中編5
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◆稲荷屋◆

その日飲み過ぎた私は憂鬱な気分で自宅へ向かっていた。威張り散らす上司と飲む酒は大層不味く、会社の為なのか自分の為なのか、よくわからない現状を維持する為なのか、人付き合いとは非常に面倒なものだと飲みの席の後は痛感させられる。

道中、ふらふらとした頭をすっきりさせる為に自販機で水を買って、半分くらいを一気に腹の中に注ぎ込むと少しばかり楽になった代わりに今度はじわじわと頭が痛くなってきた。

もしこれが嫌な事を普段から我慢し、ストレスを貯金額よりも数倍以上に溜め込んできた事の代償だとしたら、いよいよ何の為に仕事をしているのかわからなくなってくる。

そうやって嫌な思い出ばかり振り返っていると全く知らない道を歩いている事に気がついた。周りを見るが見覚えのない風景で、遠くを見てもビルも住宅もない田舎の一本道。今さっき水を買った自販機がどこにも見当たらない。まさか酔っ払って訳の分からない駅で降りてこんなとこまで来てしまったのかと思ったが、飲み過ぎただけでそれ程酔っ払っていたわけではない。

さてどうするかと途方に暮れていると、遠くの方に光が見えた。民家かと思い、道を訪ねようと小走りでそこまで向かう。光の正体はこじんまりとした居酒屋だった。

やけに年期の入った家屋ですりガラスの引き戸の横には、その辺に落ちていた様な縦長の木の板に綺麗とも汚いとも言えない何とも中途半端な字で"営業中"と書かれているが、暖簾には"屋荷稲"と達筆な字が書かれていた。何から何まで古風な佇まいの居酒屋だ。

引き戸を開け、暖簾をくぐると、「いらっしゃい!」とこれまた古風な格好の店主が出迎えてくれた。捩り鉢巻きなんて初めて見たかもしれない。

客は私だけで、店主の前のカウンター席に座ると「なんにします?」と皺だらけの笑顔で聞いてきた。

流れで席に着いてしまったが、ただ道を訪ねる為に来た事思い出した。しかし、適当に疲れているし、何となく居心地の良いこの場所で少し休むことにした。

「おすすめは?」と聞くと「少々お待ちを」と皺だらけの笑顔で何かを作り始めた。

改めて店の中を見ると雰囲気は昭和の居酒屋のような、なんともレトロな店だ。所々に狐の面が飾ってあり、他にもぬいぐるみや置物にポスターも全て狐で、なるほど、それで稲荷屋か、と納得した。

その内「お待たせ」と出てきたのは稲荷寿司だった。

なるほど、稲荷屋ね、と再び納得した。

3つあった稲荷寿司をあっという間に平らげた。食べ終わってから気がついたがいつの間にか頭痛も治っていた。

「こんな美味い稲荷寿司食ったの生まれて初めてですよ」

「そうでしょう。なんせおすすめだからね」

皺だらけの店主は笑顔で更に皺だらけになってそう答えてくれた。豪快な性格なのだろうが、稲荷寿司の味は真逆でとても繊細で、優しいと言うか懐かしいと言うか。舌だけでなく心も満足させてくれる味だった。お袋の味って言うのは恐らく口にするとこういう感じなのだろう。母親を小さい時に亡くした私にはわからないことなのだが。

そんなことを考えていたら「あっ」と、本来の目的を思い出した。

「実は道に迷ってしまいまして…、ここってどこなんですか?近くに駅とかあります?」

簡単な質問の筈なのだが、店主は目を丸くして口をあんぐり開けて随分と驚いた表情で私を見ている。

「お前さんわかんねぇでここまで来たんか!そりゃ困ったぞ…」

どうやらかなり偏狭な地へ迷い込んだらしい。やっぱり酔っ払っていたのだろうか。

店主は「そうか、そうか」と頭を掻いて考え込んでいると今度は「どうしたもんか」と腕を組んで悩み始めた。

「あの…道を教えて貰えれば大丈夫ですよ。自力で帰れますから」

「いや、いかんのですよ。ワシも詳しく知ってりゃいいんだが、ここは偶然なんかで来れる場所じゃないんだよ。まさか偶然ここに来れる人間がおるとは…、いかんなぁ」

店主は随分と深刻そうな声で私にそう言った。

「あの…、ここは一体」と質問すると引き戸がガラガラと開いた。

店に入ってきた男は「久しぶりだね。相変わらず?」と店主に笑顔で挨拶した。

「おお!いくちゃんじゃねぇか!久しぶりだなぁ。いつものかい?」

どうやら常連さんらしい。

「ああ、いつものお願い。弟さんも元気かい?」

「おお、あいつも相変わら………あっ!いくちゃんいいトコに来た!」

店主が私を指差して、いくちゃんとやらに経緯を説明した。

「成る程ね。偶々此処に来るなんて随分と運の良い青年だ。じゃぁ、彼は僕が連れてくよ」

男は椥辻生雲(なぎつじいくも)と言う名の骨董集めが趣味のしがない青年だそうだ。稲荷寿司30個を待つ間ここについて彼から聞いたところによると…。

ここは狐の店主が営む…ともう出だしから訳が分からないがとにかく、狐の店主が営む居酒屋で、ここへ訪れるのは妖怪やら幽霊やら椥辻さんのような変わり者だけだそうだ。因みに数百年営むこの店に私みたいに偶々やって来た人間は初めてらしい。

「おめでとう。歴史を塗り替えたね」と説明の最後にそう言われた。

「いくちゃんお待たせ。じゃぁ、悪いね。その子頼むよ」

と彼は風呂敷に包まれた稲荷寿司を受け取って「それじゃぁ、またね」と店主に挨拶をすると店から出て行こうと歩き始めた。慌てて彼について行こうすると「おお、少年!」と店主に呼び止められた。

「多分、もうここに来ることはないだろうからな。ほら、持ってけ」と稲荷寿司を包んだ風呂敷をカウンターにどんっと置いた。少し時間が掛かったのはこのせいだったのか。

「えっ、でも、今手持ちが…」と言うと店主は皺だらけの豪快な笑顔で

「構わねぇよ!店主の粋な計らいだ!がはは!」

しばらく彼について行くと突然「空、見てご覧」と言われ空を見上げた。どこかで聞いた言葉を使うと宝石箱をひっくり返したような満天の星空がそこには広がっていた。

「綺麗だろ。此処ら辺は明かりが全然無いからね」

しばらく夜空を見上げて歩いていると、ごぉーっと車の走る音が聞こえた。視線を落とすとそこには見覚えのある風景が広がっていた。

どうやら戻ってこれたらしい。

「恐らく君があの店行く事はもう無いよ。と一概には言えないけど、まぁ九割九分九厘無いだろう。不思議な体験が出来て運が良かったね。それは味わって食べなさいな」

彼はそう言うと「それじゃぁ、さようなら」と去っていった。

今の所あの店に再び訪れた事はない。またあの稲荷寿司を食べたいと無性に思うが、可能性が無いのならもう訪れる事はないだろう。

あの出来事の翌朝、私は渡された稲荷寿司をちまちま大事に味わって食べていた。もしまたあの店に立ち寄る事が出来るなら、ちまちまと気にせずにたらふくあの稲荷寿司を食べたいものだ。

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