中編3
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小さな親指

……Thumbs up

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今年からやっと年長組になった長女「彩花」のブームは、親指を立てる、いわゆるT humbs up ジェスチャーだ。

どこで覚えてきたんだろうか、と考えていると、思い当たることがあった。

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うちは高層マンションの七階なのだが、朝方エレベーターで一緒になる五十代前半くらいのグレイのスーツ姿の男性が、彩花に会うと必ず、親指を立てて微笑むのだ。

この男性、いかにも日焼けサロンで焼きました的な顔肌で、髪はライトブラウンに染めており、ピアスをしている。年齢に対してかなり若作りしており、見ていると、少々痛々しい。

何でも経営コンサルタントをしているらしく、本人曰く、一部上場の会社もクライアントらしい。

やたらとテンションが高くて、イタリア男性のように毎回私に気安く声をかけてくる。

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「奥さん、肌白くてスタイルも良くて、最高よ。

今度一緒にランチでもどう?

もちろん、旦那には内緒でね」

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どちらかというと、内向的であまり笑わない彩花が、この男性だけには、小さな親指を立てて応えるようになり、ニッコリと微笑むようになっていた。

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それは先日の昼過ぎのこと、いつものように、彩花を幼稚園から自宅に連れて帰ってきた。

その日はとても良い天気だったので、サッシを開け放ち、居間のテーブルで向かい合って昼御飯を食べていると突然、彩花が私の肩越しに向かっていつものT humbs up をして、ニッコリ微笑んだ。「え?」と、振り返ったが、私の背後は開け放たれたサッシ窓があって、その向こうにはベランダがあり、その先は青空が広がっているだけである。

不思議に思いながらも、テレビを見ていると、しばらくして、どこからかサイレンの音が聞こえてくる。音は徐々に近づいてきていた。

どうしたんだろう?と、ベランダに出て、地上を見下ろしてみると、エントランスに救急車が停車していて、マンションの住人が数人、集まっていた。

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急いで彩花を連れて降りて行くと、エントランス前に、グレイのスーツ姿のあの男性が倒れていて、救急隊員二名が懸命になって救命措置を施しており、

その回りをマンションの住人が取り囲んでいる。

だが、頭頂部はぱっくりと割れていて、辺りにはあちこち赤黒い血だまりがあり、素人目にも即死状態というのが分かった。

それより何より、私の背筋に冷たいものが走ったのは、男性のだらりとした右手は間違いなくあの親指を立てたThumbs up の形を作っていたのだ。

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後から聞いたことには、あの男性は、十二階にある自分の部屋のベランダの柵を越えて飛び降りたのだそうだ。そして、その部屋は、ちょうど私の住んでいる部屋の五階ほど真上の方の位置にある。

時間的にはまさに彩花とランチをしている最中に、男性は飛び降りた、ということだった。

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その日を境に、彩花の顔に笑顔がほとんどなくなった。

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だがごく稀に、私の肩越しに向かって、小さな親指を立てて、ニッコリ微笑む時がある。

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