中編3
  • 表示切替
  • 使い方

長距離走者の孤独

wallpaper:780

この街で迎えた最初の夜、

暗がりの部屋で枕を潰し、天井を眺めながら考えていた。

これから先いつか、この寂しさに堪えられなくなるとして、

そうしたら私はどんなふうに壊れてしまうだろう。

nextpage

窓から自動車の光が這入りこみ、

天井を切り裂いて消えていく。

もう堪えられなくなっていた。

寂しさに手を引かれドアを開ける。

nextpage

遠くの空に誰かのクラクションが融け、

月は仄かに揺れ、

歩いているのは自分だけ。

けれど独りで部屋にいるよりは、

夜の広さは私に優しかった。

nextpage

そこへアスファルトを蹴る音が聴こえた。

―タッタッタッタッタ

背後へ近づいて来るので端へ避ける。

乱れないリズムと軽やかな着地のその足音は、

振り返らずとも練習を重ねたランナーのものだと判る。

nextpage

やがて私の傍を擦り抜けて、

ランナーが後ろ姿を現した。

nextpage

顔は確認できないがたぶん若い男性で、

肩の出た白いランニングウェア、公式の試合で着用するようなショートパンツ。

右脚のふくらはぎが縦に引き裂かれていて、

破れた筋繊維の束が脚の動きに合わせ宙を舞っていた。

けれど美しいフォームで彼は、夜の闇へと走り去った。

nextpage

wallpaper:4935

翌日、この街で迎えた最初の朝、

駅への慣れない道を歩きながら、

あと何度こんなふうに出勤するのだろうと考えていた。

マンションのゴミ捨て場を荒らす鴉、駐車場の三毛猫、

一軒家の玄関先で寝ている犬、煤で汚れた路傍のベンチ。

nextpage

老人、学生、社会人、それら擦れ違う様々な人々ともやがて何となく顔見知りになり、

いつかその日常に飽き果ててしまうだろう。

不満は無かった。

ただ不安だけが有った。

nextpage

“今”とは何だろう。

それを意識した瞬間に過去が産まれるのならば、

ずうっと今を続けられれば、何も失わないで済む。

けれど残念ながら私は、あまりに重く思い出を溜めてしまった。

今ここに在ることさえ、過去を生きているような気がする。

nextpage

wallpaper:780

休日を控えた夜、部屋で皿を割ってしまって、

心が酷く寂しくなって、あのランナーに会いたくなった。

nextpage

割れた皿もそのままに外に出て、

以前と同じ道を歩いてみると、

―タッタッタッタッタ

また軽やかな足音が背後へ近づく。

nextpage

やがて私の傍を擦り抜けて、

ランナーが後ろ姿を現した。

nextpage

右脚は膝部分から欠損していた。

着地するべき脚が無いにもかかわらず、

まるで両脚で走っているかのようなフォームで、

そうして存在しない右脚がアスファルトを蹴る音が響く。

nextpage

いっぽう左脚の大腿部には開放性の骨折が見受けられ、

砕けた骨が皮膚を突き破っていた。

両腕も数カ所で、飛び出た骨に巻き込まれ脂肪や血管が露出していた。

nextpage

以来、私は暇な夜には散歩して、

彼の経過を見守った。

両脚は削れて、腰椎は背を破り、

腕は落ち、肺らしきものが胴の穴から垂れ下がった。

nextpage

別れを予感した或る夜、

とうとう彼はひとつの眼球だけで走っていた。

視神経の千切れた眼球が宙に浮き、

―タッタッタッタッタ

私の隣を駆け抜けた。

nextpage

次の夜から、彼はもう現れなかった。

ほんとうの理由はきっといつまでもわからないけれど、

彼が走っていたのはたぶん、

置き去りに出来なかった“今”。

その姿にどんなに励まされたか、どうにか伝えてみたかった。

nextpage

どうすれば、もう会えない誰かに想いを届けられるだろう?

無力さや諦めに襲われて、それでも願いが打ち勝った時、

そこに祈りが産まれるのかもしれない。

私は彼へ、祈りを捧げることにした。

いちばん良さそうな方法で。

nextpage

白いジャージを揃えて、

新しい靴を履いて、

この街を、この脚で駆ける最初の夜。

私はとても寂しくて、

不安はずうっと消えなくて、

けれど走りたい“今”が産まれた。

nextpage

今ここに在ることは、いつも初めて。

Normal
コメント怖い
2
5
  • コメント
  • 作者の作品
  • タグ
表示
ネタバレ注意
返信
表示
ネタバレ注意
返信