長編8
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バスジャック

これは例年に無く長かった梅雨が明け、蝉が鳴きはじめた七月の終わりの話。その年の関東地方は梅雨入りと同時に雨が降り始め、雨が止んでも曇り空が続く陰鬱な日々が続いた。

「ふぅ」

タバコの煙を細く吐き出しながら葛城は宙を見た。ようやく長い雨の時期も終わり晴れやかな気分に近づけたかと思ったのだが。想定外のクレームに湿った水田地帯の熱風が体を包む。蒸し暑い。

葛城某は、東京のとある機械メーカーに勤めはじめて10年。中堅の営業マンとしてそこそこ仕事も覚え、地方のお客にも出張する機会が増えた。今回も北関東のお得意様に出張なのだが、要件は困ったことに納めた製品の不具合だ。

「この問題が解決しないと検収出来ないからね。」

取引先の困った一言が脳裏に浮かぶ。要はトラブルが解決するまでお金を払って貰えないという事だ。

「知らねぇよ、そんなこと…」

こんな時、最も憂鬱なのが会社の上司への第一報だ。便利な世の中でスマホから客先を出た途端、報告できてしまう。不具合と言ってもお客が無理な使い方をして壊した様な話だ。葛城から言わせれば常識的な使い方をしないお客が悪いのだが、相手は継続注文の見込める新規ユーザー。

「お前の説明が悪かった」

と言われれば担当者の立場で言い返す訳にもいかない。

「くそ…」

周りに関係者がいない事を確認しつつ葛城は呟く。

「ふぅ…」

禁煙なんて書いていない。書いていなくても今の時代、公共の場所でタバコを吸うと白い目で見られる。携帯灰皿だって持っているのに。

それでも、無理を押して吸いたい時がある。葛城は晴れない気持ちを落ち着かせようとしてタバコに火をつけた。するとすかさず知らない若い女から嫌な視線を向けられた。黒地に金色の刺繍が入ったキャップ。白のTシャツにジーパンのいかにも活発そうな女。

「くせぇんだよ」

女の口が微かに動いたのが分かった。聞き取れないような声だが何を言っているかは分かった。

結局、イライラするばかりでどう報告するべきか考えがまとまらないうちにバスが来てしまった。

「お待たせしました、東京行きです」

白髪頭の運転手が高速バスの到着と行き先を告げる。

この街はそれなりの人口と産業を抱えながら鉄道の便が悪い。最寄り駅まで車で30分かけて行って、しかも1時間に一本の各駅停車に乗ってターミナル駅まで行かなければならない。対して高速バスは街の中心地に停まり、その上15分と待たずに乗れる。

そのためビジネスでもプライベートでも、東京と行き来する際は高速バスを使うのだ。プシューッと音を立てて扉が閉まりバスは走り出した。

乗リこんだのは作業服で50代位のおじさん、そのおじさんと同じ会社の若手、葛城を含むスーツ姿の男4人、旅行カバンを引き麦わら帽子をかぶった30代の女、そして先ほど葛城に嫌そうな顔を向けた若いの女。

「バスに乗ったら電話はマナー違反だよな。」葛城はそんなことを考えつつ携帯灰皿をビジネス鞄にしまい込み、産業道路の味気ない風景を眺めながら考え込んだ。

「ふぅ…」

口寂しいが今度はタバコを吸うわけにもいかない。目をつぶってため息を吐き出し、ごまかす。「相手がどう出てくるか、それで対応を判断しろ」これが上司からの直接の指示だ。つまり選択肢と権限は曖昧なまま、判断と責任を押し付けられたのだ。また、ため息が漏れる。

①今回は新規ユーザーの不手際を指摘せず自社が無償で修理する

②新規ユーザの不手際を指摘し自社に責任がないことを主張する

「あの頑固な工場長が相手じゃどっちかしかねぇべやぁ…」

葛城はまた呟いた。葛城にとっての問題は、新規ユーザーと決裂するこの2つの選択肢を与えられていないことにある。上司から暗に与えられた使命は、新規ユーザに謝り倒して許してもらこと。そして検収を上げてもらい、修理費の半分以上を負担してもらうことである。

つまり目的は達成できず、電話しても叱責される事が目に見えているのだ。葛城はまぶたの裏から外の景色を想像してしばしの現実逃避を試みた。折しも夏真っ盛り、蒸し暑いお客の工場の中で長時間機械に向き合った体はぐったりと疲れ、景色が歪んで行くのが分かった。

遠くから、しかしはっきりとコツ、コツとヒールで通路を歩く音が聞こえた。葛城はまどろみながらその足音に気をとられた。

高速バスではパーキングに停車する場合を除き、原則座席を立って通路を歩いてはならない。なんとなく違和感を感じ、視線を前に移すと青いワンピースを着た黒髪の女が運転席に向かって歩いていくのが見えた。

「ん、なんだ?」

作業服のおじさんも若手に向かって怪訝そうな問いかけをした。高速バスはその図体にも関わらず時間を気にして、場合によっては追い越しをかけながら走る。機敏なタイヤの動きに合わせて車内も大きく揺れることがままある。

にも関わらず、女はい通路に刺さった木の棒の様に安定した足取りで運転席に向かって進む。車内が微妙な空気に包まれたその時、女は運転手の背後に立ち、音もなく、ぐるりと運転手の首に腕を回して締め上げた。

「おごぉっ!かっ!?」

運転手の声だけが車内放送のマイクを通して響く。そしてバスは右へ揺られ左へ揺られながら路肩に面した木立へ向かって突っ込んで行った。車内に響きわたる悲鳴。皆、捕まることに必死で女を制止する事が出来ない。

「やべぇっ…!」

サラリーマンの1人が炸裂する様に叫んでいた。バスは木立の合間にある舗装されていない道を突き進む。木の枝がズォーーっと車体をなぞる音。フロントガラスにゴンッ、ゴンッと何かが衝突する音が聞こえ異様な緊張感が走った。

気がつくとバスは背の高い木に囲まれた暗い場所に止まっていた。フロントガラスにはヒビが入り運転手はぐったりとして動かない。旅行カバンを引いていた女性客は泣きじゃくり、他の男達も震えていた。葛城は呆然としながらその状況を最後列から見回していた。声が出なかった。

あの女は、あれだけの衝撃にも関わらず運転手の首に腕を回したままうつむいてかがんでいた。

「行こうよ…」

顔は見えなかったが、あの女の声だと誰もが分かった。女は背を向けたまま確かに「行こうよ…」と言った。そして女は運転手の首からおもむろに腕を外し、静かにうしろを振り返った。

「行きましょうよ…」

長い黒髪が乱れて垂れ下がり、その隙間から覗き込む様に女は乗客を見た。その顔を見て車内は凍りついた。右目には運転手が胸ポケットに入れていたボールペンが突き刺さり、左目のまぶたにはえぐられた様に傷がついている。運転手の手には女の黒くて長い髪が絡みつき、もう一方の手には血がこびりついている。旅行カバンの女性客は気を失って白目を向いていた。

女の唇は小刻みに震えていた。何か声にならない言葉を呟きながらフラフラと今度は通路を後方に歩いてくる。バスの車内はこれだけの衝撃があったにもかかわらず、不思議と灯りがついていた。そのせいで誰からも車内の様子がよく見えた。カツ、カツカツ、カツカツカツ…不規則な足音を立てながらワンピースの女は通路を後方に向かって歩いてくる。

「あんなやつ、乗ってたか…?」

作業服のおじさんがつぶやく様に言った。高速で走り続けるバスの中に知らない女がいつの間にか現れ、運転手を絞め落とした。あり得ない。停車場を出てから80km以上の速度で走り続け、一度もまだ止まっていないのだ。「行きましょう」とはどういう事なのか。東京へ行くバスを止めてどこへ行こうと誘っているのか。車内は緊張感と不穏な空気に飲まれていた。

薄いブルーのワンピースには目から垂れた血痕がしみていた。女は座席の角に掴まりながらゆっくりと前に進む。皆、逃げ出したい気持ちはあるのに体が動かない。カツカツカツ…女が4列目まで来て座席に向き直り口をあぐあぐ動かした。

「………」

4列目の女はそれまで膝を抱えていた手を解き、足を目一杯伸ばしてワンピースの女を足の裏で蹴りつけた。何度も力いっぱい蹴りつけるのだが、後ろに頑丈な壁でもあるかの様にびくともしない。バンッバンッスニーカーの、乾いた音が響く。

「もう!なんなの!よ!」

気の強そうな若い女の声が威嚇する様に語気を強めた。葛城のタバコに嫌な視線を送ったあの若い女だ。バンッ!!その瞬間だった。ワンピースの女が4列目の女の股の間から右腕をグ〜ッと伸ばして口の中に突っ込んだ。4列目の女は手足をばたつかせてワンピースの女の髪を掴み、必死で抵抗した。だがそのうち動かなくなった。4列目の女はそのまま手足をだらんとしたまま、伸びきったゴムの様にしなびてしまった。

ワンピースの女は口に差し入れた右腕を排水管から抜き出す様に、粘液を伴いながら抜き出した。何か分からないぬめった物か通路にビシャっと落ちる。それを見て近くにいたスーツ姿の男が堪らず嘔吐する。ワンピースの女はそのままさらに後ろへ向かって歩く。カツ、カツ

カツ、カツ…気絶している旅行カバンの女以外、誰もがいつか自分の番が回ってくる恐怖で頭がいっぱいだった。「動け、動け、動け!」硬直した体をなんとか動かそうと葛城は必死だった。

突然、窓から白い強烈な光が差し込んだ。けたたましい音も鳴り響いている。あまりの出来事に気がつかなかったがバスの周りには消防車、救急車、パトカーが集結していた。外からは大声で誰かに指示を出す声、強い光を背に何人もの男たちがバスに向かって走ってくるのが分かった。

葛城は車内に視線を移すと、ワンピースの女は視界から消えていた。だが、足元の暗がりには光を避ける様に腹這いになり、蛇の様にズルズルと通路を進んでくる黒いかたまりが見えた。女の長い髪と青いワンピースが綱に引かれるように迫ってくる。葛城は窓ガラスを叩きながら

「早く!早く!早く!」

と叫んだ。隊員達もその形相に気づき窓に向かって声をかけた。

「もう大丈夫ですよ、大丈夫ですよ!」

(そんな事じゃない!ここは窓が開かないんだ!あの女が来る前に助けて欲しいんだ!)あの若い女を避けて最後列に座ったがために、構造上、窓が開かないのだ。作業服のおじさんや他のスーツ姿の乗客は窓から滑り落ちる様に外に出てしまい、車内残っている生存者は気を失った旅行カバンの女と葛城だけだった。葛城の肩にポンっと手が置かれた。

「もう大丈夫ですよ!」

前方の扉をこじ開けて入ってきた隊員が車内に向かって大声を上げた。

(助かった…)

葛城は全身の力が抜けて力なく足元を見た。足元には血のついた運転手のボールペンが落ちている。背後から嫌な冷たさがすり抜けた。手を置かれた肩にはうっすら血が付いている。顔のすぐそばで息遣いが聞こえた。

「行こうよ〜…」

最後に耳元であの声が聞こえた。

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ありがとうございます。

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