長編8
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Rose and Daisy

「Rose and Daisy」は、場末の古びたバーだ。

照明を落とした店内にBGMはなく、かといって寂しい印象もない落ち着いた店だった。

マスターの柏万里(かしわばんり)が一人で切り盛りするこの小さな店は、もとは彼の祖父が経営していた喫茶店だった。そのため、飴色に磨かれたカウンターや布張りの椅子には、今でもコーヒーの匂いが染みついている。

カウンターの奥には古めかしいサイフォンと、二つのアンティークなガラス製のキャビネットが並んでいた。

一つには、喫茶店時代に使っていたであろう華やかなコーヒーカップ達が、今でも時折訪れる出番を静かに待っている。

もう一つには、一枚しかない往復切符、ヒビの入った腕時計、煙管、染みのついたハンカチ、眼鏡など、由来も理由もよくわからないものたちが、雑然と並べられていた。

・・・・・

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二十一時を回ろうかという頃、コロンというドアベルの音と共に、常連客の坂本千尋(さかもとちひろ)がやってきた。

薄暗い店内には、女性の一人客が隅のテーブルに座っているだけだ。千尋は真っ直ぐに、万里のいるカウンターへ向かう。

「いらっしゃい、千尋くん」

「こんばんは、マスター」

予約をしたわけでもないのに、席に着く頃にはいつも頼むシャンディガフが用意されていた。ゆっくり半分ほど飲み干すと、爽やかな甘みと苦味が喉を通り抜け、千尋は深い溜息をついた。

「なんだか疲れてるみたいだねぇ」

万里の言葉に頷くと、自然ともう一つ溜息が漏れる。

「最近、親がうるさくてさぁ」

「なんて?」

「…早く結婚しろって」

万里は一瞬面食らい、その後声を上げて笑った。

「よりによって君に?」

「笑い事じゃないよ、マスター。マジで勘弁してほしい」

「でも、君お兄さんが二人いるんじゃなかったっけ? 順番的にそっちが先でしょう」

「それがさぁ…」

グラスの残りを煽る。すると、すかさずウーロン茶が小さなグラスで出てきた。千尋は酒に弱い酒好きで、長くここで楽しむためにはアルコールとノンアルコールを交互に飲む必要があった。

それを熟知している万里に目だけで感謝を告げ、千尋は続けた。

「まず前提なんだけどさ、うちの家系は女に恵まれないんだ。本当か嘘かは知らないけど、先祖から粗末に扱われて死んだ妾の呪いなんだって」

「うんうん」

「で、実際親戚にいる女はほとんどが、養女か嫁に来た人ばっかり。俺も兄貴が二人だけだし、親父も三人兄弟、じいちゃんに至っては男ばっかり六人。いとこもみんな男」

「あぁ、ご両親の気持ちがわかった」

「うん、俺もわからないわけじゃないんだ。特に母さんとばあちゃんは、とにかく女の子を欲しがってる。可愛がりたいんだってさ」

「で、君に白羽の矢が立ったと」

「そうなんだよ…」

万里は気の毒そうな声を出しながらも、喉の奥でクックッと笑った。笑い事じゃないと、千尋は目でそれを責める。

「でも、千尋くんまだ二十三だっけ? やっぱりお兄さん達が先の話でしょ」

千尋は、今日何度目かわからない溜息をついた。

「一番上の兄貴はさ、晴海(はるみ)っていうんだけど、これはもう結婚してるんだ。で、こないだめでたく子供が生まれた」

「それは…」

「男の双子。しかも、奥さんは体があんまり丈夫じゃないから、子供はもうこれで打ち止めにするんだと」

「おやおや。じゃ、二番目のお兄さんは? たしか、こないだ一緒に来てくれたよね」

万里は記憶の中を探るように、一瞬目を泳がせた。

「千尋くんにはあんまり似てない、お酒が強くてイケメンの」

「若白髪でな」

「渋い感じの」

「老けてるだけだって。そう、それが伊織(いおり)兄ぃ」

「君達兄弟、みんな顔に似合わず名前が可愛いよね」

「ばあちゃんが付けたんだよ。女の子ができないならせめて、ってな」

「おばあちゃん、執念だねぇ」

苦笑しながら、万里はチラリと店の隅に目をやった。

千尋もつられて見ると、先ほどの女性が一人、こちらの会話に耳を傾ける様子もなく、俯き加減でテーブルに置いた自らの手を見つめているだけだった。

でも、とふと千尋は思う。

あの人、もっと奥の席に座ってなかったっけ?

首をかしげる千尋の前で、なぜか万里はカウンターの奥からサイフォンを引っ張ってきた。

白い布巾で軽く拭いてから、下のフラスコ部分に水を入れる。アルコールランプに火をつけ、上の漏斗にフィルターとコーヒーをセットしながら口を開いた。

「それで?」

「あ…、それで、その伊織兄ぃなんだけどさ」

促され、流れるように動く万里の手元につい見とれていた千尋は気を取り直して続ける。

「そこそこモテるんだけど、全然女っ気がねぇの。それどころか、大学卒業した時に親に『将来結婚するつもりはないから先に謝っとく』って宣言しちゃってさ。理由は言わなかったけど、それで尚更、親は伊織兄ぃのことゲイだと思い込んじゃって。そっち方面の話は全然振らなくなったんだよ」

「ふぅん」

「でも伊織兄ぃ、ゲイの匂いはしないんだよなぁ。なんであんなに枯れてんのかは、わかんないけど」

「枯れてるわけじゃないでしょ。まぁ、お兄さん見てたらなんとなく、理由わかるけどね」

万里は思わせぶりなことを口にする。千尋は驚いて万里を見た。

「マスターそれ、どういうこと?」

サイフォンは沸騰が始まり、芳しい香りが立ち込め始めた。万里は千尋には応えずサイフォンから目を離さないまま、紙製のコースターをそっと差し出した。

『ふりむくな』

書き殴られたそれを見た瞬間、千尋の背中に怖気が走った。

まるで巨大な冷凍室を背にしたように、全身の毛が逆立つ感覚。

何かが背中に立っている。

両肩に、氷のように冷たい手がかけられた。後ろから千尋の顔を覗き込むように何かが動く気配。視界の端に長い髪の毛のようなものが映る。

わけもわからず、千尋の体は恐怖に支配された。振り向くどころか、指先一つ動かせない。背後からの冷気で体が凍ってしまったようだった。

「ば、万里さん…」

絞り出すような千尋の声を無視し、万里はゆっくりとコーヒーの抽出が終わるのを待っていた。

コーヒーがすべてフラスコ部分に落ちると、万里はそれをターコイズブルーのカップに注ぎ、カウンターに差し出した。

「お客様、お帰りの前にこちらをどうぞ」

「……」

「そしてどうか、お一人でお帰りください」

「………」

言葉の出ない千尋の後ろで、何かが揺らぐ気配がした。細い指が千尋の首に絡みつく。苦しくはなかったが、千尋は喉の奥で声にならない悲鳴をあげた。

「ダメですよ。千尋くんは、僕のものですから」

万里の声に、背後の何かの揺らぎが激しくなる。

次の瞬間、ガラスをこすり合わせるような耳障りで甲高い音が耳を貫いた。千尋は思わず、動かなかったはずの両手で耳を塞ぎ、目を瞑る。

恐る恐る目を開けた時には、カウンターに置かれたコーヒーカップは粉々に砕け散っていた。しかし、中に入っていたはずのコーヒーは一滴もこぼれていない。

「千尋くん、大丈夫? 怪我しなかった?」

万里の気遣う声に、千尋は全身の力が抜けるような安堵感を覚えた。

気づけば、背後の冷気も首に絡みついていた指の感覚もなくなっていた。

「万里さん、今のは…?」

「あれ。千尋くん、知らなかったっけ? うちは、時々ああいうお客さんが来るんだよ」

「ああいう…?」

まさかと、千尋は振り返る。予想を裏切らず、奥の席でうつむいていた女性の姿は煙のようにかき消えていた。

「まぁ、いわゆる幽霊ってやつ? それだけじゃないけどね」

言いながら、万里はカウンターに散った陶器の破片を手際よくつまんでいく。やがて綺麗になったカウンターの上には、銀色の指輪が残されていた。

「あーあ。カップ壊された挙句、またいわくつきのものが増えちゃったよ」

万里は手のひらに乗せたそれを千尋にも見せてくれた。何の飾りも付いていないシンプルな指輪だったが、なぜか一箇所、環が途切れていた。

「これ、さっきの…?」

万里は頷きながら、カウンターの奥のキャビネットに指輪をそっとしまった。

ガラスの向こうの指輪やその他の奇妙な物品には、まるで思いもよらなかったような由来があることを千尋は悟った。

「あれ、何だったんですか? ていうか万里さん、まさか寺生まれ?」

サイフォンを片付け始めた万里に改めて訊いたが、「さぁ?」と首を傾げられた。

「欠けた指輪から察するに、恋愛がらみの恨みがあったのかもしれないけど。幽霊の事情なんて知らないよ。あと、僕は普通のサラリーマン家庭。まぁ、色々とね」

「色々って…。いつも、あんな感じで追い返してるの?」

「追い返すって、人聞きが悪いな。タダでコーヒー飲んで、その上カップ割っちゃって、こっちには損失しかないんだから。出禁にしないだけありがたいと思ってもらわないと」

「すればいいのに」

「ここは元々じいちゃんの店で、その時からやってることだからね。なんだかやめられなくて。なぜか、常連さんもいるし」

仕方が無さそうに万里は言ったが、その表情はまんざらでも無さそうだった。

人ならざる者たちは、このマスターの人柄に惹かれてやって来るのかもしれない。自分と同じように。そう千尋は思った。

「でも、もうあんなに怖いのは勘弁して欲しいなぁ」

先ほどの恐怖を思い出し、千尋はもう一度身を震わせる。「怖がらせちゃってごめんね」と万里は苦笑しながら、湯呑みを千尋の前に置いた。湯気とともに、玄米茶の香ばしい香りが立ち上る。

その温かさと穏やかな万里の笑顔に千尋の心は癒された。

「ちょっと早いけど、今日はもう閉めるよ。千尋くん、ゆっくりそれ飲んでて」

玄米茶をすする千尋をおいて、万里は店の入り口に向かう。「Close」の札を掛けながら、「そういえば」となんでもないことのように千尋の背中に話しかけた。

「千尋くん、やっぱり振り返らなくてよかったよ」

「え? あぁ、あの時は、振り返るどころか体が全然動かなくて」

「生存本能かな。それが正解だよ」

「…あの、どんな顔してたんですか?」

喉元過ぎればなんとやら。呑気そうな万里の口調も手伝って、好奇心が頭をもたげる。あんなに恐怖させられて悔しい思いもあった。

万里は事も無げに言った。

「ムンクの『叫び』ってあるでしょ。あんな顔してたよ。で、目玉は左右全然違う方向にグルグル動いてた。他の部分は美人そうな雰囲気醸し出し出たのに、顔だけソレ。見様によれば、ちょっと滑稽かな」

あっけらかんとした万里とは裏腹に、千尋は腹の中に重い石を入れられたようにうなだれた。頭の中に想像してしまった女の顔が、先ほどの恐怖と一緒になって襲いかかってきたのだ。

「聞かなきゃよかった…」

「あれ、また怖がらせちゃった?」

うなだれる千尋の肩に万里が手を置く。耳元に唇を寄せ、そっと囁いた。

「お詫びってわけじゃないけど、今晩うちにおいで」

耳をくすぐる吐息は温かく、澱のように溜まった恐怖を溶かしてくれた。と同時に、千尋の下半身にダイレクトに響く。

振り向くと、万里は心がざわつくような艶のある微笑みを浮かべている。

『千尋くんは、僕のものですから』

女の幽霊と対峙した時の万里の言葉が、頭の中でこだました。

「…はい」

耳まで赤くなった千尋の素直な返事に、万里は満足そうに頷いた。

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怖いというより、お洒落で粋な話だと思いました。
昔のラジオ番組を思い出しましたよ(≧▽≦)

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