中編7
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ASAEMON

寒月が、東の空に冴えざえと冷光をはなっていた。

静かな夜である。

遠くのほうで、夜陰を引きずる鐘の音がする。

赤坂田町にある成満寺が、四つを告げるための捨て鐘をついたのだ。

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山田吉利は、さかづきを干して深いため息をついた。

いつものことだが、いくら飲んでもまったく酔えない。

すでに亥の中刻となり、屋敷の周辺はひっそりと寝静まっていた。

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江戸時代、半蔵門から西へは閑静な武家地がひらけており、

大名や旗本などの屋敷が、いらかを競い合うように土塀をつらねている。

山田の家も、そのなかで居心地悪そうに門を構えていた。

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東へ一丁上ったところには平河天満宮もあるが、

さすがにこの時刻となると、門前町の賑わいも絶えている。

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時の鐘が打ち終わると、またもとの静寂がやってきた。

晩秋の冷え切った夜気に、野良犬の遠吠えが鬱々と尾を引いている。

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吉利は、火鉢に手をかざしながらぼんやり酒を飲んでいた。

彼のすわる正面には、紫檀を磨いた大きな仏壇があり、

内張りの金箔が、こうこうと燃える百目ろうそくの灯を反射している。

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ろうそくは、全部で三本立ててあった。

つまり、今日は三人斬ったということだ――。

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山田家は公儀から「お試し御用」の任をあたえられ、

歴代の当主は代々「浅右衛門」を名乗っている。

すなわち罪人の死体をつかって、

依頼を受けた刀剣の、試し斬りをおこなうことを家業としているのだ。

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七代目の「朝右衛門」である吉利は、

その日斬った人数ぶんだけろうそくを立て、

それが燃え尽きるまで酒を飲むことを日課にしていた。

罪人たちへの密かな供養のつもりであった。

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すっかり冷めてしまった燗酒を、すずの瓶子からそそいでいると、

きゅうに部屋の空気が変わったような気がした。

見れば、風もないのにろうそくの炎が揺らいでいる。

「……どうも今夜は出るらしいな」

吉利は、酒器を置いて息をついた。

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わきにある刀掛けから、そっと愛刀をたぐり寄せる。

加賀の名工、三代兼若が鍛えた業物だ。

三つ立てたろうそくのうち、真ん中の一本が、ごうっと炎の高さを増した。

それを見て、吉利がつぶやいた。

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「さては、あの若い女か……」

今日二番目に試し斬りをおこなったときの生白い肢体が、彼の脳裏によみがえった。

すでに首を打たれていたが、その女はあきらかに身重であった。

膨らんだ腹を両断したときの、なんとも言えない嫌な感触がまだ両手のうちに残っている。

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「一番会いたくないのが出てきやがるぜ」

はたして部屋のすみの暗がりから、肝の冷えるような女のすすり泣きが聞こえはじめた。

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ああああ、なんて口惜しい、恨めしいんでしょう

鉄くさい血のにおいが濃厚にただよってくる。

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吉利は、闇を見据えたまま不機嫌な声をはなった。

「そこでめそめそ泣かれたんじゃ酒が不味くてかなわん。

なにか言いたいことがあるなら聞いてやるから、こっちへ出てきやがれ」

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食膳をはさんで彼の真向かいに、忽然と女があらわれた。

やはり刑場で二つにした女だった。

あさぎ色の襦袢を血でまっ赤に染め、

うつむいた顔に長い黒髪をべったりと張りつかせている。

その凄惨なすがたは、幽霊の出現に慣れっこのはずの吉利さえも青ざめさせた。

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「ふん、聞くところによるとおめえは、奉公先のだんなに毒を盛った悪女だそうじゃないか。

恩を仇で返すようなまねをしたんだ、

死罪になっても文句の言える筋合いじゃあるめえ」

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あたしはやっちゃいないよ

女は泣き濡れた顔で吉利を見あげると、

血を吐くように嗚咽しながら言葉をつないだ。

紙のように白い顔面のなかで、目だけが充血して赤く澱んでいる。

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みんなおかみさんの仕業だ

あたしにだんな様のお手がついたのを許せず

夕餉の膳に一服盛りやがったのさ

しかもその罪をぜんぶあたしになすりつけやがって……

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この時代の犯罪捜査というものは、とにかく犯人に自供させることを目的としていた。

容疑者として目をつけられたものは激しい拷問を受け、むりやり罪を白状させられてしまう。

当然、冤罪も相当な数あった。

人権思想の発達した現代では考えられない乱暴なやりかただが、当時はそれがあたりまえだったのだ。

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いちいちそんな不平を聞かされたのではたまらないと思い、

吉利はあえてつき放すような口調で言った。

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「そりゃ気の毒なこった。

まあ、化けて出ようって了見になるのも分からなくはねえ。

だがよ、詮議したのは町方なんだぜ。

おれんとへこなんぞ寄らねえで、まっすぐそっちへ行きゃあいいじゃねえか」

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あたしを責め問いにした十手持ちにはあとで祟ってやるさ

もちろんおかみさんにもね

でもそのまえに……

女の目が、すうっと細くなる。

おまえに訊きたいことがある

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「なんだ?」

 試し斬りにしたあと あたしの体からなにか盗んだろう

 吉利は内心で舌打ちした。

「ああ、そのことか」

 いつものことなので、悪びれる様子もなく言う。

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「肝臓と、胆嚢をいただいたよ。

塩漬けにするんだ。

あと脳みそも黒焼きにする。

みんな人胆丸という丸薬の原料になるんでな。

だが、これはお上の許しを得てやっていることだ。

だれにも文句を言われる筋合いはねえ」

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ひどいことをおしじゃないか

「ふん、おれたち山田のものはその稼業ゆえに未来永劫、血の穢れを背負うことになるんだ。

これくらいの役得がなくちゃ、やってられねえよ」

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……ところであたしの赤ちゃんはどうした

「腹の子か?

それならおまえを胴斬りにしたとき一緒に死んだはずだ。

仕方ねえだろう、産み月に満たない子どもは母親の命と一蓮托生だ」

そんなことを訊いているんじゃないよっ

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音もなく、女が立ちあがった。

眼球がこぼれるほど見開いた目で、じっと吉利のことを見おろしている。

あたしの赤ちゃんの亡骸をどこへやったかと尋ねてるんだ

よもや、おまえ……

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とても女とは思えない低くドスの効いた声だ。

吉利は、こういうとき見せる悪ぶった笑みを顔に張りつけ、

挑むような口調で言い返した。

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「がきの死体なら、胎盤と一緒に麻のふくろに詰めて、この家の軒に吊るしてあるぜ。

人胞という薬の原料になるんでね」

な、なんてことを……

女の全身がわなわなと震えだす。

彼女は、文字どおり血の涙を流していた。

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おのれえ 首切りあさえもん おまえそれでも人間かっ

あああ口惜しや 恨めしやな

この身のうちに宿りし怨念 晴らさずんばわが子の魂も浮かばれまいぞ

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とつぜん、女の体躯が倍くらいに膨れあがった。

振り乱した髪が、ろうそくの明かりを遮って障子にうねうねと長い影をつくる。

吉利は後じさって身構えると、刀の鯉口を切った。

刹那、女が獣のように咆哮しながら襲いかかってきた。

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抜きつけの一閃が、灯火を跳ね返してギラッと輝く。

手応えはなかった。

だが、さすがにひるんだのか、女は一歩退いたようだ。

吉利は半身になると、剣を八双に構えなおした。

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愚かなりあさえもん 怨霊が刀で斬れると思うたか

ケタケタと女が笑う。

応じて吉利の目が、一切の感情を排した半眼になった。

試し斬りをするとき見せる、いつもの目だ。

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「わが試刀術は、この一剣に全霊をこめてすべてを両断する。

二つ胴だろうが、三つ胴だろうが、怨霊だろうが、

なんでも斬ってやるさ」

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面白い やってみな

胸のまえにだらりと垂らした女の十指から、にょきにょきと長い爪が生えてきた。

先端がどれも小刀のように研ぎ澄まされている。

覚悟するがいい

その体ずたずたに引き裂いて あたしがされたように腹わた引きずり出してくれるわ

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女の影がぬっと膨れあがり、天井から覆いかぶさってきた。

同時に、吉利は一歩踏み込んでいた。

びゅっと風を切って剣が振りおろされる。

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今度はたしかに斬ったという感触があった。

その証拠に、ぎゃっという悲鳴があがった。

青白い人魂がすっうと尾を引いて、天井の暗がりへ吸い込まれてゆく。

同時に、女の姿は一瞬でかき消えていた。

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吉利は納刀すると、静かに息を吐いた。

女が立っていたあたりを見おろす。

床に、両断された護符が落ちていた。

そっと拾いあげてみると、それは入谷にある日蓮宗の寺のものだった。

本尊は、鬼子母神である。

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「こいつが、怨霊の正体だったのか……」

わが子の供養のために女が隠し持っていたのを、非人どもが取り忘れたのであろう。

こういうものには、得てして死者の情念が宿るものだ。

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吉利は、手のなかの護符を火鉢へ放った。

めらめらと炎があがり、まるで女の髪を焼いたようないやな臭いがした。

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「ちくしょう、なんだか冷えてきやがったな」

彼はぶるっと身を震わせると、綿入れのまえをかき合わせた。 

膳のまえにすわりなおし、残っていった酒を一気にあおる。

胃が、ぎゅっと縮むほど苦い酒だった。

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「まったく、嫌な稼業だぜ——」

鼻のつけ根にしわを寄せて、酒くさい息をつく。

見れば、仏壇のろうそくはいつの間にか三本とも燃え尽きていた……。

Concrete
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ええもん読ませてもらったわあと思ったら、あなた様でしたか…。
説明くさくなく、かといって説明不足でもなく、よい案配でした。
よかったです。

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