アパートの話〈『話』シリーズ〉

中編7
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アパートの話〈『話』シリーズ〉

僕が住んでいるアパートは、僕より十五歳年上だ。一棟だけではなく、まるで団地のように六棟が立ち並んでいる。

線路のすぐ脇に建てられているのだが、電車から見ると同じ外観の建物がA棟からF棟までズラリと並ぶ姿はなかなか圧巻だ。アパート名は知らなくても特徴を説明すれば、大体の学生は「あぁ、あの」と合点がいくようだった。

それなりの年月を経ているため、外壁は塗装が剥げているし、鉄筋が剥き出しの階段は使うたびにカンカンとけたたましい音を立てた。

しかし外観は古びているが、室内は新しい入居者が入るたびにリフォームされるため、それなりに新しく見える。

玄関を開けるとすぐ左手に台所、右手にユニットバス、目の前にはガラガラと音を立てる引き戸があって、その向こうに六畳の生活空間がある、学生アパートによくあるつくりだった。

物件探しをした際、予算内で候補として見せてもらった中では、室内に大きな窓があり一番日当たりが良くきれいな部屋だった。それでこのアパートに決めたのだが、実際には通学するのに長くて急な坂を上らなければならず、学生からは敬遠される立地だった。おかげで、近所に友人は少ない。

一応学生アパートだが、専用ではないので、もちろん学生以外の住民も多い。

中には、明らかに家賃を払っておらず、その上正当な入居者をあの手この手で追い出そうとする不法占拠者も、若干名いるようだ。

僕の部屋の、ちょうど向かいの部屋がそうだった。

僕が住んでいるのはA棟の202号室なのだが、この部屋の玄関を開けると、ちょうど目の前にはB棟の同じ部屋、つまりB−202号室の窓が目に入る。

このB−202号室には若い女性が住んでいた。話したことはおろか、挨拶したこともない。というか、会ったことすらない。

ではなぜ知っているのかというと、電話をかける彼女の姿を、窓越しによく見かけるからだ。

彼女は決まって夜、部屋の電気をつけレースのカーテンだけを閉めて、窓辺で誰かと電話をしていた。

それはそれは楽しそうに。

彼女には、大学に入学してすぐに気がついた。

夕方アパートに帰ってくると、彼女の姿が目に入る。薄暮の中、それはまるで影絵のようにはっきりと見えた。

一体誰と話しているのか、彼女はいつも笑い転げていた。腹を抱え、仰け反ったり身体をくの字に折ったり、時には飛び跳ねたり窓枠を叩いたり。まるでこちらに見せつけているようで、なおかつ精神状態を心配してしまうくらい大袈裟な笑い方だった。

窓は閉められており笑い声はまったく聞こえなかったが、あれでは隣近所の住民は迷惑しているに違いない。

その頃、僕は毎日鬱々としていた。

入学早々突然、得体の知れない不気味なものたちが見えるようになってしまったせいだ。

たった一人のアパートの部屋に帰るのが怖くて憂鬱で、楽しそうに誰かと話す彼女を恨めしく思っていた。

その後僕は、不思議なものが見えてしまうのは左目のせいで、それを隠してしまえば見えなくなると知った。

眼帯や前髪で左目を隠すようになってしばらくして、ふと、最近隣の棟の彼女を見かけないことに気がついた。

彼女がよく窓辺で電話をしていた時間帯に、ちらりと隣の棟に目をやると、いつも閉められていたレースのカーテンが開いていた。というか、カーテン自体がなくなっていた。

引っ越したのかな? そう思った瞬間、嫌な予感が背筋を走った。よせばいいのに、僕はゆっくりと左目を覆う眼帯を外してしまった。

覆いが外れた左目には、電話をしながら相変わらず笑い転げる彼女が、はっきりと映っていた。

後になって大学のクラスメイトから、

「先輩から聞いたんだけど、キタくんの住んでるアパート、B棟の202号室は出るらしいね。新しい住民が入っても、夜になると笑い声が聞こえてくるから長続きしないんだって。見たことある?」

と話を持ちかけられ、内心苦笑した。

他にも、アパートの掃除をしてくれる片足のおじさんや、毎晩決まった時間に部屋の片隅にやってくる猫、屋根を走り回る子供、夜中の窓に映る巨大な影、空中を泳ぐ魚など、不思議なものはたくさんいる。

しかし、それは僕のアパートが特別というのではない。

僕も見えるようになってから初めて知ってゾッとしたのだが、どのアパートでも民家でも、学校でも道端にも、不思議なものたちはどこにでもいる。

『あれらは別に特別なものではないんよ。人間や動物や虫たちと変わらない、ただ、少し見えにくいというだけ。必ず悪さをするというものでもないし、あれらがいるからなにかいわくがある、というわけでもないんよ』

僕の人生の先生であるハルさんはそう言った。

にわかには受け入れ難いことだったが、今では僕も少しは慣れ、いちいち驚かなくなった。

双方に失礼だと怒られるかもしれないが、僕はあれらのものたちをゴキブリのようなものだと思っている。

害虫ではあるが、目立って何かをするわけではない。

姿や痕跡を見かけると嫌な気分になる。

気づかなければ平和だが、気づいてしまえば恐ろしい。

どこにでもいる。

そう考えると、あれほど怖かった怪異たちだが、中にはゴキブリよりはマシと思えるものもいるので、なんだか不思議だ。

・・・・・

休日を前にしたその日、オイちゃんが僕の家に遊びにきた。

僕とオイちゃんはクラスで二人きりの浪人生同士、入学当初から親しくしている。でも、浪人生という共通点がなくても、きっと仲良くなっただろう。それくらい、僕らは気があった。

オイちゃんはよく、酒とつまみを持って僕の家を訪れた。特に理由のない、飲んで語らうためだけの飲み会だ。

といっても、僕はあまり酒は強くない。缶チューハイ二本が限度で、あとはコーヒーとつまみだけでも十分楽しい気分になれた。

対するオイちゃんはザルで、中でも日本酒が好きらしい。どんな飲み会の時でも、彼の前には日本酒の瓶や徳利が転がっていた。アルコールも飲み会も大好きなオイちゃんだが、なぜか「うわばみ」と呼ばれるのだけは嫌がった。

夕方六時頃やってきたオイちゃんは、僕の部屋に入るなり眉をひそめた。

「どうかした?」

「んー、なんでもない」

そう言いながら、オイちゃんはいつになく僕の部屋をキョロキョロ見渡し、やがてカーテンレールの右端で視線を止め、しばらくそこを睨んでいた。

実は三日ほど前から、その場所には黒いモヤが留まっている。

モヤは、性別もわからないような人の顔に固っては、またバラバラに崩れる、ということを繰り返していた。だんだんその顔がはっきりと見えるようになっている気がして、僕は少し気味が悪く思っていた。

「あのさ、タバコ吸ってもいいか?」

オイちゃんが僕に向き直って、少し申し訳なさそうに言った。

オイちゃんはスポーツマンらしく非喫煙者なのだが、なぜか鞄の底にはいつもタバコが一箱入っている。

「いいよ」

僕はもちろん頷いた。なぜかはわからないが、理由があるからに決まっているからだ。

悪りぃな、と言いながら、慣れない手つきでオイちゃんはタバコに火をつけた。普段吸わないからだろう、女性向けの軽いやつだ。顔をしかめながら吸い、それをゆっくり、細く長く吐き出した。

僕は左目を覆う前髪をかき上げて、煙の行方を見守る。

煙は意思を持っているかのように、渦巻きながらカーテンレールへ向かっていく。蛇が獲物を締め付けるように黒いモヤにまとわりつくと、やがて煙もモヤもスゥッと消えてしまった。

「悪りぃな」

オイちゃんはもう一度そう言って、一口しか吸っていないタバコに流しの水をかけた。

「おぉ、なんか空気がすっきりした。古いアパートだからかな、よく虫が入るんだよね」

「虫、ね。キタも、自分で追っ払えるようになれよ。困るだろ」

「でも、見なかったことにしたら、大抵のものはやり過ごせるからさ。こっちが無視してたら、大体は無害じゃん?」

「ならいいんだけどな」

僕はオイちゃんに、自分の左目が怪異を映すことは言っていない。オイちゃんも、自分と常に一緒にいる蛇のような女性の話をしたことはない。

でも、僕たちは同じものを見ているんだろうな、と、多分お互いが思っている。

僕が思っているだけかもしれないが、深く言及し合わないオイちゃんとのそういう関係は、心地よかった。

「まぁ、キタくらい大らかにドンと構えてた方がいいのかもな。どんなとこでも出るもんは出るんだし」

「でしょ? お、これ僕の好きなつまみ。サンキュー」

「ピザ頼もうぜ。俺カルボナーラ」

「マルゲリータ、な」

オイちゃんは照れ隠しの手刀を繰り出し、僕はそれを避けながら、二人で声を上げて笑った。

ふと、隣の棟の彼女を思い出した。

今も誰かと電話しているのだろうか。あの、どこか見る人を不安にさせる大笑いとともに。

彼女の電話の相手が誰なのかは、僕にはわからない。

でも、ついつい人目も憚らず爆笑してしまうくらい、楽しくて大好きな相手ならいいな、と思った。

僕のアパートの話は、これにておしまい。

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