ひっぱられる《府内駅夜話》

中編5
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ひっぱられる《府内駅夜話》

━━私が悪いんじゃないわ!

マリは、もう何度目かわからないその言葉を、心の中でわめき散らした。

そうよ、私は悪くない。断ったのに、しつこくあの男が付きまとうのが悪いのよ。ちょっと突き飛ばしたくらいで、あんなによろけて側溝に落ちて頭を打つなんて、いったい誰が想像するの?

動かなくなったのだって、大げさに振舞っているだけよ。あそこで私が心配して声をかけたりしたら、相手の思うツボ。すぐにその場から離れるのが、正解だったのよ。絶対。

頭がクラリとして、マリは思わず壁に右手をついた。男と別れてからずっと、走るように足を動かし続けていたのだ。酸欠気味になっても仕方がなかった。

改めて周りを見回す。ここは、県内で最も大きなターミナル駅だった。夜十時を過ぎたというのに、行き交う人の姿は絶えない。今日は花の金曜日なのだ。人々の顔が皆イキイキと楽しそうに見えて、マリは思わず舌打ちをした。

しかし、この人の多さには助けられる。

マリは壁にもたれ、大きくため息をついた。

━━どうしてこんなことになってしまったんだろう。

くだらない一週間がようやく終わり、やっと明日は休みだというこの日に、ちょっと街で憂さ晴らしをしたいと思ったのが、間違いだったのだろうか。

いや、そんなはずはない。毎日真面目に仕事をしている私が、悪いわけがないわ。

全部悪いのはあの男。いかがわしい店の客引きだろうか、見るからに素行が悪そうな男だった。ちょっと話を合わせたら調子に乗って、肩に触れてきたりなんかして。思い出しただけで気持ちが悪い。

マリは眉間にしわを寄せながら、先程あったことを反芻する。

あの場所からここまで、二キロくらい歩いただろうか。高架下の薄暗い道だった。男の顔だってよく見えないくらいの。周りには誰もいなかったはずだ。人通りのない、静かな暗い道。男が頭を打った時の鈍い音が、今も耳から離れない。

考えのまとまらない頭を振りながら、これだけはハッキリしているとマリは自分に言い聞かせる。

ついさっきの出来事を、見ていた人は誰もいない。男に絡まれた自分を助けてくれる人も、その場から逃げ出したことを咎める人もいなかった。

そしてこの駅は、自分の生活圏の駅ではない。普段は滅多に来ない場所。今日来たのは本当にたまたまだ。運が悪かった。

誰にも見られていない。

誰も私のことを知らない。

だから、大丈夫。

マリがもう一度、大きく息をついた時だ。

「あの」

心臓が口から飛び出そうになった。

恐る恐る振り向いた先にいたのは、しかし心の中に思い描いた警官ではなく、気の弱そうな青年だった。

「な、なに?」

なんとか声を出すと、青年は躊躇うような顔をしながら言った。

「あの、もしよければ、占って行きませんか? きっと、あなたの力になれると思うんです」

「はぁ?」

「いや、僕の先生がそう言ってるので、絶対悪い話ではないですよ。お金もとりません。ぜひどうぞ」

また勧誘? もう、いい加減にして!

「結構です!」

マリは叫ぶようにそう言って、その場を駆け出した。

なんなのよ、あの子。鬱陶しい髪型して!

・・・・・

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広い構内をめちゃくちゃに歩き回り、片隅にあるコインロッカーの陰でマリはようやく立ち止まった。乱れた息を整える。

時間を確認すると、まだ終電には余裕があった。ほっと胸をなでおろす。

さっさと帰ってしまおう。家に帰れば、きっと何もかも元通りよ。さっきのあの男だって、大した怪我であるはずがない。明日になれば眼を覚ますに決まっている。

早くこの場所を離れて、日常に戻りたい。くだらないといつも見下している職場や同僚たちが、今はなんだか恋しかった。

改札口へ向かうため踵を返した時だ。

「ちょっと、貴女」

また声をかけられた。今度は、驚いて飛び上がってしまったかもしれない。

マリは泣きそうな気持ちで振り向いた。

そこには、細面の若い女が微笑みを浮かべて立っていた。

「突然ごめんなさい。ただ、少しだけ気になってしまって」

「………」

女はマリの警戒した様子に苦笑しながら続けた。

「帰るときには、鏡に気をつけてね。鏡は貴女の心の中の、隠した真実を映すから。ひっぱられちゃうわよ」

「な、なにを、言ってるの…?」

マリはなんとかそう言った。さっき走った時よりもずっと、息が苦しい。

「貴女の良心、と言えばいいのかしら。それをつかんでひっぱろうとしている奴がね、」

若い女はそこで言葉を切って、ふと視線を少しだけ上に向けた。

「いま、貴女の頭の上にいるわ」

マリは思わず頭上を見上げる。目に映ったのは、薄く灰色に汚れた駅の無愛想な天井だけだった。それだけのはずなのに、背中に氷を入れられたように、悪寒が全身を駆け巡る。

視線を女に戻す。端正な顔で微笑むその女が、マリにはひどく恐ろしいものに見えた。

マリはなにも言うことができず、よろけながら足早にその場を立ち去った。

・・・・・

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無我夢中で改札を抜け、やっとの思いで電車に乗り込む。車内の表示を確認すると、確かに家路へつくための電車だった。

マリは大きく安堵の息をついた。

今日は本当に、散々な一日だった。

マリは今日の思い出を振り払うかのように、頭を二、三度強く振る。

忘れてしまおう。家に帰りさえすれば、何もかも元通りなんだから。何度も自分にそう言い聞かせた。

アナウンスとともに、扉が閉まる音がした。マリはなんだかホッとして、伏せていた顔を上げた。

目の前の窓に、自分の顔がはっきりと映っていた。乱れた髪、青ざめた頬。

そしてもう一つ。自分の顔に重なるようにして映る、血を流した男の顔。

━━鏡に気をつけて。

誰かの言葉がグルグルと頭の中を回る。

男が嬉しそうに血まみれの口を開けて笑うのが、窓に映る自分の顔が悲鳴の形にゆがんでいくのが、マリの目に映った。

・・・・・

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『それでは、次のニュースです。

昨夜未明、府内駅近くの高架下にて、男女の遺体が発見されました。

女性は所持品から、市内の会社員大谷真里さん(38)と判明しました。

大谷さんは、昨夜府内駅から二十二時四十三分発の電車に乗るところが防犯カメラで確認されていますが、その後の足取りはわかっていません。

被害者二人の関係性は明らかになっていませんが、警察はなんらかのトラブルがあったとみて、捜査を進めています』

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