長編9
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黄昏れの白い家

「ママー」

「……」

「ママー!」

「なぁに…!」

苛立った女の声が聞こえる。

「ママー!」

「なに!!居るよ!ここに!」

女はさらに苛立った声を上げてすごむ。

築38年、スカイコートと言う団地風の4階建てマンションに僕たち親子は住んでいた。パパとママ、僕と2歳離れた妹のハナ。四人でのつつましい暮らし。中村橋駅から歩いて5分ほどのエレベーターの無いマンション。その1階が僕たちの部屋だった。

2LDKでフローリングのリビングにガスコンロが二つのキッチンと言うより台所、その他に和室が一つ洋室が一つ。風呂はバランス釜。お世辞にも裕福とは言えない環境だったが、他の家庭を知らない僕らにはこれが普通だった。

23歳の春、僕はかつて住んでいたスカイコートの廃墟にそっと手を触れている。あの日以来姿を消してしまったパパがまだここにいる様な気がする。建屋の外壁に手を当ててそっと目をつぶってみる。あの風の強い夜のことが目に浮かんできた。

「ねぇ、君たち。ママは明日お友達と夜、ご飯を食べに行きたいの。そんなに遅くならないからばーばと一緒にいてくれる?」

ママが僕らに向かって取り繕った笑顔で語りかけた。僕がゆっくりとうなずくと、妹のハナも目を丸くしながらうなずいた。当時、僕は5歳、ハナは3歳になったばかりだった。冬と言うのに風の強い日だった。立て付けの悪い窓が、時々ガタガタと音を立てていて怖かった。

「心配ないよ。パパが近くに居て守ってあげるから。」

パパはそっと僕とハナの頭を撫でてくれた。僕は黙ってうなずいた。小さな僕にとって、パパの手は大きくて心強かった。ママは不安な僕らのことなど気にも留めず、意気揚々と明日着ていく服を選んでいた。

そんな日は、決まって母の瞳の奥にあの男の姿が透けて見えた。小柄なママに対してスラっと手足が細長く、厚い髪をセンターで分けた黒縁メガネのあの男が。

小学校3年生の夏、学校から帰ってくるとマンションの入口に知らないおじさんが立ってこっちを向いていた。外国の野球チームの帽子をかぶり、白いシャツを着た、日焼けした祖父と同じくらいの背格好の人。玄関に向かう僕の方に近づいてきて話しかけてきた。

「おじさん、目が悪いんだ。ちょっと杖をなくしちゃってね。すぐ近くに住んでいるんだけど、トイレに行けなくて困ってる。ちょっと、助けてくれないかなぁ。」

おじさんはニコニコしながら僕の方に手を伸ばしてきた。反対の手はズボンの中に入れて何かゴソゴソと動かしている。

僕は「知らない人について行っちゃいけないんだ」と思いつつ、おじさんに手を掴まれてしまい仕方なくウチとは反対の方へつま先を向けた。その時だ、パパが凄い顔でおじさんを睨みつけながら近づいてきた。その顔は目が光り、口から青白い煙の様なものすら溢れていた。

「おい、離せ。」

パパはそう言いながらおじさんの首を後ろから右腕でぐいっと掴み、おじさんの顔を自分の顔に近づけた。知らないおじさんは真っ青な顔をして目を見開き、唇を震わせて「うぇっ!」と声にならない声を上げて後ずさった。

「二度とこの辺りをうろつくな。次は殺す。」

パパの口から青白い光がただよい、おじさんは尻もちをつきながら去っていった。その後、おじさんは先の交差点に飛び出して行ってトラックに轢かれそうになりながら走り去っていった。

「おかえり~」

うちに帰ると何も知らないママが呑気にワイドショーを見ながら煎餅を食べていた。

時々僕は、知らない町の夢を見た。その町はどこか見覚えがあって、いつも夕方だった。時々聞こえてくる電車の汽笛の音。住宅街をたまに行き交う乗用車。犬の散歩をしているおばさん。このおばさんも見たことがある。誰だろう。

そして見覚えのある2階建ての白いおうち。入ったことはないはずなのに間取りまで知っている。玄関の前には白いミニバンが止まっている。扉を開けると右手にリビング。左手に和室と仏間があり、二階には寝室と僕とハナの部屋がある…僕とハナの部屋!?そんなはずはない。ここは僕の夢の中だけの町だ。

そんなことを考えながらその家を眺めていると、二階の窓から決まってパパが夕暮れを眺めていることに気づく。「パパ…!僕だよ、僕の夢の中で何してるの?」声にならない声、全てがゆっくりになり、僕の体も思うように動かなくなる。声が出ない。「…。」

ここでいつも、体をこわばらせながら目が覚めるのだ。目からは決まって涙が流れている。

小学校4年生の時、ハナがとしまえん遊園地に行きたいとママにねだった。あまり裕福ではなかったので、遊園地は数えるほどしか行ったことがなかった。僕もまあまあ乗り気だったが、なぜかママが一番乗り気だった。

「今日はね、ママのお友達も一緒に行くんだよ。遊園地の中で好きな乗り物に乗せてくれるって!」

ママは少し自慢げに言った。パパは黙ってついてきた。

「やぁ、大きくなったなぁ、カズマ君。ハナちゃん、前はまだ赤ちゃんだったね。」

ママのお友達は田川さんと言う人だった。歳はパパより少し若いくらいだろうか。少しこわばった笑顔で僕らに話しかけてきた。どうやら僕やハナがまだ小さいころ会ったことがあるらしい。

その当時のことは全然覚えていない。でも僕は田川さんのことを知っていた。ママが時々、意気揚々と夜出かける時、瞳の中に写っていたあの男の人だ。田川さんは僕のことをちらちらと横目で見ながら、どこか余所余所しい表情で園内を歩いた。ハナは無邪気に田川さんと手を繋いでいた。

僕が小学校5年生の頃、いつもの様にママはハナを僕に任せ、夕方出て行った。夕飯は冷蔵庫に用意してあった。ママがいない日はパパと3人でゲームが出来るから楽しみだった。

ママはいつもなら10時頃ほろ酔いで1人帰ってくるのだが、その日は相当に酔っ払い、田川さんに担がれて帰って来た。

「ねえ田川ぁ、今日は泊まってってよ〜。」

女の顔を見せる母を初めて見て僕は正直イヤな気分になった。田川さんも初めは乗り気じゃなかったが、ママが執拗に田川さんの体を撫で回すので気分が変わってきたらしい。

「今日はお邪魔しちゃってもいいかなぁ。ママもこの調子じゃ大変そうだし。」

田川さんは冷静を装っていたが口角が上がり、目つきもいやらしいものになっていた。パパは部屋の隅に棒立ちになって田川さんをじっとにらんでいた。その夜、事件が起こった。

田川さんの最後は壮絶なものだった。何かを大声で叫びながら、マンションの四階まで駆け上がり、非常階段の柵を足をからめ転げながら乗り越えて、そのまま屋上から転落した。

仰向けに転がった体から伸びた手足はあちこちを向き、顔が地面にめり込まんばかりに反り返って口からは血が流れていた。一目で死んでいることが分かった。その日からパパはいなくなり、ママは廃人の様に笑わなくなった。

「カズト」

耳に心地よいあの優しい声が聞こえてきた。僕は目を開けつぶやいた。

「パパ…!」

僕はマンションの廃墟に手をついたまま振り返った。パパは居なかった。ただ、一枚のメモ用紙が僕らの住んでいた部屋の方から目の前に落ちた。その古びたメモ用紙には、パパの字で調布市の住所が書かれていた。

そのメモに従っていくと、僕の夢に何度となく現れたあの町にたどり着いた。あの犬の散歩をしていたおばさんは犬を連れておらず代わりに杖をついて散歩していた。遠くに電車の汽笛の音が聞こえる。夕暮れではない。まだ午後の二時だ。僕は夢を思い出しながらあの白い家のある場所を見た。

そこはコインパーキングだった。夢で見たよりも何もかも古びてしまっているが、何もかも夢のままだった。ただ、あの白いおうちだけが実在しなかった。僕は複雑な気持ちでコインパーキングの方を眺めていると、杖をついて散歩していおばあさんに声をかけられた。

「もしかして、山崎さん…?」

うかがうような、なにか申し訳なさそうな口調でおばあさんはじっと僕の顔を見た。

「はい。そうですが、なぜ僕のことをご存じなんですか?」

僕はそこで、はじめて幼少期、この町に住んで居たことを知った。僕がパパによく似ていること、20年ほど前、僕たち家族はここに新築の家を建ててわずか1年ほど住んでいたこと、その後、僕とハナを連れてママが家を出て行ったこと。

「お父さんのこと、お気の毒だったわね。」

おばあさんはそうぽつりと呟いて、コインパーキングの隣の家に複雑な顔で入っていった。涙を浮かべている様にも見えた。僕もなぜか涙を流していた。あの夢のあとの様に。

僕はいたたまれず、近くの公園のベンチに座り物思いにふけた。そして、調べるべきか悩んだ挙句、事故物件検索サイトを検索した。

『20○○年 東京都調布市〇〇-×× 戸建て住宅の二階で首つり自殺 現在はコインパーキング』

後日、戸籍をたどってパパに兄がいることが分かり新座市へ向かった。パパにはあまり似ていないおじさんだったが、僕の訪問を大いに喜んでくれた。二度と会えないと思っていたと、叔父は神妙な面持ちで言った。

「カズトさん、大人になったからもう話してもいいかな。途中、聞きたくなくなったらいつでも話をさえぎってくれて構わない。」

叔父は僕のグラスにビールを注ぎながら、なおも神妙に手を震わせてパパのことを話してくれた。子どもの頃のこと、育った田舎の町のこと、就職で東京に出てきたこと。そしてママと知り合って結婚したこと。

「この先は、ちょっときつい話になるが、いいか?」

身を乗り出すようして僕に顔を近づけ、座り直して改まった調子で訊いた。僕はじっと叔父の目を見ながら、構わないと伝えた。

叔父の話によると、パパとママは結婚して僕が生まれた後、調布市に家を建てた。パパはとにかく子煩悩だったという。休みの日にはミニバンを走らせ、スーパーに食材を買い出しに行く。平日も寝不足のママを気遣い炊事、洗濯となんでもこなす出来すぎた夫だったと。順風満帆だった、ように見えた。だがそこに1点のほころびが見え始めた。ハナが一歳になるあたりから、夫婦は急によそよそしくなった。

「カズトさんのお母さん、平日の夜や土日、お父さんに2人を任せて頻繁に家を空けるようになったんだよ。お父さん、優しかったからさ。いいんだ~って、ママの気晴らしになれば。俺も子供たちと一緒に居られるしって。最初はそう言って笑ってた。でも、だんだん夫婦仲がおかしくなってきて。俺、見たんだよ。お父さんより少し若いくらいの男とお母さんが腕組んで駅の改札の前まで一緒に歩いてきたとこ。あちゃ~、ってなったんだけどさ。」

僕はとっさに田川の顔が目に浮かんだ。

その後、パパはママに携帯を見せるよう問い詰めたがママはかたくなにそれを拒んだらしい。ママが預金を使い込んでいたことも発覚し、いよいよパパとママは険悪になっていく。その数日後、ママは僕とハナを連れて実家の近くに逃げるように移り住んだ。自分の両親や親せきにはパパからのDVに堪えられないと嘘までついて。

「DVに証拠なんていらないんだってさ。夫にDVを受けてるって役所に相談すれば嘘でもみんな役所が面倒見てくれる。そーゆーの、専門でやってる悪徳弁護士もいるんだってさ。」

叔父はやるせない様子で語った。そして娘の嘘に騙されているとも知らず、両親の資金援助で狡猾な弁護士を雇い、DVをでっち上げ、役所や警察にまで虚偽の申告をしてパパから僕たちを引きはがした、と言う事らしい。パパは何度もママに手紙を送り、不倫を問い詰めたことを詫び、僕達に会いたいと懇願した。

事実を曲げてでも、自分のプライドを傷つけてでも、パパは僕たちに会いたかった様だ。だが、ママは田川との夜遊びに興じまったく聞く耳を持たなかった。それどころか弁護士をけしかけて慰謝料までせびろうとしたらしい。更にママは、不倫を問い詰められた腹いせにパパと僕たちを一切会わせず、近所にもDV夫の悪評をいつの間にか流してパパを追い詰めた。

そして、パパは自殺した。あの白いおうちの2階で。連絡が取れなくなって心配した伯父がパパの家を訪れると、ぼーっと夕焼け空を眺めていたんだって。下からいくら呼んでも答えないから、それで様子がおかしいと思って。ドアには鍵がかかっていなくて。夕焼け空を眺めるように首を吊っていたんだって。

僕達に会いたくて、生きていると会えないから、パパはおばけになっちゃったんだね。

そして、僕達を守ってくれていたんだね。

ありがとう、パパ。

Concrete
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