草木の恋・上〈尾崎家シリーズ〉

長編8
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草木の恋・上〈尾崎家シリーズ〉

ーーもう、どうしようもない。

篠田晶は、何度目かわからないその言葉を心の中で呟きながら、フラフラと歩いていた。

ここがどこなのかも、すでに彼にはわからない。

周囲は草木が生い茂る鬱蒼とした森だ。晶が歩いているのはもはや獣道ですらなく、棘の生えた枝や無造作に転がる石が体のあちこちを傷つけた。

「もうどうしようもない。おしまいだ。終わりにするしかない」

気がつかないうちに、涙とともに心の声はこぼれ出ていた。

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なにか決定的な災難が、篠田晶の身に降りかかったというわけではなかった。

しかし、晶が生きてきた二十五年の人生の中で、心から良かったと思えることは一つもなかった。

二十五年は決して長い人生ではないが、短くもない。この間になかった幸運が、これから先待っているとは思えなかった。

晶には親しい友人もおらず、楽しいと思える趣味もなく、そして「それがどうした」と開き直ることもできなかった。陰気で後ろ向きな性格で、なにに対しても意欲的になれず無気力。そんな彼に両親すら愛想をつかしていた。

それはそうだろうと思う。なにをしてあげてもどこに連れていっても、つまらなそうなため息をつくだけの息子など、可愛く思えるはずがない。成長してしまえばなおのことだ。

そもそも両親以前に、晶自身が自分のことをほとほと疎ましく思っていた。人に好かれない性格、それをわかっていながら改善しようとしない自分に、我ながら呆れ果てていたのだ。

その日の朝、晶が目覚めてリビングへ行くと、朝食の準備をしていた母親が彼を見て深いため息をついた。

職場に着いてモゴモゴと挨拶をすると、直属の上司が晶を見もせず、ため息とともにおざなりな挨拶を返した。

昼食を買いにいつものコンビニへ行くと、店員が晶を見て顔をしかめ、大きなため息を隠そうともしなかった。

退社時、玄関のガラス戸に映った自分の姿を見て、晶も思わずため息を漏らした。

まるで幽霊のような、見ただけで嫌悪感をもよおすような、陰気な姿。

皆、自分の姿を見るだけでもうウンザリしているのだ。

俺自身だって。

もう、どうしようもない。

晶はフラフラと、自宅とは反対の方向に歩を進め始めた。

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どれくらい歩いたのだろう。これ以上は歩けそうにない。

晶はゆっくりとその場に仰向けになった。

もっと早くこうしていれば良かった。

どこかもわからない山の中だ。肉食の獣はいるだろうか。すぐに自分見つけて食べてくれればいい。なるべく痛くないといいな。

普段はなにに対してもまったくの無関心のくせに、こんな時は注文をつけるのか。

晶は自嘲して目を閉じた。

頭上を覆う木々の間から、白い満月がのぞいていた。

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ふと気がつくと、天井の木目が目に入った。

ここはどこだろう。少なくとも山の中ではないが、あの世にしては庶民的な匂いがする。

体は苦もなく動く。晶はゆっくりと半身を起こした。

狭くも広くもない和室で、彼は布団に寝かされていたようだ。服装も歩き回っていた時のものではなく、さっぱりとした浴衣に着替えさせられている。室内も布団も清潔で心地よく、初めての場所なはずなのに、不思議と自分の家より心が落ち着いた。

山の中を歩いていた時に晶の体中を占めていた重苦しい倦怠感や絶望感は、かけらも感じられなかった。自然に息ができ、全身が軽い。

「やっぱり俺、死んだのかな」

そう声に出して呟いた時だった。

「死んでなんかないわよ」

晶の右側にある襖の向こうで、女性の声がした。

弾けたように晶がそちらを向くと、音もなく襖が開き、一人の美女がそこに立っていた。

晶は、彼女に見覚えがあった。

「…おざきほづみ、さん?」

「やっぱり、篠田晶くんね」

美女は切れ長の目を細めて微笑むと、彼の隣に膝をついた。

「もう起きて大丈夫なの? 痛いところはない?」

「あの、なんで尾崎さんが? ここは?」

自分を気遣う美女に、晶はしどろもどろになりながら尋ねた。

尾崎穂津美は、晶と小中学校で机を並べた同級生だった。

子供の頃から可愛く勉強のできた穂津美はクラスの人気者で、晶とは違う世界の人間だった。しかし穂津美はそれを鼻にかけたりせず、晶にも他の皆にするように接してくれていた。

成績優秀だった穂津美とは高校で道が分かれ、その後は一度も会ったことはなかったのだが。

「ここは私の家よ。晶くん、うちの裏山で倒れてたのよ。びっくりしちゃった」

こんな形で再開しようとは。

「う、裏山?」

「そうよ。あんなとこで寝てても、虫に刺されるだけよ」

晶がなぜそこにいたのか知っているような口ぶりで、穂津美は笑ってそう言った。

「ご、ごめんね、迷惑かけちゃって… 俺、帰るよ」

晶が恥ずかしさと申し訳なさに立ち上がろうとすると、穂津美は「帰るって、どこに?」と首を傾げた。

「自分の家に…」

「あのね、晶くん。あなたを裏山で見つけてここに運んでから、もう三日が経ってるの。あなたは三日間、ずっと眠っていたのよ。これがどういう意味か、わかる?」

わからない。晶は素直に首を振った。穂津美は呆れる様子もなく続ける。

「晶くんが、とても疲れていたということ。詳しいことはわからないけど、あなたの世界で、あなたはかなり摩耗されてしまったのよ。心当たりがあるんじゃない? あんな夜中に山の中にいたのも、そのせいなんじゃないの?」

言い当てられて、晶はドキリとした。

そんなことはない、と一瞬強がろうとしたが、穂津美の切れ長の目は心の奥底まで見透かすようで、結局力なく頷いた。

「子供の頃から思っていたの。晶くんは、こちら側の人なんだろうなって」

穂津美は慰めるように言った。

「こちら側?」

「あなたは元々、人より動物や草木に近いのよ。感情の起伏がとても平坦なの。忙しくやかましい人の世界で暮らすのは、それは苦痛でしょう。身の周りを取り囲む物事が多すぎて、それに流されずに自分を保つことに精一杯で、喜んだり悲しんだり、他の人に合わせてる暇なんて、ないわよね」

「……」

知らずに溢れた涙が頬を伝っていった。

晶自身でもわからなかった心の内を、穂津美はすべて言い当ててしまった。

身の周りのことすべてに無関心で周囲を落胆させ疎まれる、自身ですら嫌っていた晶という存在が、今やっと許されたような気がしたのだ。

静かに涙を流す晶に、穂津美はその手を優しく握りながら長いこと寄り添っていた。

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「ありがとう」

ひとしきり泣いて少し気持ちが落ち着いてから、晶は掠れた声で言った。穂津美は小さく首を振る。

「もう大丈夫? 本当に痛いところはない?」

そう訊かれてはじめて、晶は自分の体がどこも痛くないことに疑問を覚えた。山の中を滅茶苦茶に歩き回って、あちこち傷や打ち身があるはずなのに。

浴衣の両袖をめくってみても、どこにも怪我は見当たらない。

「怪我が治ってる…?」

「よかった。全部舐めてあげるの、大変だったのよ」

穂津美のその言葉に、晶はギョッとして彼女を見た。

穂津美は晶をじっと見つめて微笑んでいたが、それは可愛らしいというより妖しい笑みだった。目を細め、赤い唇を両側にニィッと引く。

晶を見つめたまま、穂津美は彼に添えていない方の手をするりと布団に潜り込ませた。

「あ⁈」

訳も分からぬまま、体の一点を優しく握られて晶は間抜けな声をあげる。

「お、尾崎さん⁈」

「晶くん、元の世界になど戻らないで、ここで私と暮らしてください」

「ちょ、手を離して」

「いや、離さない。お願い、ここにずっといて欲しいの」

話す間も、穂津美の細い指は晶に絡みついて蠢く。優しく、時に忙しなく動き続け、晶はあっという間に上り詰めてしまった。

「あぁ…」

情けない声を漏らす晶をよそに、穂津美は今度は布団をはぐり、彼の股間に顔を埋めた。生温かく柔らかい舌が、晶を丁寧に舐めあげる。

声も出せないうちに、再び天を衝くほど大きく怒張していくのがわかった。

穂津美はゆっくりと口を離し、足の間から晶を見上げた。赤い唇の端に、舐めとった残滓が鈍く光る。

晶はなにかに突き動かされるように膝を立てると、穂津美の細い体を押し倒して彼女を見下ろした。穂津美は嬉しそうに微笑み、そっと目を閉じて囁く。

「穂津美と呼んでください」

彼女に口づけ柔らかい胸に顔を埋めると、頭がクラクラするほどの甘い香気が鼻腔を満たした。

それからのことは、とにかく無我夢中でよく覚えていない。

ただ、穂津美の体の奥底に自分の精を注ぎ込んだ時、自分の居場所はここなのだと晶は強く感じた。

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行為がすんで心地よい微睡みに落ちる前に、晶は穂津美に訊いておきたいことがあった。

「穂津美。ここで一緒に暮らすって、どういう意味?」

「…今、それを訊きますか」

穂津美は呆れたように苦笑して、少し気だるげに布団から体を起こした。

一糸纏わぬ穂津美の白い乳房が目の前にあり、つい先ほどまで揉みしだき吸い付いていたそこを直視できなくて、晶は目を逸らした。

「晶さん、私の姿を見てください」

穂津美の声に顔を上げると、晶は息を飲んだ。

つい今まで穂津美がいたはずのそこには、大きな白い狐の姿があったのだ。

だが、それ以上の驚きはなかった。穂津美と再会し話をする中で、晶は彼女が普通の人ではないことを感じていたからだ。

「それが、穂津美の本当の姿なの?」

「本当の姿、と言えるかはわかりません」

狐は少し首を傾げ、穂津美の声で答えた。

「私は確かに狐ですが、人の血も多く混じっています。父は人で、母も人と狐の間に生まれていますから」

「……」

「私の家は、昔からそうやってここで暮らしてきたのです」

「つまり、俺は新しい種馬ってことか」

狐は晶の言葉を聞いて苦笑するような声を漏らした。

「身も蓋もない言い方をすれば、そういうことになりますね。嫌ですか?」

「嫌じゃないよ。自分でも不思議だけど、俺が前いたところよりは、こっちの方がずっとましだ」

晶が心からそう言うと、狐は笑うように口を薄く開いた。鋭い牙が間から覗いたが、晶は少しも怖いと思わなかった。

頬ずりをするように、狐が鼻先を晶の頬に寄せる。細いヒゲがくすぐったいと思う間も無く、狐の姿は元の穂津美に戻った。

婉然と微笑む穂津美は、晶に口づけをしながら囁いた。

「嫌だと言っても、もう離しはしません」

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