中編6
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水の記憶

俺は今入院している。

 病名は、肺気胸。若く痩せた男性がよくかかる病気だ。

元々、食に対してあまり興味がなく、一日ほぼ食べなくても平気な体質だった。最悪、夜におにぎりやサンドイッチを食べて終わり、みたいな生活を長年続けていたら、急に胸が苦しくなって息をするのも困難になり慌てて病院に駆け込んだら、その病名を告げられた。

 肺に穴が開いて肺が萎んで十分膨らまないため、呼吸困難になる。治療としては、脇腹に穴をあけ管を通し、肺の穴から抜けてしまう空気を外に排出し、肺が膨らんだ状況をキープするという治療だ。穴が開いた肺に関しては、そのまま放置、もしくは手術でその穴を塞ぐという手術になる。

 どうやら俺のは重症らしく、手術が必要とのことで、今、その肺壁に溜まった空気を排出する機械にしばられながら手術を待っている状態だ。体内にチューブが入った状態なのだから、痛くないはずがない。痛みでとても眠れるわけもなく、俺は痛みを紛らわせるため、常にベッドを半分起こし、背もたれにもたれながら耐えていたのだ。

 病院というものは、空調が快適すぎて、やたら喉が渇く。もしかしたら、室内が乾燥しているのかもしれない。俺はどうしようもない喉の渇きに耐えかねて、痛む体と今の俺の命の綱である相棒の何だかわからない機械を押しながら、病室を出て、エレベーターで一階の自動販売機のあるロビーまで移動した。

 昼間は病人やけが人や老人で溢れかえっているその待合も、真夜中ともなると閑散とした静謐な闇をたたえていた。その隅でそこだけが異世界のようにぼうっとした光を放つ自販機までようやくたどり着くと、清涼飲料水のボタンを押す。不便な体をようやく待合の椅子にあずけると、片手でプルタブを起こした。

 乾いた喉が潤うと若干ではあるが、少しの間痛みを忘れた。飲み終わって席を立とうとすると、足元が濡れていることに気付いた。もしかして、自分が繋がれた機械から体液が漏れてしまったのかと、機械を確認するもその様子はない。

 よく目を凝らしてみると、待合の革張りの椅子に、何か白いものが置いてあった。俺は、それを手に取る。

「水泳キャップ?」

持ち上げた瞬間に、雫がしたたり落ちて足先に落ちた。それは恐ろしくひんやりとして、まるで氷水のようで思わず悲鳴を上げた。

 忘れ物だろうか。それにしては、変だ。たった今まで泳いでいたかのように、そのキャップは濡れていた。そのサイズは小さく、どうやら小学生用らしい。俺はそのキャップを手に、また自販機まで引き返した。白い小さな水泳キャップの横に小さく書いてある文字を見るためだ。

 1-3 みやざきしょうた

平仮名でそう記名されていた。

 俺は一人、過去の恐ろしい記憶を辿っていた。俺は、小学生の頃は、クラスに一人はいる問題児だった。本人に問題児という自覚は無かったが、親はしょっちゅう学校に呼ばれていた気がする。発言してはならない時に勝手に発言する。授業中に落ち着きなく歩き回る。人の話をまったく聞かない。数え上げたらきりがない。中学になってから初めて、恥ずかしいという感情が生まれてからは俺は普通の一般的な男子生徒になった。

 当然、そういう児童は先生から目を付けられる。当時、小学一年の時の担任には特に面倒な存在だっただろう。その人はまだ、教師になって間もない先生で、俺の扱いを持て余していた。子供にもそういう感情というものは伝わるもので、俺はその先生に対して良い感情を持っていなかったような気がする。

 そして、ある体育の水泳の授業の時にそれは起きた。泳ぎは比較的自信があった。幼い頃からスイミングに通っていたため、その歳にはすでに一通りの泳ぎはできたので、授業は退屈このうえないものだった。自由遊泳の時に俺は悪戯心を起こして、潜水で担任の先生に近付いた。そして、彼女の足を掴んだのだ。

 すると、俺はぐっと頭を押さえつけられた。水面に浮上しようとするも、大人の女性の力に叶うはずもなく、俺はプールの底の方でもがいていた。息が苦しくなり、俺は水泳キャップを被っていたため、そのキャップが脱げてようやくその手から解放された。

 水面に上がって見上げると、担任の女性教師が恐ろしく冷たい目で俺を見下ろしていた。何も表情を浮かべずにじっと俺を見下ろしていた。俺は怖くなり、すぐ傍を離れた。家に帰り、そのことを親に報告するも、先生がそんなことをするわけないじゃないの、誰か友達がふざけたんでしょう?と一蹴された。

 いや、あれは子供の力なんかではない。本気の大人の力だ。小さな俺の頭はしっかりと彼女に鷲掴みされていたのだ。いやなことを思い出した俺は、先ほど飲んだ清涼飲料水に胸やけを覚えた。

 缶をゴミ箱に捨てて、そのキャップをナースステーションにでも届けようかと思ったその時だった。先ほど水泳キャップが置いてあった椅子に小さな男の子が座っていたのだ。しかも、上半身は裸だ。暗闇でよくわからないが、どうやら海パン姿らしい。キャップを取りき来たのだろうか。いや、どう考えても、この状況はおかしくないか?

 濡れた水泳キャップ、こんな夜中に海パン姿の小さな男の子が病院の待合室にいるのだ。男の子は自販機の光を受けて、ぼうっと青白い顔をこちらに向けた。唇は紫色だ。その唇がかすかに動いた。

「ごめんなさい。先生。許して・・・。」

そう呟くと、すぅっと消えてしまった。そこで俺は初めてそれは人ならざる者だということに気付いた。

 まさか・・・。俺の記憶とその男の子がリンクする。手にはまだ冷たい水に浸されたような水泳キャップが握られている。

「あら、高田さん?こんなところに居たの?ダメじゃない。病室で大人しくしてなきゃ。明日手術なんですからね。ちゃんと眠らなきゃ。」

看護師に声をかけられて、俺は反射的に手に握った水泳キャップを隠した。

 病室に戻った俺は、何故咄嗟に隠してしまったのだろうと水泳キャップを見つめた。あのまま、忘れ物ですと看護師に渡せばよかったのだ。でも、俺は、そうすることができなかった。あの子は俺に何かを訴えたかったのではないか。

 次の日、手術は成功した。手術とは言っても、最近の肺気胸の手術は、胸を切開することはなく、手術は体の二か所に穴を空けて行われるため、体への負担は少ないのだ。俺は術後、一週間の入院を経て退院した。退院して、自宅で荷物を解くと、あの水泳キャップが出て来た。持って帰ってしまった。捨てるには忍びない気がした。

 俺はその水泳キャップを持って、とある場所の前に立っていた。俺の母校である小学校だ。俺にはこのキャップをここに届ける義務があるような気がしたのだ。そこで俺は、衝撃の事実を知ることになる。

 1-3 みやざきしょうた君は死んでいた。体育の授業中にプールで溺死したとのことだった。俺は恐る恐るある可能性について問いただしてみた。

「もしかして、その子の担任の先生って、朝倉 涼子さんじゃないですか?」

そう問われた小学校の事務の女性は一瞬、顔色を変えたが、個人情報なのでと言い、名前までは教えてくれなかった。

 地方のニュースを片っ端から調べていくうちに、それは確信へと変わった。どうやら涼子先生は、その監督責任を問われ、辞めてしまったらしい。男の子の搬送先は、やはりあの病院だった。

 事故じゃない。

俺の頭の中で警告音が鳴り響いている。あの先生はヤバイ。

俺は回復して、大学に復帰、そして今年の夏は、得意な泳ぎを活かしてライフガードのアルバイトをすることになった。なんという運命のいたずらなのだろう。俺はその年に、その人と再会することになる。

 その人は、海に海水浴に来ていた。夫と息子と共に。子供は小学生くらいだろうか。まだ幼い。幸せそうな笑顔。あのプールで俺の頭を押さえつけた時の、氷のような冷たい表情はどこにも見られなかった。

 遠くで溺れている子供がいた。俺はすぐさまボディーボードを漕ぎだし、その子のもとへ向かった。半狂乱で泣き叫んでいる女が砂浜に居た。

 ああ、あんたの子供なのか。あれ。

俺はあの病院の待合で見た、怯えて青ざめた子供の顔を思い出した。

証拠など、どこにもない。

けれど・・・。

 水が記憶している。

病院の待合の足元に零れていた水からは、強い消毒液の匂いがした。冷たい水の中で、あの子はどんなに怖かっただろうか。俺はボディーボードを漕ぐスピードを緩めた。

「早く!早くあの子を助けて!お願い!」

悲痛な叫びも空しく響く。

だって俺には助ける意思が無いのだから。

Concrete
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