中編4
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9000年の孤独

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1989年11月9日、

市民によるベルリンの壁の破壊が始まったその日、

私はドイツから遥か名古屋に住んでいて、

政治なんて知る由も無い零歳児だった。

同年の初夏には天安門事件が起きている。

世界は蠢いていたのだ。

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西と東に離別した彼らが互いをどれほどに希求していたのか、

数多の死者と幾万の逮捕者の累計が示している。

人類の遺伝子には基本的に「あなたに会いたい」という欲求が組み込まれているようで、

いつも、いつでも、誰だって、会いたい誰かがいる。

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現在一般的に語られる『浦島太郎』は、

乙姫との離別の物語である。

亀を助けて竜宮城に連れられ、華々しい日々を過ごす浦島太郎。

けれど彼は故郷に帰りたくなってしまう。

ここで登場するのが問題の玉手箱だ。

太宰治はオムニバス『お伽草紙』の一編『浦島さん』で浦島太郎を扱い、

三百歳の老人になった彼について次のように解釈している。

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“年月は、人間の救ひである。

忘却は、人間の救ひである。”

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会えない寂しさ、その孤独を、途方も無い老いによって滅してしまう。

それは乙姫の慈悲なのではないか?

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太宰の『浦島さん』は通例の昔話から新解釈で創られたものだが、

広く一般に知れ渡っている尋常小学校パターンの『浦島太郎』からして実は多大な改変が加えられている。

浦島太郎の物語は各地方・時代で異話が幾つも散らばっていて「これが底本」と断言することは難しいが、

玉手箱の唐突さや理不尽は、国定教科書版で話が無理矢理に編集された点に由来している。

老人になってそれで終わり、という物語では全くない。

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江戸中期の渋川版『御伽草子』では、そもそも亀が乙姫だ。

物語の冒頭、浦島は亀を釣り上げて非常に恩着せがましいことを言う。

「汝 生あるものの中にも、鶴は千年 亀は萬年とて、いのち久しきものなり、忽ちこゝにて命をたたむ事、いたはしければ助くるなり、常には此の恩を思ひいだすべし。」

“お前せっかく助けてやったんだから恩返ししろよな”みたいな意味だ。

言葉のわからないだろう亀に対して大真面目に恩を着せているのである。

このクズめ、とは思うが読み進めてみよう。

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翌日、人間の女に化けた亀は浦島を住まいへ誘う。

この時点でもうふたりは熱愛状態である。

助けられた乙姫はまだ恩義があるから判るとして、

初対面の女性にほいほい付いていく浦島はどうかと思う。

ヒモの才能がある。

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さて、まず竜宮城は海底にあるわけではない。

どこか海上の孤島として描かれている。

四季が自在に展開されている部屋が各方角に存在していて、

ここの文章が音楽的でとても美しい。

「南面をみてあれば、夏の景色とうちみえて、春を隔つる垣穗には、卯の花やまづ咲きぬらむ、池のはちすは露かけて、みぎわ涼しきさざなみに、水鳥あまた遊びけり。木々の梢も茂りつゝ、空に鳴きぬる蝉の聲、夕立過ぐる雲間より、聲たて通るほとゝぎす、鳴きて夏とは知らせけり」

この竜宮で、浦島はとても幸せに暮らす。

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読むだけならば、たいして長い物語ではない。

じゅうぶんに楽しんだ浦島太郎は、ひと月だけの暇乞いをした。

すぐに乙姫のもとへ帰ってくるつもりだった。

乙姫は彼を愛していたし、彼も乙姫を愛していた。

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彼女はこう告げた。

「今 別れなば又いつの世にか逢ひまゐらせ候はむや、二世の縁と申せば、たとひ此の世にてこそ夢幻の契りにて候とも、必ず來世にては一つはちすの縁と生まれさせおはしませ」

続けて、

「今は何をか包みさふらふべき、みづからはこの龍宮城の亀にて候が、ゑじまが磯にて御身に命を助けられまゐらせて候、其の御恩報じ申さむとて、かく夫婦とはなり參らせて候。又これはみづからがかたみに御覽じ候へ」

と玉手箱を浦島に渡した。

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現世では七百年の歳月が経っていた。

浦島太郎の帰るべき場所はもう、

どこにも残っていない。

……読むだけならば、たいして長い物語ではない。

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玉手箱に何が入っていたのか?

そこには竜宮城で過ごした七百年の幸せが敷き詰められていた。

彼に保留されていた膨大な時間が、

乙姫とのたくさんの思い出が、そこに籠められていた。

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「開けるな」と言われた箱を何故、開けてしまったのか?

答えは簡単な気がする。

寂しかったからだ。

もしかしたら乙姫からの手紙かもしれない。

何か自分への嬉しい贈り物なのかもしれない。

七百年目の孤独の底で、

その箱を開けずにいられるだろうか?

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さて、ここからの展開が現在一般に知られている『浦島太郎』とまったく違う。

七百歳の老人になった浦島太郎は転生して、鶴になる。

冒頭の文言に従うならば、

「鶴は千年 亀は萬年とて、いのち久しきものなり」

つまり浦島にはここから先、さらに三百年、

あるいは転生によってリセットされるならば新しく千年の寿命が与えられることになる。

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鶴は千年、であるならば、

萬年を生きる亀とは九千年の歳の差が刻まれる。

どうしたって鶴のほうが先に死ぬのだ。

それでも浦島に生きてもらいたかった乙姫の気持ちは、

どんなに切ないものだろう。

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ほんの数百年で構わない。

玉手箱は彼女にとって、一世一代の賭けだったのかもしれない。

もし自分のことを歯牙にもかけていないならば、浦島は蓋を開けないだろう。

けれどもし開けてくれるなら、私への想いがあるのだろう。

想いがあるのならば、一緒に神の世界で暮らしたい。

……それがのちに、九千年の孤独を産むことになっても。

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1989年11月9日、

市民によるベルリンの壁の破壊が始まったその日、

私はドイツから遥か名古屋に住んでいて、

政治なんて知る由も無い零歳児だった。

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「あなたに会いたい」

泣くことで、笑うことで、

それを素直に表現できた、

とても、とても昔のこと。

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