梅雨の話〈『話』シリーズ〉

中編7
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梅雨の話〈『話』シリーズ〉

梅雨はジメジメと湿っぽく陰気で、洗濯物は乾かないし、空を見上げれば分厚くどんよりとした雲しか見えない。

でも、僕はこの季節がわりと好きだ。

なぜだか理由はわからないが子供の頃から、この時期に咲く紫陽花に妙に心惹かれ、ウットリしてしまう。もしかしたら、前世はカタツムリだったのかもしれない。

そんなわけで、テレビで梅雨入りが報じられるとどこかウキウキしてしまう僕なのだけれど、その感覚は左目が光を失い、次いでそれまでにない奇妙なものを映すようになってから、いや増した。

気候の変化に伴ってその時期のものたちが蠢き始めるのは、人間の目に見える場合もそうでない場合も同じだ。

いつ止むともしれない雨とともに降ってくる、半透明のミジンコたち。

篠突く雨の中を行く、差し手のいない傘の群れ。

校舎の壁一面に、妙に明るい紫色のカビがびっしりと生えている。

湿気を吸ったのか、何十倍にも膨らんだ勲章藻やボルボックスは、普通では見えないという性質だけはそのままに、雨後の水蒸気に乗って空に昇っていく。

土砂降りの空を泳ぐ蛇には、角と髭が生えている。

僕が好きな紫陽花の下には、必ずエノキ茸に手が生えたようなものが群れをなして、絶えず揺らめいている。あれが、紫陽花の精というやつなのだろうか。

一度可愛いと思って眺めていると、あるのかないのかわからないような目で睨まれた。

僕の住むアパートの近くの電信柱の上には、この時期になると大人が丸くなったほどの大きさのカタツムリが、どこからともなくやってくる。なんとなく親近感を感じるし、雨が降る一時間ほど前になると巨大な殻から顔を出すので、登校時など助かっている。

・・・・・

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ある六月の夜。僕はいつものように駅でハルさんの隣に座り、行き交う人波を眺めていた。

いつものことだが、今夜もお客はいそうにない。

「ありゃ。あの子、変わったものをつけてるねぇ」

ふと、独り言のようにハルさんがそう漏らした。

「あれは、どこぞの水にまつわる神様だよ。あんなのが憑いてるなんて、すごいね」

ハルさんの視線を追って、僕はどれがその「水にまつわる神様」なのか首を傾げた。

向かいのカフェの窓際では、背中に大蛙を背負った女性がくつろいでいる。

売店に立ち寄っている中年サラリーマンの頭の上では、足元まで髭を伸ばした仙人を思わせる老爺が、同じようにお土産を選んでいる。

通路をまっすぐこちらに歩いてくる男性の首には、マフラーのように蛇が巻きついていた。

どれも、水にまつわる神と言われればそんな気がする。

「あ」

僕はその中に、見知った顔を見つけた。

「なんだい」

「あの、友達がいて」

「…あんた、友達いたの」

ハルさんが本当に意外そうに言うので、僕は少し泣きたくなった。

「いや、ごめんごめん。毎週末あたしの所に来るからさ、こりゃ彼女も友達もいないんだと勝手に思ってたよ」

「ひどい…」

ハルさんはカラカラと笑い、「今日はもういいよ」と言った。

「どうせお客もいないしさ。友達とご飯でも食べといでよ」

・・・・・

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「おーい、オイちゃん」

オイちゃんは驚いた顔で僕を見た。

「キタ? なんでこんな所にいんの? それに…」

少し言い淀んだオイちゃんの目は、僕の左目に注がれている。いつもは斜めに下ろしている前髪を上げ、左目が露わになっているのだから、それは気になるだろう。

「この近くで、僕バイトしてるんだよ」

とりあえず、そういうことにした。

「バイトォ? 変なのじゃねぇだろうなぁ」

「超真っ当だよ。オイちゃんこそどうしたの?」

「俺はビアガーデンの下見だよ。今度、試合の打ち上げて使うんだ」

面倒くせぇよなぁ、とオイちゃんはため息をついた。

オイちゃんは野球サークルに入っている。打ち上げなんて、飲んで騒ぐだけなんだからどこでもいいじゃないかと僕なんかは思うが、それだけでは済まさないうるさいOBとやらが大勢いるようで、会場選びにはいつも頭を悩まされるらしい。

「お疲れさま。ところで、飯もう食った? 僕、ラーメンが食べたいんだけど」

「俺の選ぶ余地ねぇのかよ」

文句を言いながらもオイちゃんが頷いたので、僕たちは駅ビルの中にあるラーメン屋に向かうことにした。

並んで歩きながら、僕はオイちゃんの首元に目をやる。いつもなら何もないそこに、左目を隠さない今は黒い大蛇が巻きついているのが見えた。

ただの蛇ではない。なにしろ、蛇の頭部は美女のそれだった。

視線に気がついたのか、蛇女は横目でチラリと僕を見て、プイとそっぽを向いた。

僕はどうやら、彼女に嫌われているようだ。原因は、僕がオイちゃんと仲が良いからだそうだ。

詳細は知らないが、彼女はとても嫉妬深いらしい。いかにもモテそうなオイちゃんに、いつまでたっても彼女ができないのも頷ける。

蛇女はあからさまに僕を見ようともしなかったけれど、なにか気もそぞろな様子でソワソワしていた。僕のことなど本当にどうでもいい、といった感じだ。

チラチラと後方を伺いながら、オイちゃんの耳元になにやら囁いている。

僕には、なんと言っているのかはわからない。

しばらくは蛇女を無視していたオイちゃんだったが、やがて「仕方ねぇな」という表情で、右手を右耳のあたりで振った。

「なに?」

「虫が、耳元でうるせぇんだよ」

オイちゃんの言い草とは裏腹に、蛇女はその手の動きを合図のようにして嬉々とオイちゃんの首から離れ、宙を泳いでどこかに行ってしまった。

・・・・・

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駅ビルの中にラーメン屋は三軒あるけれど、僕もオイちゃんも豚骨一択なので、いつも決まった店にしか行かない。

僕が豚骨ラーメン大盛り、オイちゃんがチャーシュー麺の野菜増しを食べ終わった頃だ。

どこからともなく、オイちゃんの蛇女が戻ってきた。いそいそとオイちゃんの首に巻きつき、僕を一瞥する。

けれどその目にいつものような冷たさはなく、何故か満足そうで、かつ優越感に満ちていた。

「フフン」

そう鼻でも鳴らしそうな勢いで僕を見下した後は、まるで鳥が眠るようにオイちゃんのうなじに顔を埋めた。

「腹一杯になってすぐ寝るって、赤ん坊かよ」

オイちゃんはボソッと言ったけれど、多分僕にも聞かせてくれたのだろう。独り言にしては大きな声だった。

蛇女は、どうやらどこかでなにかを食べて帰ってきたらしい。

ーーなにを食ってきたんだ?

はっきりとではないけれど、その答えは帰り道で判明した。

帰りの電車に揺られていると、オイちゃんが小さく「あ」と声を上げた。向かいに座る女性を見て、バツの悪そうな顔をしている。

あの人どこかで見たな、と僕もつられて女性に目をやり、同じく「あ」と小さくもらした。

彼女は、オイちゃんと会う前に駅のカフェで見かけた女性だった。

しかし、先ほどは背負っていたはずの大蛙がいない。

それが気になるのか、彼女はしきりに肩のあたりに触れていた。

蛙はどこに行ったんだろう。なんとなくそう思った時、隣のオイちゃんの大きなため息が耳に届いた。

『腹一杯になってすぐ寝るって、赤ん坊かよ』

先ほどのセリフが蘇る。

「え? まさか?」

僕は唖然としてオイちゃんを見つめたが、オイちゃんは始終バツの悪そうな顔をするだけで、電車に乗っている間中なにも話してはくれなかった。

・・・・・

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電車を降りると、雨が降っていた。

オイちゃんとは降りる駅が違うので、僕は一人で家路につく。ビニール傘を打つ雨音が心地よく、先ほど受けた衝撃を少しずつ和らげてくれた。

幽霊はもう死んでいるからなにも食べなくていいとしても、活動のためのエネルギー源を必要とするものだって確かにいるだろう。仙人だって霞を食べると言われているのだし。僕たちがさっきラーメンを食べたのと、オイちゃんの蛇女がおそらくあの大蛙を食べたのは、なにも変わらない。

そんなことを自分に言い聞かせながら、ゆっくりと僕は歩いた。

アパートの敷地に入ったところで、ふと見上げると電信柱の上にはいつもの大カタツムリがいた。雨が降っているためか、気持ちよさそうに首を伸ばしている。

もう今日は、大きい生き物を見るのはこりごりだなぁ。そう思いながらも、僕は見慣れた光景をほのぼのと見ていたのだけれど。

大カタツムリの向こう側にはアパートの廊下の電灯が灯っていて、うっすらと大きら殻が透けて見えた。

その中に、何かの影がある。

なんだか、人間のように見える。膝を曲げて胸につけ、腕も胸元で小さくたたんでいた。サラリーマンのスーツのような服を着ている。

大カタツムリの殻の中では、大人の男性が丸くうずくまっていた。

まるで、子宮の中の胎児を思わせる姿勢。でも、ついさっきのことがあったからだろうか。その時の僕には、別のものに見えた。

まるで、胃袋の中に押し込まれて消化されるのを待っているかのようだ。

そう考えた途端身震いがして、僕は傘を目深に差し直すと足早にそこを通り過ぎた。

ーーあの男性が幽霊の類なのか、それとも生きた人間だったのか、僕にはわからない。

もうそれ以降、僕は電信柱の上の大カタツムリを見ることをやめたから。

梅雨の話は、これにておしまい。

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