者の周囲だけ「時間がゆっくりになっている」かのようだった。

「な~ん~だ~こ~れ~わ~( ⊙ ω ⊙ )」

驚く若者の声までスローになっている。

小夜はそんな異常な光景に驚く事なく若者の手からナイフを奪う。

右手にナイフを持ったまま小夜は再び若者の胸ぐらを掴んで床に叩きつけた。

「ぐえ~え~え~え~」叫び声までスローもである。流石に言葉にも余裕は無くなっていた。

地面に平伏す若者にトドメをさそうと、小夜はナイフを抱え上げる。

ダメだ、小夜! 殺してはいけない!

もし殺してしまったら、それこそ小夜は取り返しのつかない場所へ行ってしまう。冬也はそう直感する。

「ダメだ! 小夜、止めろ!」

冬也は小夜に駆け寄り、腕を掴み上げナフを取り上げようとする。

だが、幼い女の子とは思えない程の力でナイフを掴む小夜は、その手の凶器を手放さない。

その時、冬也の耳の小夜の呟きが聞こえる。

「冬也を…守るんだ…。」

冬也は小夜の体を抱き寄せる。

そして、冬也はもう一度、小夜の耳元で叫んだ。

「大丈夫だ! 俺は助かった! だから、もうやめるんだ! ナイフを離せ!!」

…しだいに冬也の腕の中で、小夜の力が抜けて行った。

そして、冬也の腕の中で、小夜は気を失った。

これが、小夜の中に別の人格が発現した、最初の出来事である。

小夜の両親は、出血や怪我は酷かったが命に別状はなく、しばらく入院する事となった。

この事件に責任を感じた冬也の両親は、しばらく小夜を預かる事となった。

何より、小夜は冬也の元から離れるのを嫌がった。

こうして、冬也と小夜はしばらくの間、共に暮らす事となり、家族同然に過ごす事となる。

小夜の両親が回復した後もは、小夜の気持ちを第一に考え、小夜の一家も冬也の自宅の近所に引っ越してきた。

もう一つの人格については、二人の両親にも、世間にも秘密だった。

明るく過ごしている小夜を、これ以上追い詰めるわけにはいかない。

小夜と冬也に倒された若者二人は、皮肉にも命を取り留めている。

警察の関係者に聞いたところ、この二人の実家は資産家であり、生活にも金に困ることも無くスリルを求めて何度も暴力沙汰を起こしているそうだった。流石に今回は少年院送りかと思われたが、親の裏工作で、無実のまま過ごしているらしい。

この事件の際に、小夜の中に生じた新たな人格。それがスカルペラだ。

…その人格に『スカルペラ』と言う名前が付くのは、もう少し後になる。

当初は、この時の小夜の変貌は、小夜の恐怖心からなる一回きりの変化だと思っていた。

しかし、その人格の出現は一回では終わらなかった。

それはつまり、この人格は小夜の一部であり、今後も生じる変貌である、と言う事だ。

小夜の別人格の出現。

その2回目は、7年前。冬也と小夜の二人が小学校の頃、下校中に遡る。

それは、突然に起こった。

小夜と近所になってから、冬也と小夜は同じ小学校・中学校に通っていた。

そして、その下校中。二人は突然、獰猛な犬に襲われた。

ドーベルマンのような真っ黒な犬だった。

この時の二人は知らなかったが、この黒犬は偶然にも重度の狂犬病に罹っていた。もしその牙に噛まれてしまったら、命に関わっていただろう。

命を脅かす危機に晒された幼い二人はどうなったか。

結果、二人を襲った黒犬は、…小夜に撲殺された。

冬也に襲いかかった黒犬を、小夜が近くに落ちていた鉄骨で殴り倒した。

地に伏せた黒犬を小夜は…小夜の姿をしたそいつは、情け容赦無く、骸になるまで叩き伏せた。

それは、小夜では無かった。冬也には解った。それは、あの時に事件の、ナニカだった。

「やめろ! 小夜!」

犬の骸に鉄骨を振り下ろす小夜を止めたのは冬也の声だった。

「…冬也ぁ…。」

その後、意識を取り戻した小夜は、自らが殺した黒犬の前で、手を血に染めながら、涙を流す。

黒犬の遺体は、幼い少女が殴ったとは思えない程原型を留めておらず、手にした鉄骨もひしゃげている。

凶暴で、残虐で、情けも容赦も持ち合わせず、人外の力を持つナニカ。

その得体の知れないナニカが、自分の中にいる。

そして、そのナニカは自分の意思ではコントロールできない。

その存在を意識した小夜は、自身の中に宿る人格の異常性に恐怖を抱くようになった。

この事件以降、小夜は犬に触れられなくなった。

当時、小夜が小夜に戻る直前。

冬也は一度、そいつに尋ねた事がある。

「お前は何なんだ!」と。

そいつは答えた

「僕は刃。名はスカルペラ。」と。

その名を告げ、小夜の中のスカルペラは消えた。残されたのは、血塗れの小夜だ。

その後も、スカルペラは出現を続けた。

当時は、小夜が何故、スカルペラに変わるのか、解らなかった。

だが、スカルペラが現れている時以外は、小夜は普通の女の子だった。

医者にも見せられない。例の事件以降、神経質になっている小夜の両親にも秘密だった。心配をかけたくなかった。

二重人格。解離性同一性障害。医学的には一般的に、その原因は強いストレスだと言われている。

だがスカルペラの存在は、ストレスなんて理由で片付けられない。

何か、別の要因があるはずだ。

きっかけは解ってる。

あの事件だ。小夜と、小夜の両親が殺された事件だ。冬也も殺されかけて、スカルペラに助けられた。

…だったら、スカルペラが小夜の中に生まれたのは、俺のせいだ。俺のせいで、スカルペラは現れたんだ。

冬也はそう考えるようになった。

もう一度、あの過去をやり直せれば、スカルペラは生まれず、小夜は傷付かずに済んだのではないか。

冬也はそう考えるようになった。

『スカルペラ』は自らを刃だと語った

スカルペラ…。

その意味は、Scaipela(医療用メス)。

人の身を裂く事で命を救う小さく鋭い刃。

その名が意味するものは、なんなのだろうか。

[2010年10月10日16時30分]

そして現在。

小夜の大学での実験事故の後。

冬也と小夜は、七瀬と合流し、帰路に就く。

道中、冬也と小夜の口数は少なく、喋っているのはほとんど七瀬一人であり、他の二人はたまに相槌を打つ程度だった。

スカルペラの存在を、七瀬は知らない。

だが、二人が…、特に小夜が実験の失敗で落ち込んでいるのだろうと思っている七瀬は、少しでも気を晴らそうと、終始明るい態度を崩さず、

「…だからね、チェスの対戦というのは、いかに相手の手筋を読むか、何歩先まで読めるかにかかっているんだよ。この技術は他のボードゲームでも活かされるんだ。例えば日本の将棋でも…。」

などと、チェスについて語っている。

だが、スカルペラの存在で気落ちした2人の足取りは、行きに比べてはるかに重く、暗い雰囲気を抱えたまま、三人は待ち合わせに使った公園に帰り着いた。

「やっと戻ってこれたね。いやあ、大変な一日だったね。」

「ああ、そうだな。えっと…。」

冬也は曖昧な返事を七瀬に返す。

冬也の頭の中は〝これからどうしていくか″で一杯だった。

スカルペラは消えてはいなかった。

そして、自分が小夜に会いたいという意思を出して行動したばかりに、また小夜を悲しい目に合わせてしまった。

小夜にとってスカルペラは、忌むべき相手なのだ。

と、そこに携帯の着信音が鳴り響く。

着信音は七瀬の懐から聞こえてきたものだった。

「…あたしに電話みたいだ。ちょっと席を外すね。」

そう言って、七瀬は二人も元から離れて行った。

「私達、これからどうなるんだろうね?」

七瀬がその場から離れた後、小夜は小さく呟いた。

悲痛な面持ちで小夜は絞り出すように言葉を紡ぎ出す。。

「冬也は、『あいつ』は自分のところを助けてくれたからって言って、笑って許してくれるけど、冬也が『あいつ』のせいで傷だらけになってる事を私は知ってる。

今日だって、左腕の怪我、隠してるんでしょ?

冬也だけじゃない。

『あいつ』が現れると、誰かが傷付く。

私の知らないところで、望まないところで、誰かが苦しむ。」

冬也は、唇を噛み締め、無言のまま、小夜の言葉に耳を傾ける。

「でも、でもね、

私が一番傷つけたくないのは、冬也。君なんだよ。

冬也が私の前からいなくなったのも、『あいつ』が理由なんでしょ? 」

「…。」

小夜の話は止まらない。

「冬也が『あいつ』の事で悩んでる事は解ってる。

ずっと、『あいつ』をどうにかしようと頑張ってる。だから、今まで私と距離を置いていたんでしょ!」

「…。」

「私達、もう会わないほうがいいんだよね…。会わなければ、『あいつ』は現れないから…。そうすれば、冬也も私も、他の誰も苦しまない…。傷つかない!」

「…。」

「私、決めた。もう冬也とは、会わない…。絶対に、会わない! そのほうが冬也もいいよね!」

小夜の声は、最後は、苦悶の中から出た叫び声のようになっていた。

「…。」

「…。」

2人の間に沈黙が広がる。

「…。」

「なぁ?」

冬也が沈黙を破る

「…なに?」

冬也は、小夜を真っ直ぐに見つめながら、言葉を絞り出す。

「本当に、それでいいのか?」

「え?」

驚いたように言葉を返す小夜。

「小夜は、本当に、それでいいのか!?」

小夜は、一瞬言葉に詰まる。

そして、

「…嫌に決まってるじゃないの!!」

今まで一番大きな声で、小夜は答えた。

「小夜の事、大好きだもん! 私の事、大事にしてくれたもん! たくさん迷惑かけても、笑っていてくれたもん! まだ、なんにも返してないもん! 離れ離れなんかになりたくないよ!」

その言葉を聞き、冬也は、自分の気持ちを小夜に伝える。

「…俺たち、もう会わないでおこう。」

「…。」

うつむく小夜。

「ただし、来年の四月までだ。」

「え?」

小夜は顔を上げる。

「俺は、小夜が大好きだ。子供の頃から、始めてあった日から、大好きだ。

だけど、俺が小夜の近くにいれば『あいつ』が現れる。『あいつ』が現れると、小夜が苦しむ。いつか、取り返しのつかない事になってしまうかもしれない。

小夜の未来が無くなってしまうかもしれない。」

「…。」

黙って冬也の言葉を聞く小夜。

「避けたくて避けてたわけじゃない。半年ぶりに小夜の声を聞いた時は、本当に嬉しかったんだ。」

「…。」

小夜が、ほんのちょっと、笑った気がした。

「俺は、小夜のせいで辛い思いをした事なんて、一度もない。思った事もない。」

「…。」

「俺は、小夜を助けたい。『あいつ』から解放させてやりたい。だから俺は…。」

覚悟を決め、冬也は小夜に伝える。

「俺は、タイムマシンを作る。そして、過去に行って、十年前の事件を防ぐ。そうすれば『あいつ』は生まれない。」

「!」

「今のこの状況が運命だと言うのなら、俺はその運命をタイムマシンを使って変えてやるんだ!」

小夜は驚いた顔で俺を見詰めた。

「今日、大学で【La+】を見て、俺は可能性を感じた。

来年、俺は小夜の大学に入学して【La+】の研究をする。

そしてタイムマシンを開発して、俺たちの運命の向こう側に辿り着く!

それが、俺の夢だ!」

「…。」

「…。」

「…ク…クク…。」

小夜は急に顔を下げ、妙な声を出した。

「お、おい、大丈夫か! 腹でも痛いのか?」

「クス…クスクス…あははははは!」

「?」

どうやら小夜は笑っているようだ。

「よくそんな事が考えつくね! タイムマシンなんて、本当に作れると思ってるの?」

「うるさいな。やってみなきゃわからないだろ!」

「でも、素敵な夢だよ。」

小夜は表情を戻し、冬也を見つめる。冬也は、

「来年、俺と一緒に【La+】の研究をしよう! 俺と小夜で、タイムマシンを作るんだ!」

と、小夜に語る。

小夜はハッとした顔になった。

「私と一緒に…」

「来年の春。この場所で、また会おう。

約束だ。小夜は【La+】と一緒に、先に待っていてくれ。」

「約束…」

「ああ、約束だ。その約束の日から、俺たちの未来は始まる。一緒に運命の向こう側に行くんだ。」

「うん。約束する。」

小夜は、笑いながら、泣いているような、嬉しそうな顔をしている。

…そんなに都合のいい未来が現れるはずがない。

タイムマシンなんて、夢物語だ。

運命の向こう側? 俺は一体何を言っているんだ?

だが、冬也にも小夜にも、二人が一緒にいられる未来が、未来への希望が欲しかった。2人には希望が必要だった。

それだけなんだ。

わかってるさ。結局、俺たちは、大切なものを捨てる決断なんて、出来なかったんだ。

「お待たせ。やっと戻ってこれたよ。ん、どうしたんだい、二人とも変な顔して…。」

電話をしていた七瀬が戻ってきた。

「…ああ、次の待ち合わせの約束をしていたんだ。」

冬也は七瀬に答えた。

小夜も笑顔で、

「うん。少し先になりそうなんだけどね。でも、約束したんだ。」

と七瀬に告げる。

そんな二人に、七瀬は何かを感じ取る。

先程まで冬也と小夜の間にあった陰鬱な雰囲気は、消えていた。

「…そうか。次はいつ、逢えるんだい?」

七瀬はそう二人に聞きながら、眩しいものでも見るかのように眼を伏せる。

「来年の春。ここで。」

冬也はもう一度、強い決意とともに、そう小夜に告げるのだった。

「うん。この場所で、待ってるからね。」

…半年後。

約束の日が訪れた。

2011年。

4月7日。

15時。

この日。あの公園で。

2人は再会する。儚げで、それでいて希望に満ちた、互いの未来を夢見ながら。

そして、幾度となく繰り返される惨劇の本編が、始まる。

~第2章~

[2011年4月7日14時45分]

再会の約束を交わした日から半年後。

冬也は、その約束の場所である公園に向かっていた。

左腕を掲げ、手首の時計を見る。

待ち合わせの時間は、15時。まだ15分ある。

もうすぐ小夜に会える。

半年ぶりの再会だ。

半年前の冬也は、小夜に会っていいのかを散々悩んでいた。

だが今日の冬也は、小夜に会いたくて仕方がなかった。

久しぶりに、心が踊っている。

冬也は念願叶い、小夜と同じ大学への入学を果たした。

もともと、成績が悪かったわけはない。

しかし努力は必要だった。

だが、努力の成果もあって、かなり上位の成績で合格できた。

これなら、研究についても多少の融通は効くだろう。

小夜に顔も立つ、というものだ。

昨夜、小夜にメールをした。

文面は、『約束は叶えられそうだ。』

返信は、『ありがと。待ってたよ。』

短い文面だったが、その言葉だけで、冬也達には充分だった。

半年前に冬也達三人が待ち合わせをしていた、桜の木の下のベンチが、再会の約束の場所だ。

今、冬也はその場所に向かっている。

♪♪♪♪…。

冬也の懐で、携帯が鳴った。

誰からだろうか?

冬也は懐から携帯を取り出し画面に眼を向ける。

着信の相手は…七瀬だった。

残念ながら、今日、七瀬はここに来られない。

チェスの大会の都合で、今は海外にいる。

この電話も、国際電話で海外からかかってきているのだ。

電話に出た冬也の耳元で、

『ヤッホー。冬也くん。元気にしてる?』

と、明るい七瀬の声から聞こえる。変わらない七瀬の明るい声に、

「ああ。元気でやってるよ。今、あの公園に向かっているところだ。やっと、半年前の約束を果たせるよ。」

と返事を返す冬也。

『あ、そうだったか。忙しかったね、ごめん。』

「いや。大丈夫だよ。海外にいるんじゃ、日本の正確な時間なんて、わからないもんな。」

「ははは、そんな事はないよ。」

七瀬と他愛もない会話をしながら、冬也は公園に到着した。

『…なあ、冬也。実はさ。こんな時に、凄く言いづらいことなんだけどさ…。でも、今言わなきゃこれからずっと伝える事が出来そうもなくってさ…、』

七瀬の声が、急に改まる。

だが、公園に足を踏み入れた冬也の意識は、公園の奥にあるベンチの所に佇む、白いコートの女性に向いていた。

…小夜だ。

小夜は約束通り、この日この時間、この場所で、冬也を待っていた。

『実はさ、あたし…。冬也くんの事がさ…、』

電話から七瀬の声が聞こえる。

だが、七瀬の声は冬也に届いてはいなかった。

冬也は電話を耳から離し、小夜に向かって手を振る。

「小夜!」

と、呼びかける冬也。

小夜も冬也に気づき、手を振り返す。

その時だった。

…何だ?。

突如…、

青いフードを被った人物が、小夜に近づいていった。

…誰だ、あれは?

目深にフードに隠れたその顔は窺い知れず、その表情も解らない。

フードの人物は、小夜の側で歩みを止める。

その人物は、小夜に向かって、何かを叫んでいるようだった。

だが、この距離では、フードの人物が何を言っているのか、冬也には解らない。

フードの人物が、懐から鈍色の刃渡りの長いナイフを取り出した。

そして、

フードの人物と小夜の影が一瞬重なる。

重なったと思った直後、もうフードの人物は小夜から数歩離れた位置にいた。

一瞬の出来事だった。

…なんだ? 今、何が起こった?

フードの人物が持つ刃が、紅く染まっている。

…なぜ、ナイフが赤いんだ?

違う。

あの赤色には、見覚えがある。

十年前の小夜の両親を染めていた色だ。

…血の色だ。

事態に気付いた冬也は、手にしていた携帯電話を地面に落とす。

フードの人物は、小夜から離れると、ふと描き消えるようにその場から姿を消した。

冬也の目のそう映ったのか、小夜の姿に意識を奪われていたのか定かではないが、フードの人物は、文字通り『姿を消す』ように冬也の視界から姿を消した。

小夜を見る。

小夜が、桜の木の根元に向かって、ゆっくりと倒れていく。

小夜の白いコートが紅く染まっている。

冬也は小夜に向かって、ゆっくり歩き出す。

なぜか、走ることができなかった。

自身の足が、指示を発する脳が、今目の前で起こったことを受け入れたくないかのように。

小夜から流れ出た紅色は、コートを染め、地面を染め、小夜自身を染めていた。

倒れ込んだ血塗れの小夜を抱き抱える冬也

「…あ、ぁあ…。」

冬也の口から、言葉にならない声が漏れ出す。

冬也の腕の中で、小夜が冬也を見つめる。

小夜が口を開き、何かを囁く。

「な、なんだ小夜! 聞こえないよ!」

小夜の口から発せられる声は、か細く何を冬也に伝えようとしているのか解らなかった。

「小夜!」

冬也が小夜に呼びかける。

その呼びかけに、小夜がもう一度、口を開く。

「…許して……あげ…。」

それが、小夜の最後の言葉だった。

小夜の口から、泡の混じった血液が、ゴボリと吹き出す。

もう小夜の口から言葉が発せられることは、無い。

小夜は、そのまま、眼を閉じる。

小夜の体から、力が抜ける。

冬也の腕に、重みがかかる。

地に染まる小夜の体は、重かった。

人の体に宿る、一番大切なもの。魂。心。

それが抜けてしまったにも拘らず、小夜の体は、重かった。

それは、…死人の重さだった。

地面に落ちた携帯電話から、「おい!どうしたんだい!」という七瀬の声が、鳴り響いていた…。

天海小夜は、死んだ。

突然に。

唐突に。

前触れもなく。

さも当たり前のような、当然さで。

マッタク…ワケガ…ワカラナイ…。

~幕間~

これはきっと夢なんだろう。

小夜の死に絶望し後悔の涙を流し続け疲れ果てた冬也が見た、微睡みの中の夢なのだろう。

…それは、小夜と冬也と、そして七瀬との、出逢いのエピソード。

…スカルペラとの3回目の邂逅。

…そして、幼い冬也の、小さく儚い、しかし確かな決意に至る物語。

天海小夜は明るく育った。

小学生の頃は、例の事件やスカルペラの存在が小夜を不安に掻き立てたりと、情緒不安定な時期もあった。

しかし、中学生になった頃から、小夜は、持ち前の明るさを取り戻し、朗らかで社交的な性格になった。

それは小夜が自身の境遇を前向きに受け入れた事も関係するだろうし、いつも近くで小夜を支えた冬也の存在も大きかったのだろう。

菅原七瀬とは、中学生の頃に出逢った。

その頃から七瀬は変わり者だった。

今でこそ能天気に明るく社交的な性格ではあるが、当時の七瀬は他人と群れる事を極端に嫌っていた。

大人しい奴ではあったが、教師からの質問には的確に解答を返したりと、この頃から天才の片鱗を見せていた。

会話すれば屁理屈ばかり並べる社交性皆無で成績優秀な偏屈者。

それが当時の菅原七瀬だった。

その存在は中学生のクラス内では異質であり、周囲の人間は七瀬と距離を空けた。

結果、七瀬はさらにクラス内での孤立を深める事となった。

しかし、小夜は違った。

物怖じしせずに、むしろ積極的に七瀬に近付いていった。

七瀬も最初の頃は小夜の存在を鬱陶しがっていたが、懲りずに話しかけてくる小夜に、ついに根負けしたのか、ポツリポツリと小夜と会話をするようになった。

小夜に心を許すようにはなった七瀬だが、それでも周囲との溝は埋まることはなく、冬也にも警戒の色を解かずにいた。

そんなある日の、放課後。

「七瀬! どうしたの、それ!」

人気の無い教室内に、小夜の声が響いた。

「小夜、どうした?」

教室の中にいるのは、小夜と冬也。そして七瀬だけ。

「…なんでもないよ。」

七瀬が呟く。しかし、その腕には大きな痣が刻まれていた。

「それ、誰かに叩かれたんじゃないの?」

…七瀬の偏屈ぶりが癇に障るクラスメイトはたくさんいた。

日頃からの無視や、教師に見えない場所で行われる陰湿な暴力。

七瀬はクラス内で、虐めの餌食となっていたのだ。

「あたしと仲良くしてれば、小夜もあいつらに目をつけられるよ。」

「でも、七瀬をほっとけないよ。あいつらって、あの、3人組でしょ?」

あいつら3人組…。もう名前は覚えていないので、仮にAとBとCという事にしておこう。

小生意気な女子でリーダー格のA。

口だけが達者なB。Aの取り巻き一号。

キレると面倒な筋肉バカのC。Aの取り巻き二号。

この3人が、虐めの主犯格だった。

心配する小夜の言葉を聞いているのかいないのか、七瀬は「大丈夫だから」を繰り返している。

そんな二人を見て、

「なぁ、七瀬。」

冬也が七瀬に話しかける。

「…なんだい、紙木城くん」

冬也の呼びかけに、七瀬はぼそりと返事を返す。その目は、死んだ魚の様に陰っていた。

「…なぁ。七瀬はなんでいつも大人しくやられてんだよ。たまにはガツンと反撃したらどうだ?」

「ちょっと、冬也! 七瀬は女の子なんだよ! 無茶言わないでよ。」

「そうかもしれないけどさ、七瀬は頭がいいんだから、あいつらをギャフンと言わせる方法ぐらい、思いつくんじゃないか?」

「無理に決まってるだろ…。」

七瀬が反論した。その表情にも言葉にも、力は無い。

「あいつらには敵わないよ。それに…。」

「それに? 言ってみろよ。」

冬也はまるで挑発するように七瀬に言葉の先を促す。

「あたしが皆んなから孤立してるのも、あいつらから虐められるのも、独りぼっちなのも、みんな、あたしが招いた事なんだからさ。」

七瀬の態度に、ほんの少し、熱が籠もった。

七瀬は、ぽつりぽつりと、自分の事を語り始める。

幼い頃、あたしは病弱だった。外にも出れず友達もできない。あたしには何も無かった。

だから、体調が安定した後は、一所懸命に勉強した。努力した。誰よりも!

そんなあたしには、周囲の同年代の人達が怠けてるように見えた。

頭でっかちになっていた。

そんなあたしの認識が、態度に、生き方に出た。

「あたしは、あんたらとは違う」と。

その結果が、今の孤独だ。孤立だ。

解ったろ? あたしの孤立には理由がある。

論理的な帰結だ。

まさに、運命なんだろうね。

仕方ない、さ。

一気に語った後、七瀬は息を切らせていた。

七瀬にとって、こんなに興奮して人に語りかけたのは、久しぶりだったのだろう。

暫くの沈黙の後で。

冬也は口を開いた。

「なぁ、七瀬。」

「…。」

七瀬の返事は無い。それでも構わず、冬也は言葉を続ける。

「七瀬は、『運命の向こう側』って信じるか?」

「…は?」突然の冬也の言葉に七瀬は困惑する。

「俺は思うんだ。運命って、過去も現在も未来も全部事前に全て決まっているのかもしれない。

でも俺は、運命とは、『人の力』で変えられるものであると信じてる。

けど、悔しいけど、どれだけ努力しようとも、簡単に人の力では辿り着けない未来も確かにあるんだと思う。

その『運命の向こう側』に辿り着くには、特別な力が必要で、特別な人じゃないとダメなのかもしれない。

でも、お前なら出来る。そんな気がするんだよな。

なんせ、お前は、天才だからな。

だから、俺は、七瀬。お前に期待してるんだぜ。」

唖然とする七瀬。そして、

「ぷ…クク…あっははははは!」

と笑い出す。

「何を真顔で変な事言ってるんだよ、紙木城くんは…。」

「ははは。おかしいかな。」

「ああ。可笑しいよ。こんなに笑ったのは久しぶりだ。」

「私も、いいかな?」

小夜が二人の中に入る。

「七瀬は、今の状況が、仕方ない、って言ってたけど…、

私は、『仕方ない』って言葉、嫌いじゃないの。

どう足掻いても、どうにもならない時もある。そんな時、人は『仕方ない』と口にする事もある。

でもそれは、前向きに運命を受け入れ、それでも前に進もうとする人間から発せられる希望の言葉だと思う。

そういう意味が込められた言葉だと思う。

『仕方ない』は、諦めの言葉じゃない

だから、七瀬は、運命を諦めてなんかいない。そう思うよ。」

「小夜まで…。可笑しな事を言うんだね。」

七瀬は冬也と小夜を見詰める。その瞳はもう陰ってはいなかった。

「小夜。そして紙木城くん。君達は他の人とは違うのかもな。」

七瀬の言葉に、

「あ、ああ。まぁ、ちょっと昔にいろいろあってさ…。」とはぐらかす冬也。

「俺たちの事よりも、だ。

七瀬を虐めるあいつらは、七瀬にとって『運命の向こう側』に行くのを邪魔する奴だ。

ぶち壊して、突破して、運命の先に辿り着いてみないか?」

そして、七瀬の戦いが始まる。

「あたしには、努力と、そして忍耐がある」そう自身を昂ぶらせながら、七瀬は反撃の準備を整えた。

廃ビルにABCの3人組を呼び寄せ、仕掛けた機材でドッキリを仕掛けたのだ。

幽霊の仕業に見せかけて音と光でABCの3人組を騙し、腰を抜かして怯えきった瞬間を写真の納めたのだ。

「今後、あたしに関わったら、このみっともない写真を一斉送信してばら撒くからね。」

七瀬は3人組に言い放つ。

「そ、そんな~」「やめてお願いそれだけは~」

七瀬の反撃に、AとBは腰を抜かしたまま泣き崩れる。

しかし、そこで誤算が生じた。

「ふざけんじゃねえぞ!」とCがキレたのだ。

AとBが止める間も無く、筋肉バカのCが七瀬に殴り掛かった。

その時。冬也が七瀬の目前に飛び出した。

「冬也!」小夜の声もした。

冬也と小の二人は、七瀬が心配で跡をつけて来ていたのだ。

Cにふっ飛ばされ床に倒れ込む冬也。

興奮したCは冬也に馬乗りになり殴り付ける。

その光景に慌てたAとBが冬也から無理矢理Cを引き剥がす。

そのまま、ABC3人組は逃げ出した。

残されたのは、床に倒れた冬也と、呆然とする小夜。そして、図らずも自分がきっかけとなって傷つき倒れる冬也を見つめる七瀬だけとなった。

「紙木城くん。ごめん。あたしのせいで…。」

七瀬は倒れ込む冬也に、涙を流して謝る。

「まぁ、大丈夫だよ。ちょっと痛いけど、しばらくしたら動けるから。」

「あたしは、紙木城君のおかげで、変われた。頭でっかちのなっていたあたしの頭を、紙木城くんは叩き割ってくれた。本当に、感謝してる。

あたしは、紙木城くんに…いや。冬也君に大きな借りを作った。この恩は、必ず返すから。今度は、あたしが、…守るから。…強くなるから、さ…。」

「わかったよ、七瀬。だからもう泣くなよ。」

「うん。冬也君。あたし、人を呼んでくる。たぶん頭も打っているから、まだ動いちゃダメだよ!」

そう言って七瀬は階下に向かって駆け出す。

「小夜は冬也君の近くにいてあげて! すぐ戻るから!」

「うん、わかった!」

七瀬が階下に向かった後。

「はぁ。冬也ぁ。」

小夜が溜め息を吐く。

「またバカなことして…。傷だらけじゃないの。」

呆れる小夜に、

「まぁな。でも七瀬を焚き付けたのは、俺だしな…。少しは責任取らなきゃさ…。痛ててて…。」

そんな冬也の言葉に小夜はクスリと笑い返す。

こうして、七瀬を取り巻く物語は終わった。

だが、冬也と小夜の物語はまだ終わらない。

それは、本当に偶然だった。

その廃ビルの鉄骨は偶然にも劣化が進みきっており破断寸前だった。

その廃ビルのコンクリートは雨風に晒され偶然にも損壊寸前だった。

その廃ビルは古くに捨てられ偶然にも全く整備もされず、倒壊寸前だった。

そして偶然にも、その廃ビルは例の3人組が偶然にも溜まり場にして暴れた事で、崩壊寸前だった。

そして更に、その崩壊は偶然にも、この瞬間に起こった。

ビルの壁に皹が走る。天井が嫌な音を立てて軋む。

床に亀裂が奔り、その亀裂は倒れ込む冬也の背の下に繋がり崩壊が始まる。

「う、うわーーーー!」

「きゃーーーーーーー!」

突然の事態に、冬也と小夜が叫び声を挙げた。

床の崩壊に巻き込まれ、階下までパックリと開いた穴に吸い込まれるように落ちる冬也。

このまま落下すれば冬也の命は無い。

しかし、その瞬間。小夜の伸ばした手が冬也の腕を掴む。

だが小夜の腕力で落下する冬也の体重を支えられるわけがない。

しかし、小夜はその細腕で冬也の落下を止めた。

それは、小夜では無かった。冬也は一眼で解った。

スカルペラだ。冬也が憎むあいつがまた、現れたのだ。

「お前は、スカルペラだな。化け物め。早く小夜から、消えろ!」

スカルペラが冬也を見つめる。その表情は、笑っているような、泣いているような、それまで見たことの無いものだった。

「まだ、消えれない。」

スカルペラがそれだけ告げると、勢いよく冬也を引き上げる。小夜の細腕が軋むのが解った。

スカルペラにとって、小夜が傷付く事はどうでもいい事なのだろう。

引き上げられた衝撃と、先程の殴られた傷が疼き、冬也はその場で気を失った。

病院で目を覚ます冬也。

隣には小夜が寝ている。

二人は同室のベッドで横になっていた。

小夜の腕はギブスが巻かれ固定されていた。骨折しているのだ。

二人は廃ビルの近くで倒れており、そのまま病院に運ばれたとの事だった。

…どうやってあ崩壊するビルから脱出できたのか、冬也は覚えていない。

しかし、小夜がスカルペラのせいで深傷を負ったのは間違いない。

「ちくしょう…。まただよ…。」

冬也が呟く。

「やぁ。気が付いたんだね。」

小夜の声がした。ベッドに横たわったまま、小夜が冬也に言葉をかける。

違う。それはスカルペラだった。

「…お前は、小夜の何なんだ!」

怒りに耐えながら、冬也はスカルペラを問い質す。

「僕はスカルペラ。」

「それは前にも聞いた! お前は、どこから来たんだ!」

「…未来から来た。」

「ふざけるな!」

「本当だよ。時の狭間の向こう側からやってきたんだ。」

くそ!

「…なんで、小夜に取り憑いているんだ。」

「さぁ。知らない。」

くそくそ!

「俺は、お前を消し去りたい。小夜の中から消えて欲しい。」

「今はまだ、無理だ。」

ちくしょう!

「…お前が小夜に取り憑いたのは、俺が原因だ。あの時、俺がもっと上手くやっていれば、お前は小夜に取り憑いていなかったはずだ。」

「…そうかもね。」

「あの時間に戻りたい。お前は未来から来たんだろ! 何か方法は無いのか!」

俺は一体、憎むべき相手に何を縋っているんだ…。

「…君は、時の理に逆らいたいのか?」

「…あぁ。」

「君が過去を変えたいのなら、時の理に逆らいたいのなら、一つだけ教えてあげよう。

『黄金の瞳の箱に宿るのは時の歯車の観測者。

幾億の記憶の欠片の果てに拒まれ弾かれた心の残滓は輪廻に囚われた小さな光と共に在る。』」

「…どういう意味だ?」

「この言葉の謎が解ければ、君は時の理が見えるかもしれないね。」

…ふざけた奴だ。本当に、ムカつく。

…だが、俺は、絶対に小夜を助けてみせる。スカルペラを消し去ってみせる。

人ならざる者の力を借りてでも、運命を変える。『運命の向こう側』に辿り着いてみせる!

「そろそろ僕は消える。またね。」

またね、か。まだこいつは、小夜の中に寄生するのか…。

「ねぇ。」

仏頂面の冬也に、今度はスカルペラが話しかける。「君は、。」

「…なんだ?」

「君はどうして僕が現れるか、理解していないのか?」

「…お前の事なんて、理解したくも無い。」

「…そうか。まぁ、いいか。」

その時のスカルペラの表情は、顔半分が笑っているような、もう半分が泣いているような、崩壊するビルの中で冬也が見た表情だった。

これが冬也と小夜、そしてスカルペラの物語。3回目の邂逅。

冬也の儚く細い理想を求める、決意の物語。

そして、物語は現代に戻る。

小夜の、死の、その直後に。

[2011年4月11日]

小夜が死から数日が経過した。

通夜は済み、葬儀も終わって、小夜の身体も灰になった。

小夜が生きた痕跡は、僅か数kgの遺骨と、小夜が残した身の回りの品々。そして、想い出だけだ。

小夜の葬儀の後、冬也は呆然としながら日々を送っていた。

あれから幾日か過ぎたが、まだ小夜の死が信じられない。

だって、おかしいだろう?

約束したんだぞ。

頑張ったんだぞ。

我慢したんだぞ。

それが、こんなに呆気なく、約束した未来が無くなるなんて…

通夜の夜、柚神教授と、実験場で見かけた飯島や宍戸も来ていた。

宍戸は、小夜の遺体を見て泣きじゃくっていた。

こんなバカな事があるものか!

信じられない!

そう叫びながら泣いていた。

言動はどうあれ、宍戸は小夜に心底惚れていたのだろう。

真美も、小夜の亡骸を見て、唇を噛み締めていた。

柚神教授は、小夜の遺体に頭を下げていた。何かを謝っているようだ。

項垂れた教授の肩を、真美が支えていた。

七瀬は…、

七瀬は、まだ海外におり、葬儀には来れない。

小夜を殺した人物は、行方不明だった。

小夜を殺害した後の足取りも掴めず、痕跡も見当たらない。

葬儀も終わり、小夜の笑顔は、写真の中だけにしか無くなった。

冬也は、空っぽな気持ちのまま、無為に時間を送っている。

自分の部屋から外に出る事は無く、気がつくと小夜の事を考え、どうすれば助かったのかを夢想し、現実とは異なる未来を思い浮かべて、考える事に疲れたら眠る事を繰り返した。

食事も、排泄も、睡眠さえも面倒臭い。

ただただ、小夜の姿を思い浮かべなから過ごしていた。

ある時、冬也はやり場のない憤りを、部屋の本棚にぶつけた。

崩れ落ちる本。全部、タイムマシンに関する書籍だった。

自分で調べた内容を纏めたファイルも数多くある。

こんな事に、意味なんてなかった。

なにがタイムマシンだ。

なにが運命の向こう側だ。

そんな物、できるはずがない。

所詮は絵空事だった。空想の産物だった。

小夜と一緒にいる為の、自分を誤魔化す為の言い訳だった。

冬也は、小夜との約束を思い出す。

『タイムマシンを作ろう』

『過去の事件をなかった事にしよう』

『一緒に研究するんだ』

約束を交わした日の空は、青かった。

…あの日は、何をしていたっけか?

…そうだ。大学での実験の見学をしていたんだった。

それで、俺は、″タイムマシンを作れるかもしれない…なんてバカな空想をしてしまったんだよな…。

ベッドの上に力無く倒れこむ冬也。

この数日で何度となく眺めた殺風景な天井が目に留まる。

涙で滲む視界の中で、ふと、あの時の実験に使われた【La+】の姿形が浮かぶ。

【La+】、か…。

…。

不思議な物体だった。

その形も出自も奇妙だったが、何より不思議だったのは…、

…不思議だったのは…。

その時、

あの日、俺は【La+】の出自を教授から聞いた。

だが、それだけでなく、【La+】を強く印象付けるきっかけがあった気がする。

…。

『アイ…タカ…タ…』

…。

そうだ。あの日、俺の頭に直接声が聞こえたんだ。

今思えば、あれは【La+】が話しかけて来たかのようだった。

そして、その声は俺の頭の中に入り込み、まるで俺の思考と言葉を借りるかのようにして、『ラプラスの悪魔』と時間跳躍を関連付けた。

あの時、【La+】は、何を言っていた?

俺の頭の中で、何を囁いた?

『アイ…タカ…タ…』

…あい、たか、った…?

あの時、まさか、【La+】は、俺に「会いたかった」と言ったのか?

会いたかった?

何と? 何が?

俺が? 【La+】と?

【La+】… 悪魔…

ラプラスの悪魔…

数学的時間跳躍…

悪魔?

数学的…『悪魔』?

まさか、『悪魔』が俺と、会いたいと言っていたのか?

【La+】に関わる数々のキーワードが、冬也の頭に浮かぶ。

小夜の死の衝撃に囚われていた冬也の頭脳が、数日ぶりに回転を始めた。

いや、まさか。それこそ空想の産物だ。

悪魔なんて、いるわけない。

だいたい、ラプラスの悪魔とは、思考実験の用語だ。

実在するわけないじゃないか。

だが、もし、もしも、万が一にも…。

…。

……。

…もう一度、【La+】の所へ行ってみよう。

全てはそこからだ。

そう、冬也は決心する。

あの日から。

小夜を亡くした日から。

希望なんて、持たない。

希望を持つなんて贅沢、俺にはいらない。

もう二度と、未来を夢見ない。

そう思っていた筈なのに。

なぜか今、冬也は希望を胸に感じる。

冬也の願いは、過去も現在も、そして未来でも、ただひとつ。

ひとつだけ。

『小夜を、生かす事』。

その為なら何でもする。

その為なら全てを捨ててやる。

もし本当に悪魔がいるのなら、何でも差し出してやる。

向かう先は、小夜の母校。冬也が入学する大学。

【La+】の在る学び舎。

冬也は、数日ぶりに外に出た。

日差しが眩しい。眩暈を感じる。

だが、それでも、冬也の足は、しっかりと大地を踏みしめる。

[2011年4月18日]

大学についた冬也は、【La+】の居所を探す。

【La+】は今、何処にあるんだろう。

合格してから以降、大学には行ってなかったが、一応冬也もこの大学の生徒だ。部外者扱いはされない。

散策を続ける冬也。

…そうだ。

柚神教授なら、何か知っているかもしれない。

大学内の案内図をもとに、冬也は教授の部屋を探す。

一時間ほど探し回り、やっと教授の部屋に辿り着いた。

だが教授は不在だった。

部屋内の学生に聞いたところ、数日間から体調を崩して大学を休んでいるそうだった。

「あら、紙木城くんじゃない。こんにちは。」

その時、冬也の後ろから女子の声が聞こえた。

振り向くと、小夜の先輩で同じ研究室に属していた真美がいた。

「お久しぶりです。真美さん。」

と、冬也は真美に挨拶する。

「うん。小夜の…葬儀の時以来だね。元気?」

「はい…。ところで、以前、教授と小夜が一緒に研究していた【La+】が、今が、今は何処にあるか、知っていますか? 教授に聞けば解ると思ってここに来たんですが…。」

冬也の質問に、真美は顔を曇らせる。

「…【La+】の件では、教授、小夜さんに大変に申し訳ない事をしたって、言ってた…。」

「え?」

「実は教授、もうあの物体には関わっていないの。」

「え?」

冬也は驚く。

「君が見学に来ていたあの実験の失敗の後、教授は機材の破損や怪我人が出た事への責任を取らされちゃってね。予算が大幅に縮小され、プロジェクトから外されてしまったの…。」

あの実験の後、そんな事になっていたのか…。

「予算も出ない。成果の見通しもない。そんな研究は誰も行いたがらなかった。小夜さんだけは、頑なにプロジェクトの再会を嘆願していたんだけど、結局本格的な再開には至らなかったの…。」

「それで、【La+】は、今どこに?」

「あの日の実験室の中に放置されたままよ。破損した機材の撤去も出来ていないの。でも小夜さんだけは、毎日、自分の勉強の傍で、時間ができるとあの実験室の片付けを行っていた…。」

「…。」

「『天海くんには、本当に苦労をかけている。申し訳ない気持ちで一杯だ』。教授はよく口にしていた…。」

【La+】の研究は、頓挫していたのか…。

だけど、小夜だけは、プロジェクトの再開を願い続けて、一人で頑張っていたんだな…。

冬也は真美に礼を伝え、【La+】の元へ向かった。

実験室へ着いた冬也は、借りてきた鍵で扉を開け、中に入る。

部屋の中は、真っ暗だった。

暗がりの中、破壊された夥しい数のモニター類や、蛇のように絡まる地を這うコードの束、瓦礫が散乱している。

冬也は瓦礫を乗り越え、実験室の奥に歩みを進める。

…あった。

そこには、真っ白なシーツに包まれた【La+】があった。

冬也は【La+】に掛けられていたシーツを剥がす。

『眼』があった。

黄金色の、あの瞳だ。

その眼を冬也が見詰める。

半年ぶりの、再会である。

【La+】にそっと触れる冬也。

その表面は鈍い光を放ち、埃ひとつ積もっていない。

「きっと、小夜が綺麗にしていたんだな…」

【La+】の表面を撫でながら冬也は一人呟く。

その時だ。

「そうなんだよ。彼女にはとても感謝している。」

「え?」

「小夜が死んで、僕も残念に思っている。」

突然に響いた声に驚き、周囲を見渡す冬也。

…誰もいない。空耳か?

「そっちじゃないよ。こっちだよ。」

「誰だ!」

空耳じゃない!

室内に響く声の主を探す冬也。

「こっちだよ。」

その声は、冬也の眼前上方…【La+】の上から聞こえる。

冬也は声のした方向に目を向けた。

そこには…、

「やっと会えたね。」

そこには、体長30cm程の、金色の生物がいた。

狐のような姿をした黄金色の生物が、冬也に話しかける。

「君がここに来ることは知っていた。待っていたよ。」

まるで未来を見通していたかのような口調だった。

人語を喋る黄金色の狐を目にし、驚く冬也。

だが、ここで臆するわけにはいかない。

「お前が、『ラプラスの悪魔』か?」

「そうだよ。僕が『ラプラスの悪魔』だ。」

…悪魔。本当に、存在したのか。

驚きながらも、冬也は冷静だった。

なんとなく、予感はしていた。半年前、【La+】に出逢ったその時から。

冬也の思考が回り出す。

半年前に始めて【La+】の声を聞いた時のように。冷静と希望の狭間で、冬也の思考が澄み渡る。

『ラプラスの悪魔』を凝視する冬也。その冬也に向かって、『ラプラスの悪魔』は言葉を続ける。

「厳密には、僕の本体は、この黄金色の箱だ。今、君が見ている僕…黄金の獣は、僕が君の頭の中に送っている映像で、イメージに過ぎないんだけどね。」

この狐のような姿は、俺と対話をする為にいるのか…。

まぁ、そんなことはどうだっていい。

「早速だけど…、」

『ラプラスの悪魔』が口を開き、冬也に告げる。

「紙木城冬也。僕は君と、契約がしたい。」

『ラプラスのは悪魔』は、そう冬也に言い放つ。

…悪魔と、契約…。冬也はゴクリと唾を飲み込んだ。

「天海小夜は、死んだんだろ?

そして君の願いは、天海小夜を死なせない事。そうだろ?」

その通りである。

「お前は、何なんだ?」

冬也は『ラプラスの悪魔』に質問を返す。

「うーん。僕の存在を君達人間に説明しても、理解できないと思う。正直、君達人間に僕というモノを説明する方法が思い浮かばない。高次元の存在の在り方を、低次元の存在に語ることは、とても難しい。」

見下したような返事を『ラプラスの悪魔』が返した。

「けれど、君達人間が僕に付けた『ラプラスの悪魔』という名前や概念は気に入っている。だから、僕は自分のことを『ラプラスの悪魔』と名乗ることに決めたんだ。」

「…概念。」

一体こいつは、何が言いたいんだ?

「そう。僕は、時間を司る悪魔だ。厳密には、究極の観察眼を用いて過去改変や事象変異が行える存在だ。驚いたかい?」

「別に驚かない。始めてお前の声が聞こえた時から、こうなる予感はあった。」

冬也は『ラプラスの悪魔』を凝視しながら答えた。

掌の震えを悟られぬよう拳を握って抑え込む。

「ほう…。」

冬也の態度に『ラプラスの悪魔』は感心しているようだ。

「過去改変に事象変異か…。悪魔と言われているが、その力はまるで神だな。けど、俺は、お前が正体が何者なのかは興味がない。俺の興味は、お前が具体的に『何ができる』のか。それだけだからな。」

「ふむ…」

「ここからの俺の問題は、お前との契約内容と具体的な能力についてだ。」

「それは話が早くてありがたいね。」

慇懃な態度で『ラプラスの悪魔』は冬也の言葉に相槌をうつ。こころなしか、その黄金の獣の顔は、笑っているかのように見えた。

「では、僕の能力を説明しよう。」

君が望む過去の場面へ跳べる。

過去の場面に、今の君を存在させられる。

つまり過去をやり直せるという事だ。

君が『この過去でいい』と思うまで、君が望む未来に辿り着けると思える過去が確定するまで、何度でも。

まぁ、多少の制限はあるけどね。

…君は、ゲームをやるかい?

ステージを進めて、納得いかない結果…例えば得点が低いとか、途中でパワーアップアイテムを撮り損ねたとか、そういう納得いかない状態になったら、その場でリセットして、またそのステージを最初から始められる。

納得できる結果になったら、リセットせずに次のステージへ進む。

僕の能力は、そういう類のものだ。

過去へ行って、小夜の死を回避できたら、そのまま未来へ進めばいい。それでエンディングだ。

簡単だろ。

自身の能力を語る『ラプラスの悪魔』の言葉を聞いて、冬也は思った。

こいつの能力は、最悪だ。

こいつの能力は、人間が積み重ねて来たあらゆる努力を簡単に崩し去る。

こつうは人間の人生や命を、遊び感覚で捉えている。

…いや、俺もあまり変わらないか。

…俺だって、過去の後悔という現実から逃げたくて、タイムマシンを求めていたんだからな…。

正義感や背徳感なんか、関係ない。気にするな。

俺は、こいつの提案を飲むしかないんだ。

冬也は答える。

「わかった。契約しよう。」

「そうかい。助かるよ。」

「ひとつ聞きたい」

冬也は『ラプラスの悪魔』に質問する。

「なんだい?」

「契約の代償は、なんだ? お前は悪魔なんだろ? 望みは俺の命か?」

「代償ね。そうだったね。僕は『悪魔』だ。悪魔との契約に代償が必要だったね。」

「? どういうことだ?」

冬也の疑問を無視して『ラプラスの悪魔』は言葉を続ける。

「残念ながら、僕との契約の代償は、命よりも重たいよ。」

…命より重い。『ラプラスの悪魔』のその言葉に、冬也は息を飲む。

「契約の代償は、君の存在だ。この世界から、君の存在を喰らわせてもらう。」

「存在?」

「そう。存在だ。君は世界からいなくなる。人の記憶から消える。君の成した事も、過去の栄光も、努力の成果も、全て消える。」

「…。」

「過去への跳躍を繰り返すうちに、君は他人から忘れられて行くんだ。

友人や家族から君の記憶が消えていく。

思い出も忘れ去られる。

存在していた証明が無くなる。

最後には、いなくなる。

最初からいなかったように、君はこの世界から存在そのものが消えてなくなるんだよ。

誰も覚えていないんじゃない。覚えるような存在ですら、無くなるんだ。

それが、この契約の代償たよ。」

「…。」

…俺の存在が無くなる…。

冷たい汗が冬也の背筋を流れ落ちる。

「跳躍のたびに、僕は君の存在を、少しずつ削り取って行く。物体が衝突した時に、脆い方の物体が削り取られるようなものだね。」

「…もう一つ、聞いてもいいか?」

冬也は、足の震えが見抜かれないように精一杯踏ん張りながら質問を続ける。

「どうして俺と契約をする?」

「え?…えっと、それはね…、」

何故か始めて『ラプラスの悪魔』が言葉を詰まらせる。

冬也の質問に驚いたようだった。

質問した冬也自身も、まさか『ラプラスの悪魔』が狼狽すると思わず、驚く。

「…どうして、か。うん。どうしてだろうね。その返答は、またの機会でもいいかな?」

答えたくないかのような態度を『ラプラスの悪魔』はとる。

「…まぁ、あえて言うなら、『声が聞こえる相手だったから』かな。」

…なるほど。

「わかったよ。」

「え?」

「お前の声が聞こえる数少ない人間である俺は、お前の数少ない契約相手なんだな。

お前と契約できる俺は、お前にも必要な存在のようだな。

つまり俺とお前は、契約相手としては、対等な立場にあるという事なんだろう?」

「ん~、まあ、概ねその通りかな。やめる?」

「今更拒まないよ。俺はお前と契約する。」

「…。」

『ラプラスの悪魔』が冬也を見詰める。そして、

「なぁ。」

「なんだ?」

「君は、恐ろしくないのかい? 悪魔と契約する事が。」

「怖いさ。」

「なら、なんで?」

…なんで? 今更こいつは、なにを言っているんだ?

「決まっている。小夜を、救うためだ!」

その言葉は決意の言葉。

目の間の人外の悪魔への宣言と同時に、己に誓う覚悟の言葉。

その拳に握られたものは、新たな希望。その足を支えるのは恐怖を乗り超える勇気。

冬也の手の震えは既に消えている。

「ふむ。」

『ラプラスの悪魔』が呟く。

「やはり、君は強いな。

君は絶対に迷わない。

目的の為に、今まで自分が築いたものを、簡単に諦められる。

思考の切り替えが早いというか、執着がないというか。

大事なものを守る為なら、迷いはないんだね。」

と冬也に言葉をかける。

そんな悪魔の言葉に、冬也は苦笑いをする。

「そんな事はない。迷ってばかりで、何一つ捨てられなかった、愚か者だよ。」

「そうか。まあいいや。では、始めようか。」

「あ、そうそう。最後に一つ。」

「まだ何かあるのか?」

「僕を呼ぶ時は、今度から[ラプラスの悪魔(LaplacescherDämon)]を省略して、ラプルと呼んでくれ。その方が、呼びやすいだろう?」

[どこでもない時間]

気が付くと、見知らぬ空間に冬也は立っていた。

何もない空間だった。

「ここはどこだ?」

冬也が呟くと、

『ここが僕の世界だよ。』

と、ラプルが姿を現した。

金色の小さな狐の姿だった。

『さぁ、早速始めようか。』

「ああ。」

『冬也。君の行きたい過去を思い浮かべてごらん。』

ラプルに言われるままに、冬也は、約束の日の小夜の姿を思い浮かべる。

すると、まるで、モニターに映し出されたように、公園で冬也を待つ小夜の姿が空間に映し出された。

『それが君の行きたい過去かい? もし仮に君の知らない過去でも、僕がその過去を観測できる限り、どんな過去へも跳躍できるんだよ。今は、君の心に浮かぶビジョンを、僕が映像化しているようなものだけどね。』

そうなのか。何でもありだな…。

『ただし、僕の観測力にも限界があってね。契約の時点から100年前までだ。」

100年か…。100年前じゃ、俺も小夜も生まれてさえいない。必要ないな…。

『さあ、過去場面の設定は済んだかい? あとは、君が飛べと願うだけで、過去へ跳躍するよ』

冬也は、待ち合わせの数分前に思考を合わせる。

そして叫ぶ。

「跳べ!」

と。

[2011年 4月7日 14時45分]

冬也は、見慣れた街の雑踏の中で我に返る。

…えっと、俺は、確か…、そうだ!

ハッとした冬也は、懐から携帯電話を取り出し画面を確認する。

あの日だった。

小夜との再会を誓った、約束の日だ。

時間は…、待ち合わせの時間の15分前…。

まだ、小夜が死んでいない時間だ。

…本当に、過去に戻れたのか。

まったく荒唐無稽な話だが、冬也は『ラプラスの悪魔』…ラプルと契約し、その悪魔の力を使って、過去に戻ってきたのだ。

…信じられない。

だが、方法や理論はどうあれ、冬也は再び、小夜との約束を守れる機会を、そして、小夜を救える可能性を、手に入れたのだ。

だが、時間跳躍という常識と人知を超えた能力の代償は、大きい。

冬也は、ふと、自分の手足を眺める。

…何も変わっていない。

能力の代償は、『存在の抹消』。

とても恐ろしい代償だ。

だが、今のところ、特に影響は無いように見える。

一回ぐらいの跳躍では、変化は微々たるものらしい。

…一回ぐらい…。まさか、これから何度も跳躍する事になるのか?

は! 馬鹿らしい。

冬也は、頭を振り嫌なイメージを追い出し、思考を切り替える。

あの時、なぜ小夜が死んだのか。

その理由は明白だ。

冬也は小夜が死ぬのを、自分の目で一部始終見ていたのだ。

あの時の死の原因は…、

あの人物だ。青ジャンパーの人物。

あいつが、小夜を刺し殺したのだ。

小夜を殺した後にそいつは姿を消し、警察でも発見できなかった。なぜ凶行に及んだのか、未だ見当もつかない。

だが、あの人物の凶行を阻止できれば、小夜は死なない。それは確なはずだ。

青ジャンパーの人物と小夜が接触するより先に、冬也と小夜が会えれば、仮にあの人物が小夜を襲って来ても、冬也自身が犯行をを阻止できる。

そうすれな、小夜は死なない。

それで、望み未来が手に入るはずである。

そう考えた冬也は行動を開始する。

冬也は一刻でも早く小夜に会うために、駆け足で公園に向かった。

そして、前回よりも数分早く公園に到着した。

いた!

見覚えのある白いコートの姿の小夜が見えた。

小夜は、約束の場所で、あの日のあの姿で、冬也を待っていた。

冬也は、小夜に駆け寄り、

「小夜!」

と大声で名を呼ぶ。

「びっくりした! もう、冬也ったら、どうしたの? 」

冬也の突然の大声に驚く小夜。

「どこも、怪我してないよな?」

「元気だよ。久しぶりにあったのに、どうしちゃったのよ?」

冬也の疑問に、不思議そうな顔で、小夜は答えた。

「ふう。」

冬也は安堵の吐息をもらす。

小夜は、生きている。

もう言葉を交わす事すらできないと思っていたのに、また生きて会うことができた。

動いている。

喋っている。

俺の半泣き半笑いの表情を見て、小夜は、

「変な冬也だね。」

と笑っている。

15時になった。

青いフードの人物は来ない。

俺が早く公園に着いて、小夜と一緒にいるのを見て、諦めたのか?

だが、どうやら小夜は助かったようだな。

もしかしたら、小夜が死ぬなんて夢だったのかもしれない。

ラプラスの悪魔とかも俺の空想。

タイムマシンの事ばかり考えていた俺の妄想だったのかもな。

安堵が、油断が、冬也の神経を支配した。

ズドン!

鈍い音がした。

なんの音だ?

まさか、銃…声…?

俺は、ゆっくりと小夜を振り返る。

振り返った先には、小夜はいなかった。

地面に倒れていたからだ。

倒れておる小夜の頭の辺りの地面が、紅く染まっている。

あの紅だ。

冬也は、呆然と顔を上げる。

黒いスーツの男が、こっちを向いている。

その手には、拳銃が握られている。

おもちゃか?

だが、銃口から煙が出ている。

最近のおもちゃは精巧にできているな。

違う。本物の銃だ。

じゃあ、打ち終わった弾丸はどこだ?

冬也は、血に染まる倒れた小夜を見降ろす。

まさか…?

…。

「うわああああああああああああああああああああ!!!!」

冬也は狂ったように叫び出す。

小夜が死んだ。

また死んだ。

なんだこれ。

なんだよこれ。

こんな結末、俺は、望んじゃいない!

そして、意識が切れる。

霞む冬也の視界の中で、スーツの男が、自分で自分の口に銃口を突っ込み、引き金を引いている姿が見えた。

[どこでもない時間]

また小夜が死んだ。

なんでだ。

青フードの人物は来なかった。

代わりに、今度は黒いスーツの男が来て、小夜を撃ち殺した。

視界の片隅で、スーツの男が自らを銃で撃ち抜いて死ぬのを見た。

なんなんだ。

わけがわからない。

『戻って来たんだね。あの結末では、不服かい?』

空間に、ラプルの声が響いた。

…当たり前だ。

『どうやらその顔を見ると、うまくいかなかったみたいだね。』

ラプルの不快な声が、冬也の頭に響く。

…よく考えろ。

冬也は、ラプルの声を無視して考える。

何がいけなかったんだ?

青フードの人物は、来なかった。

代わりに、黒いスーツの男が来て、小夜を撃ち殺した。

まるで黒いスーツの男が青フードの人物に代わり、小夜を殺しに来たかのようだった。

じゃあ、今度は、小夜の周りに、不審な奴を近づけないようにすればどうだ?

「ラプル! もう一度だ! もう一度、過去へ跳躍する。」

冬也は、再度、過去へ跳躍する。

[2011年 4月7日 14時]

約束の時間の一時間前に跳躍した。

冬也は、約束の公園に向かう。

今度は、小夜の周りに怪しい奴が近づかないように、早くから公園に行き、見張る事にした。

念の為、武器…家にあった包丁を懐にしまっておく。

14時30分。

冬也が公園のベンチ近くの茂みに身を隠す。

と、公園に小夜が現れた。

「あいつ、こんなに早くから待っていたのか…」

冬也は、茂みの中から小夜に聞こえないように呟く。

15時 五分前。

怪しい奴は現れない。

他に待ち合わせをしている人間や通行人、ベンチで休む人達がいるだけで、先のような不審な人物は現れない。

15時。約束の時刻になった。

どうやら、今度こそ、大丈夫のようだ。

冬也は隠れていた茂みから出て、小夜のもとに向かおうとした。

ゴワン!!

重量感のある音が聞こえた。

何か、硬いもの同士がぶつかるような音だ。

冬也が音のした方向に目を向ける。

は?

公園にトラックが入ってきた。

なぜ公園にトラックが入ってくるんだ?

さっきの衝撃音は、トラックが公園のフェンスを破壊した音だった。

トラックは、公園の奥にある桜の木に向かって行く。

そして。

トラックが、桜の木に突っ込んだ。

今度は、音はしなかった。

いや、冬也が音を感じなかっただけだろう。

冬也は、ゆっくりと、虚脱した足取りで、桜の木に向かった。

トラックは、相当な勢いで木の根元へぶつかったようで、トラックの正面や桜の木は、ひどく破壊されていた。

小夜は、どうなった?

…。

トラックと木の隙間から、白いコートがはみ出していた。

「…………………あ、あ…あ…、ああああああ…、あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」

冬也の意識は、そこで切れた。

[どこでもない時間]

小夜は、また死んだ。

なんでだ。なんでだよ。

青フードの人物は来なかった。

黒いスーツの男も来なかった。

そしたら、今度はトラックが小夜を轢き殺した…

小夜は死んだ。また死んだ。

冬也は虚空に向かって叫ぶ!

「ラプル! どうなってるんだ! なんでまた小夜が死ぬんだよ!」

虚空からラプルの声がする。

『知らないよ。僕は観測を行うだけだ。小夜が死ぬ事と、僕の能力は無関係だ。』

「くっ!」

ラプルの無機質な反応に、冬也は下唇を噛み締める。

「もう一度だ!」

冬也は再び虚空に向かって声を上げる。

[2011年 4月7日 14時40分]

あの公園にいると、小夜が死ぬ。

約束の時間になる前に、あの公園から小夜を連れ出そう!

冬也は、小夜に電話をする。

確かこの時間なら、小夜はすでに公園にいるはずだ。

『あ、冬也。どうしたの? 約束の時間にはまだ早いよ。』

小夜の声だ。

「小夜。実は、ちょっと待ち合わせの時間に遅れそうなんだ。場所を変えたいんだけど、いいかな?」

一瞬、小夜は考え込むように黙り込んだ。そして、

『…遅れても構わないよ。まだ明るいし。冬也が来るのを、ここで待っていたい。』

「え…」

『公園で再開する。大事な約束だから…。』

「馬鹿!! そんな事を言っている場合じゃないんだよ!!」

冬也は、つい声を荒げてしまった。

『馬鹿とはなによ、馬鹿とは! 私はここで待ってるからね! 早く来てよ!』

電話を切られた。

怒らしてしまったようだ。

あいつにとっても、今日という日は、とても大事なものようだ…。

…やばい!

冬也は我に返る。

早く公園に行かなければ!!

冬也は公園に向かって走り出す。

ふと、腕時計を見ると…。

15時だった。

ズドン!!

爆破音が聞こえた。

公園のほうからだ。

今度は、なにが起こったんだ…。

公園に向かって走る最中、野次馬の声が耳に入って来た。

『あの公園にあったゴミ箱が爆発したんだって。』

『かなり大きな爆発だったみたい。』

『時限爆弾だって。テロかしら…。やあねえ。』

『女の人が一人、爆発に巻き込まれたってさ。近くで爆発したから、怪我どころか、手足バラバラだってさ。』

…。

冬也の意識が途切れる。

また、やり直しだ…。

[どこでもない時間]

刺殺銃殺轢殺爆殺。

今度はなんだ?

まるで殺人事件のバーゲンセールだな…。

冬也は、自嘲気味に笑う。

なんなんだ、いったい。まったくわけがわからない…。

もう何度、そう呟いたか数えきれない。

…まさか。

何度繰り返しても、小夜を死の惨劇から救う事は出来ないのか…。

冬也の胸に、重い感情が宿る。

『ねえ、冬也。』

と、そこにラプルの声が響く。

「…なんだよ。」

冬也は不快感を隠すことなく、ラプルに返事を返す。

『君は、時の再現を4回繰り返した。それでも小夜は救えない。救うのは、無理なんじゃないのかな?』

無理か。無理なのか?

ラプルの声に、冬也は再び自身の心に自問する。

…いや。違う。まだ方法が残されているはずだ。

冬也は虚空のラプルに叫ぶ。

「ラプル! もう一度だ!」

『わかった。諦めないんだね。…まあ、がんばってくれ。』

「…悪魔のお前に心配されるとはな。」

ラプルの声に、冬也は口元を歪ませる。

[2011年 4月6日]

今度は、約束前日の夜に跳んだ。

小夜は、待ち合わせの場所を変更させるためだ。

前回は、焦ってしまい、小夜を怒らせてしまった。

だから、今回は、丁寧に慎重に、小夜との待ち合わせについて相談を行うつもりだ。

明日の待ち合わせの場所を変えたい事を頼むと、小夜は、やんわりと冬也の要望を拒んだ。

冬也は、どうしても待ち合わせの場所を変更をして欲しと、何度も小夜に懇願する。結果、小夜はしぶしぶながら、納得してくれた。

次の日。14時45分。

待ち合わせの場所は、大学の構内だ。

小夜にも慣れた場所だから、待ち合わせの場所には問題ないだろう。

と、冬也の携帯電話が鳴る。

メールだ。

着信は、…小夜だった。

メールの内容は『やっぱり、あの場所で待ってたいの。』

「あの馬鹿野郎!」

冬也は苛立ち、思わず叫ぶ。

どうやら小夜は、大学ではなく、公園に向かったようだ。

すぐに小夜に公園から離れるように電話をするが、反応が無い。

何かあったのか?

16時30分

冬也が公園に着く。

小夜の姿はそこにはなかった。

小夜の携帯電話だけが、公園に残されていた。

小夜は、それからしばらく行方不明だった。

公園にいた人間によると、黒づくめの男達数人が、小夜を無理矢理車に押し込み、連れて行ったらしい。

小夜が見つかったのは、3日後。

変わり果てた姿で、近所の川の岸辺にいた。

傷だらけで、裸で、小夜は死んでいた。

乱暴され、殴り殺され、棄てられていた、

て。

…過去最悪の、過去だ。

冬也は、声にならない絶叫を上げ続けた。

そして、意識が切れる。

…また。ダメだった。

[どこでもない時間]

なんなんだ。あのクソッタレな現実は…。

「ラプル…。もう一度だ…。」

あれから、何度も何度も何度も何度も何度も、小夜を救うために、過去へ跳躍した。

そして…。

失敗失敗失敗失敗失敗。

全部失敗。

全部の過去で小夜は死んだ。

冬也が余所見をした瞬間に首を締められて殺された。

突然にガソリンをかけられて一瞬で焼け死んだ。

公園がテロ集団に占拠されて巻き添えで死んだ。

ある過去で、小夜が殺された後、殺した男を締め上げて、なんで殺したのかを聞き出そうとした。そいつは、「神様のお導きなんだ。」「これで僕は天国にいけるんだ。」とか、わけの解らない事を言っていた。

もう一度、冬也は跳躍を試みる。

「ラプル…。今度こそだ…。もう一度だ…。」

冬也は、回らない思考と、折れそうな神経で、ラプルに訴える。

『いいけれど…。大丈夫かい? だいぶ存在が薄くなってきたよ…。』

「かまわない。今度こそ、助けるんだ。」

『…。』

無言のラプル。

「おい。早くしろよ。」

冬也はラプルに向かって跳躍を急かす。

『ねえ。』

「なんだよ。」

『なんで、諦めないの?』

「え?」

突然のラプルの質問。

『今、君は自分の存在を削りながら、跳躍を繰り返している。それでも、小夜を助ける事はできない。君も、頭の中で認識してるはずだ。救うのは無理なんじゃないかって。』

「…。」

『君の行動は、もう君自身にとってデメリットしかない。それでも、君は諦めない。なぜなんだい?』

ラプルの問いかけに、冬也は沈黙する。

しばらくの沈黙の後、冬也はラプルに返事を返す。

「メリットとかデメリットとか、そんな事は、俺には、どうでもいい。」

『確率論や損得勘定を無視してでも、君に得るものはあるのかい?』

「…小夜を助ける。それが、俺の最大で唯一の行動理由だ。」

『僕には、理解できないよ。』

「…なあ、ラプル。心って、わかるか?」

『心?』

「わかるわけないよな…。機械だもんな。」

ラプルの声が聞こえなくなった。

そして、冬也は、もう数え切れないほど経験した跳躍を繰り返す。

[2011年 4月7日]

冬也は、疲れた足をひきづり、公園に向かう。

油断すると、心の奥から這い出してくる絶望に食われそうだ。

実のところ、ラプルの言うとおり、冬也の心には、諦めの感情が芽生え始めていた。

だが。

だが!

負けてはならない。

冬也は、自身を鼓舞する。

小夜の為だ。

俺は、小夜を助けるんだ。

俺は、このクソッタレな過去をぶっ潰して、希望の未来へ進むんだ。

ある意味、冬也は、狂っていたのだろう。

絶望感に打ちひしがれないよう、冬也は、あえて狂信的とも言える精神を持って、過去への跳躍を繰り返していたのだった’

公園に向かう途中、二人連れの通行人の一人に肩がぶつかった。

「すみません…。」

反射的に二人連れの通行人に謝る。

その二人の通行人を、冬也は見た事があった。

確か、小夜の大学の知り合いの…、宍戸と真美だ。

一応、挨拶をする。

「あ、お二人とも、お久しぶりです。」

冬也が挨拶をすると、二人は怪訝な顔をする。

真美は宍戸に向かって、

「宍戸君、この方、宍戸君の知り合いかしら?」

と質問をし、真美の質問に、

「いえ、俺の知り合いじゃ無いですよ。真美先輩のお知り合いじゃ無いでしょうか?」

と答える。

え?

二人の会話を聞いて、冬也は嫌な予感がした。

冬也は、慌てて、

「以前、お会いした事があるじゃないですか? ほら、学校の構内で、小夜と一緒に…。」

と説明するが、二人は首を傾げたままだ。

まさか…。

二人は訝しんだ表情で、冬也の元から歩き去る。

二人がいなくなった後、冬也は、携帯電話の中の写真を見てみる。

以前、七瀬と小夜、冬也で撮った記念写真だ。

だが、三人で写っているはずのその写真には…。

「俺が、いない…。」

写真には、冬也だけが、写っていなかった。

…これが、存在が無くなる、ということか…。

これから何度となく跳躍を繰り返せば、もっと親しい人間の記憶からも、俺はいなくなって行くのか…。

嫌な考えが、冬也の頭をよぎる。

…もしもだ。もしも仮に、俺はこのまま聖美を救えず、何度も何度も、何百回も何千回も跳躍を繰り返して、俺の存在が消えたとする。

小夜が死んでいて、俺が存在しない状態の未来が、この先に待っている可能性がある…。

又は、仮に小夜が生き残った未来があったとしても、小夜から俺の記憶とか思い出とか、存在が消えている可能性もある…。

それは、俺にとって、最悪の未来じゃないのか…。

いや、大丈夫だ。

もう少し頑張れば、きっと、小夜は助かる。

そうだ。俺が消える前に、小夜を助ければいいんだ。

大丈夫だ。

きっと、大丈夫だ。

なんとかなるさはず…。

冬也は、頭を振り、心に沸いた最悪な思考を、無理やり追い出した。

ふと、時計を見た。

15時だった。

[どこでもない時間]

冬也は、目覚めた。

またダメだった。

前回の過去を思い出す。

時計を見た直後、その目の前には、阿鼻叫喚の世界があった。

阿鼻叫喚の世界が目の前に現れた。

倒壊したビル。

燃え盛る街並み。

逃げ惑う人々。

旅客機が、街に墜落したのだ。

あろうことか、あの公園に向かって。

自爆テロらしい。

当然、小夜は死んだ。

冬也は、一つ確信した。

小夜は死ぬ。

絶対に、死ぬんだ。

俺が何をどうしようとも、小夜は死ぬんだ。

それは、覆せない運命なんだ。

もう無理だ。

助けられない。

ちっぽけな俺なんかじゃ無理だったんだ。

相手が巨大過ぎる。

運命相手に、どう立ち向かえばいいんだよ…。

その上、このまま跳躍を繰り返せば、俺の存在は、誰からも失われる。

絶望に支配されるな?

絶望に飲み込まれるな?

絶望に立ち向かえ?

俺は俺の心を、そうやって何度も鼓舞してきた。

だが、こんな状況で、どうやって絶望するなっていうんだよ…。

…冬也の心に、絶望が広がっていった。まるで、水面に漆黒の色が落ち、醜く汚く染まって行くかのように。

…。

『なあ、冬也。』

唐突に、空間にラプルの声が響く。

『君は、数え切れないほど、時の跳躍を繰り返し、過去に飛んだ。』

うるさい。

『そして、何度も何度も、小夜を救おうとした。』

うるさい!

『だげど、いつまでたっても、何度繰り替えしても、小夜を救えない。』

うるさい!!

『まるで、惨劇のループを繰り返すように、君は無謀な挑戦を繰り返している。』

うるさい!!!

『遂には、君の存在が消え始めた。君は、それを実感した。』

「…うるさい!!」

虚空に向かって叫ぶ冬也の声を意に返すこともなく、ラプルは冬也に向かって言葉を紡ぐ。

『けど。君は、それでもなお、諦めないのだろ?』

「…え?」

ラプルの思いもよらない言葉に、冬也は驚く。

「諦めない。君の心は、そう叫んでいるのだろう?」

冬也は、しばらく黙って、ラプルの言葉を心の中で反芻する。そして。

「ああ。そうだ。俺は、諦めない。」

冬也の声に、ラプルは、

「そうか。まあ、頑張りなよ。」

と冬也に向かって、言い放つ。

ラプルのその言葉は、先程と同じものではあったが、その声の響きには、心無しか、憂いが含まれているような感覚がしたことを、冬也は感じたのだった。

俺は、目を閉じる。

残された機会は少ない。

だが、考える時間はある。

…考えられる時間か。

時間がある限り、俺の意思が折れない限り、まだ希望はある。

冬也は自身の心に問い掛ける?

いけるか?

大丈夫。まだやれる。

これが心を摘む戦いなら、俺はまだ折れない。

どうやらまだ絶望するには早いようだ。

[どこでもない時間]

冬也は、気持ちを落ち着けて、想像力を働かせる。

大丈夫。

時間はたくさんあるんだ。

冬也は、この空間で、ラプルを相手に、今までの経過の整理と、推理を始めた。

必然…偶然…。

必然とは、起こらなければならない事。

偶然とは、予期せず生じる事態。

小夜の死は、偶然じゃない。仕組まれている。

そう。小夜の死は、必然なんだ。

…。

必然が生じるのは、そうと決められているからだ。列車がレールの上を走るように、決められた道を走る状況だ。

それだって、レールを作る存在がいるはずだ。

そのレールを作っているのが、『運命』という概念だとしよう。

この概念…運命が、小夜を殺したいのか?

なんの為に?

なんの為に、人間を一人、必ず殺す?

…。

必ず殺す?

そう。小夜は、どの過去でも、必ず″殺されて″いるんだ。

誰が殺しているんだ?

青いフードの人物か?

黒スーツの男か?

旅客機のパイロットか?

…。

違う。

誰か個人が小夜を殺しているわけじゃない。

世界そのものが、運命が、小夜を殺しにかかっているかのようだった。

…。

なんの為に?

…。

もし小夜の死が世界にとって必然だとしたら、それは『運命』にとって、小夜が死ぬ事が都合のいい展開であるとうことだ。

世界にとって、小夜を殺す事に利点がある…。

殺害に至る『動機』があるという事だ。

動機があるから、殺人を起こす。

…。

なにがなんでも小夜を殺さなければならない。その為に、多種多様で予想外の手段を使って、小夜の殺害を繰り返している。

誰が?

何のために?

運命が?

…。

仮に、その運命に、意思があったとしよう。

それはつまり、小夜を殺そうとする【絶対殺害意思を持つ者】…犯人がいるという事だろうか…。

過去で直接小夜を殺した犯人(黒スーツの男など)ではなく、その裏にいる、小夜を殺すことを望み、直接犯行を行った犯人達を操る存在がいるのでないか?

…仮に、小夜の死を願う存在…【真犯人】がいるとする。

その真犯人の犯行を防ぎ、小夜を殺させない事が、俺と小夜にとっての勝利だ。

…。

だが、現在。

俺は今その真犯人に追い詰められている。

真犯人の目的が小夜の死だとするのなら、防ぐことが出来ていない俺は、勝てないのかもしれない。

これがゲームなら、もうほとんど詰んでいる。

俺は、何度も何度も小夜の死を阻止しようと試みたが、真犯人は、俺にも小夜にも予想外の手段で、真犯人は小夜を殺そうとうる。

そして、現に何度も、俺は失敗している。

…。

このままでは、負ける。

真犯人には勝てない。

何か打開策はないか…。

小夜を殺そうとする、真犯人。

その犯行から、小夜を守れる起死回生の一手が必要だ。

…。

ゲーム…一手…。

そういえば…。

以前、七瀬が言っていたな。

「勝負とは、相手の手をいかに読むかにかかっている」とか。

…七瀬に会いに行こう。

あいつの知恵を借りれば、何か手が思い浮かぶかもしれない…。

だが、菅原七瀬は、まだ俺の事をまだ覚えているのだろうか…。

[2011年1月]

冬也は、七瀬に会う為に、再度過去に跳躍した。

小夜が死ぬ三ヶ月前。

この頃なら、七瀬はまだ日本にいる。

冬也は、緊張しながら、七瀬へ携帯電話で連絡をしてみる。

…もし俺に関しての記憶がなくなっていれば、電話番号の登録も消えているのだろう…。

電話すら繋がらない可能性もあるんだな…。

もし、七瀬が俺の事を覚えていなければ、せっかく考えた案が破綻する事になる。

それ以上に、やはり、親友であった七瀬から、俺の存在が消えている可能性がある事が、心底恐ろしい。

大切な親友から『知らない人』扱いされる事は、俺の想像以上に、恐怖を感じる状態だった。

『はい。』

七瀬が電話に出た。

「あ、あの、菅原七瀬さんでしょうか?」

しばしの沈黙…。

まさか…。

『…ああ、なんだ、冬也君か。馬鹿丁寧な言葉使いだから、誰かと思ったよ。』

…良かった。忘れられてないない。

冬也は、安堵の息をもらす。

「ちょっと七瀬に相談したい事があるんだけど、今から会えないかな?」

近所のファミレスで、冬也は七瀬と落ち合った。

「お待たせ。あたしに相談事とは、どうしたんだい?」

さっそく冬也は話を始める。

だが、いくら聡明な七瀬でも、さすがに『ラプラスの悪魔』とか時間跳躍とかは、簡単には信じないだろう。

冬也は、『ラプラスの悪魔』などについての事情は隠しながら話を進める事にした。

「いや、実は、受験勉強の気晴らしに、たまにゲームをやっているんだけどな…。」

七瀬は笑って答える。

「ずいぶん余裕だね。まあ、息抜きも必要だしね。で、それでどうしたの?」

冬也は、話を続ける。

「そのゲームの相手が、凄まじく強くてな。かなりの手練れなんだ。俺は連戦連敗。たったの一度も勝てず、数えきれないほど負けてる。俺は、そいつの打つ手を予想して、やり返そうとするんだけど、相手は必ず俺の予想以上の手で反撃してきて、全く勝てない。何か、起死回生の有効な手はないものかな…。」

「ん~、ずいぶんと、のめり込んでるね…。」

話を聞く七瀬に疑う様子はないようだ。俺が勉強をサボっているという疑惑を持たれそうだが…。

「七瀬、以前にさ、チェスについて、相手の読み筋や手を推測することが勝利に繋がるとかなんなとか、言ってなかったけか?」

「ああ、なるほど。その話か。」

七瀬は納得したように相槌を打つ。

そして、説明を始めた。

例えば、チェスにおいて、コンピューターは人間よりも強い場合が多い。なぜなら、コンピューターは、これから打つ全ての手の可能性を予想・考慮し、最善の、一番勝率の高い手を打ってくる。だから強い。それは、理論上は究極の必勝法だ。

だからこそ、逆に次の手を読みやすい。

その打つ手には必ず意味があるからだ。

遊びや無駄がない。

『勝利』一点しか見ていない。

だが、相手の思考が読みやすい分、打ち筋は単純だ。あたしは、そういう相手の方が、勝負しやすい。

あたしが怖いのは、偶然だ。

打つ相手の、突然の閃き。直感。理論を超えた一手。

その感覚からの一手は、殆どは悪手だ。

だが、人間同士の戦いの場合、この『相手に読めない、読みづらい』直感の一手が有効に働く場面が多々にある。

予想できる一手じゃないから、不意をつかれる。

なんせ、相手には意味があっても、あたしには予想のできない意味の一手だからね。

それでペースを乱されて、退人戦では負けた事もある。

ようは、偶然を装うように、相手が予想できない一手を打てばいい、という事だ。

逆転が困難で、負けパターンが構築されている展開では、逆にこの、相手の裏をかいたような一手が勝利を導く事がある。

ただし、不意打ちに近いこの戦法は、何度も使えない。何度も行って相手に警戒されると、意味を成さなくなる。

使えるのは、同じ相手に一度きり。まさに切り札。それぐらいの気持ちでタイミングを掴んで、この札を切る必要がある。

七瀬の説明が終わった。

「だいたいこんな所だけど、何かヒントは掴めたかな?」

冬也は真剣な表情で頷いた。

「…ああ。一回だけの切り札。予想不可な一手。裏をかく…。」

冬也の表情を見て、七瀬は安心したように、

「なにか掴めたようだね。良かった。」

と冬也に伝える。

「助かった。十分なヒントになったよ。」

「…。」

冬也の言葉に、七瀬は急に真面目な表情になる。

「なあ、これは本当に、ゲームの話なのかい。」

「え?」

冬也は、驚く。

「冬也君。あたしは、君が困っているのなら、協力を惜しまない。絶対に力になるからね。」

「…大丈夫だ。もう一度だけ、頑張ってみる。」

…俺の苦しみに、七瀬を巻き込んではならない。

冬也は、七瀬には詳しい事情は伝えないまま、礼を言うと、席を離れた。

…。

行く先は、過去。約束の日。

いや、今からなら三ヶ月後の未来か。

複雑怪奇だな…。混乱する。

頭も心も、限界が近い。

だが、切り札は手に入れた。

起死回生の一手を、俺は、これから実行する。

チャンスは一度きり。失敗は、もうできない。

この跳躍が、最後の跳躍になる事を願う。

いや。

最後の跳躍にする事を、冬也は、決意する。

[2011年4月7日14時45分]

何度過去を繰り返したか、もう俺は、覚えていない。

だが、この跳躍で、最後にするんだ。

冬也はそう決意を新たにし、七瀬からのアドバイスを元にした策を決行する。

もうすぐ約束の公園に着く。

冬也は、腕時計を見ながら、公園に向かう。

焦る気持ちを抑えながら、一度目にループした時の過去と同じ足取り、同じ速度で公園を目指すんだ。

そう自分に言い聞かせながら、着実に公園に向かう。

携帯を見てみる。

文面は『約束は叶えられそうだ。』

返信は『ありがと。待ってたよ。』

昨夜のメール。

あの過去と同じ展開だ。

冬也の打つ手。その作戦は『過去のこの世界を騙す』事。

冬也は、今までは繰り返される世界で、真犯人に抗い続けた。

真犯人の打つ手をひっくり返そうと、回避しようとして、抗った。

結果、真犯人は、冬也の予想以上の手段でもって、『小夜殺し』を実行し続けた。結果、一度も小夜を救えていない。

だから冬也は、七瀬からの助言をヒントに、策を考えた。

もし真犯人が、世界の運命を全てコントロールできるような存在ならば、わざわざ『この約束の日』に小夜を殺さなくてもいいはずだ。

だが、小夜は必ずこの場所で殺される。それは、この繰り返されるループで体験した絶対の理。必然だった。

小夜が約束の日に拘りがあることもあるが、真犯人にも、この日に小夜を殺さなければならない理由があるのだ。

真犯人の力は、絶対ではない。

コントロールしきれない、隙がある。

冬也は、その隙とは、【多種多様な殺害方法があること】であると推測した。

なぜなら、ただ小夜を殺すなら、絶対不可避な方法…例えば、冬也の介入があってもなくても殺せるような方法…、毎回旅客機を落とすとか、絶対な殺害方法があるはずだ。

それを行わないということは、真犯人の行っている、『小夜殺し』も、何処かで偶然に頼らなければならない、ということだ。

だから、真犯人は、多種多様な殺害方法を行っているのだ。

それが、冬也に対しての警戒なのか、他の要素によるものなのかはわからない。

…だが少なくとも、俺の心を折るには十分な手段だった。

もう一つの気になる要素は、過去に行くたび、毎回、小夜が死ぬ過程に差があることだ。

例えば、最初の時間は青いフードの人物が来て小夜を殺した。

それがあったから、冬也は、次の過去では青いフードの人物を阻止しようと、最初の過去よりも早く公園に向かい、青いフードの人物が来る前に小夜に接触した。だが、その過去では、青いフードの人物は現れず、黒スーツの男が現れて小夜を殺した。

冬也が″公園に早く着いた″程度で、小夜が死ぬまでの過去の流れに変化があったのだ。

つまり、小夜が死ぬまでの時間の流れは、容易く変化するということだ。

真犯人は、それを警戒して数多くの殺害方法を用意しているのかもしれない。

それは、逆にいえば、冬也が今までの過去のどれかと同じ行動をしていれば、その時と同じ状況になるかもしれない、という事だ。

今の冬也は、思い出せる限り、一度目に跳躍した過去と同じ行動をしている。

始めての時間跳躍だったこともあり、その時に自身がとった行動は、だいたい記憶している。その時の過去と同じ時間に、公園に到着するのだ。

そうすれば、この過去では、黒いスーツの男が現れるはずだ。

始めての過去跳躍では、小夜の死に動転し、なす術もなく黒いスーツの男の強行を許してしまった。

その時、もし周囲を警戒し迅速に対応できれば、小夜の死を止められたかもしれない。

懸念は、同じ行動を取る為に、男の銃器に対応できるような装備や武器の用意がない事だったが…。

真犯人を騙せ。

世界を騙せ。

あの過去のふりをするんだ。

それが、冬也の切り札。起死回生の一手だ。

全ては、冬也の予測だ…。もしかしたら全て無駄な空想なのかもしれない。

だが、冬也にはもう、この方法しか思いつかない。

この一手に賭けるしかない。

約束の公園についた。

最初の過去と同じ時刻だ。

小夜は、前の時と同じく、約束の桜の木の下で、冬也を待っていた。

冬也は、小夜に駆け寄る。

「小夜!」

冬也の声に驚く小夜。

「びっくりした! もう、冬也ったら、どうしたの? 」

「どこも、怪我してないよな?」

冬也の疑問に、不思議そうな顔で、小夜は答える。

「元気だよ。久しぶりにあったのに、どうしちゃったのよ?」

冬也は吐息をもらす。

「変な冬也だね。」

と笑っている。

ここまでは、あの時の過去と全く同じだ。

15時になった。

ここからだ。

勝負はここからだ。

冬也は、周囲を警戒する。

と、冬也の視界に、黒いスーツの男が現れた。

まっすぐ小夜を目指している。

ここまでは、最初の過去と同じ展開。

だが、ここからは違う。

あの時は、呆然と小夜が殺されるのを、ただ見ていただけだった。

無力だった。

今回は違う。

未来の予測と、それに対しての覚悟が冬也にはある。

「うおおおおー!!」

冬也は、大声をあげながらまっすぐ男に向かって走り出す。

冬也の突進の驚いた男の歩みが止まった。

男に組みついた冬也は、力任せに男を引きずり倒す。

「な、なんだ、お前は!」

と動揺する男。

男は組み伏せていた冬也を振り払い、体を起こす。

そして、懐から、黒く光る拳銃を取り出した。

拳銃を構えた男は、小夜に体を向ける。

男の殺意は、あくまでも小夜に向いているようだ。

男は、小夜に向かって走り出した。

させるものか!

冬也は、再度、男に向かって突進する。

体ごと男にぶつかり、男を弾き飛ばす。

弾き飛ばされた男は、近くのベンチにぶつかる。男とともに、派手に倒れるベンチ。

男はベンチの下敷きになり、動かない。

助かったんだ。

小夜は生きている。

冬也は、小夜を振り向いた。

突然の事に驚いた顔をしていた小夜だったが、冬也をいる方角を見て、表情を変えた。

眼を見開き、口を両手で抑えている。

瞬きすらしない。

どうしたんだ?

ズドン!

鈍い音が公園に響いた。

あの時と同じ銃声だ。

冬也は黒スーツの男に目を向ける。

黒スーツの男は、上半身だけを起こし、 懐から拳銃を取り出していた。

まさか!

冬也は、小夜の姿を凝視する。

…赤く染まった箇所はない。

冬也は安心する。

だが、その直後、冬也は、腹部に生ぬるい温かさを感じた。

温かいどころではない。

酷い熱を感じる。

冬也は、自分の腹部に眼をやる。

冬也の腹部は、赤く染まっていた。

男の銃から放たれた銃弾は、偶然か必然か、冬也を貫いたのだ。

腹部の熱さが、猛烈な痛みに変わる。

過去に体験した、どんな痛みよりも大きく抗いようのない痛みだった。

それは、死の痛みだった。

倒れる冬也。

仰向けに倒れた冬也のもとに、小夜が駆け寄る。

冬也に向かって、必死に呼びかける小夜。

だが、声は聞こえない。

どうやら、俺は、死ぬようだ…。

だが、小夜は助かった。

冬也は、最後の力で、腕を上げ、時計を見る。

16時10分。

小夜は、死なない。

小夜は、助かったんだ…。

冬也の意識は、それで途切れた。

[どこでもない時間]

真っ白い空。

過去への跳躍前にいた空間。

ラプルと冬也しかいない空間。

冬也は、その空間で、虚脱したまま、浮かんでいる。

体が怠い。

冬也は、前回の跳躍を思い出す。

そうだ!

俺は、小夜を を救えたんだ!

そして、小夜の代わりに、銃弾が俺を貫いて…。

…俺は死んだんだった。

「じゃあ、今ここにいる俺は、なんなんだ…。」

冬也が疑問を呟くと、虚空からラプルの声が聞こえた。

『君が、″この過去ではいい″と思えば、この過去の出来事を基にして未来が確定する。それはつまり、君の死が確定する、ということだ。』

…そうだった。

『君は、さっきの過去で、死んだ。でも、小夜は生きている。さあ、どうする? この未来で確定するかい?』

冬也は、しばらく考え込む。

…いや、答えは俺の中でもう既に決まっているんだ。

あとは、…覚悟の問題だ。

…。

どの程度時間が過ぎたか…。

冬也は、ラプルに向かって叫ぶ。

「いいよ。この過去で確定する。」

…。

そう。俺の目的は達成されたのだから。

小夜は死ななかった。代わりに俺が死んだ。それが運命だったのかはわからない。

だが、少なくとも、真犯人にとっては予想外の展開だったようだ。

…俺が死ぬ事で小夜が助かる未来があるのなら、俺はそれを受け止めよう。

冬也は、もう一度叫ぶ。

「ラプル。この過去を、俺は受け入れる。さあ、未来へ時間を進めてくれ。」

冬也は、ひどく疲れていた。

形は違うが、目的を果たして、安堵で力が抜けたのか。それとも、心身共に疲弊し切っていたのか。

どちらにしろ、冬也はもう限界だった。

…それに、仮にもう一度過去へ跳躍したとしても、俺はもう二度と、真犯人に勝てないかもしれない。

今回の一手は、一回しか使えない起死回生の切り札だ。

これで手の内はばれてしまったと考えていいだろう。

ならば、その手はもう、真犯人に通用しない。

今度こそ、真犯人は完膚なきまでに、小夜の死を繰り返し続ける。

冬也の勝算は、果てしなくゼロだ。

前回の過去で、冬也は、確かに真犯人の裏をかき、小夜を生かし、勝利したのかもしれない。

だが、冬也が死んだ今、とても勝利を掴んだ気はしない。

今回は、偶然に偶然が重なった、奇跡にすぎない。

だが、最悪の未来は回避できた。

小夜は生きている。

小夜は生きて未来を掴める。

「これで、契約は終了だね。」

ラプルは、狐のような黄金の獣の姿で現れた。

「君が死んだこの過去で確定すれば、これから先の未来では、僕との契約は関係なく、君のいない世界だ。君が死んでいる世界だ。だけど、君の存在は消えていない。親しい人間の中には、君の記憶が残ってるはずだよ。」

…そう。俺は死んだが、存在が消えたわけではない。

小夜の記憶に、俺は残る。

これは、最悪の未来じゃないんだ。

「なあ、ラプル。頼みがあるんだが…。」

「なんだい?」

「俺は死んだから、過去を確定すれば、俺は世界から消えるんだろう?」

「そうだね。死人は、未来では生きられない。」

「最後にお願いがある。小夜が生きている未来が見たい。」

「観測結果のシュミレートをすればいいんだね。できるよ。」

…未来を見る行為は、ラプル流に言うと、こん言い回しになるのか。

冬也は苦笑する。

「頼む。」

「わかった。特別サービスだよ。小夜には、毎日僕を磨いてもらった恩があるし、君にも感謝してるからね。」

「俺に感謝?」

「あ、ああ。僕の都合だよ。ま、どうでもいいことだ。繰り返すけど、本当に、この未来でいいんだね?」

「…ああ。」

冬也はラプルに返事を返す。

…解ってるさ。口ではなんと言おうが、心を誤魔化そうが、俺が小夜のそばにいられないのは、すごく悔しい。悲しいし、寂しい。笑ってる小夜の隣には、もう俺はいないんだ。

だけど、俺がいなくたって、小夜ならきっと前向きに生きてくれるはずだ。あいつは、強い。俺みたいに、ただひたすらに有り得ない未来の夢想ばかりせず、絶望に支配されず、希望を夢見て、前向きに生きていける。

「…もし仮に、小夜に彼氏でもできていたら、俺はショック死するかもな。」

冬也がそう呟くと、

「もう死んでるけどね。」

ラプルがツッコミを入れた。

「じゃあ、いってみようか。未来へ。」

そういえば、真犯人について、一つ気になる事があった。

真犯人にとっての冬也は、小夜の死を邪魔する余計な存在であったはずだ。真犯人の力をもってすれば、冬也など簡単に始末できたはずなんだ。機会はいくらでもあったはずなのに…。

その疑問の答えを、冬也は、近いうちに知る事になる。

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お久しぶりです🌸
今回もすごく読みごたえのある作品ですね…
読み進めるのが楽しみですヾ(´▽`*)ゝ

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